人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

おもしろくなくて やがて悲しき 純文学

 もうずっと前からダメだダメだと言われつづけたきた日本の純文学業界。

 (現代日本)文学(業界)の息の根を(世間的にも)完全に止めたのは、又吉とすべきだろうか、早稲田文学まわりの早稲田閥にすべきだろうか、それとも北条裕子が、首級をあげて、最後に手柄を全部持っていったいうことになるのだろうか。

 もしくはニューアカとかポストモダンとかいうよく分からんものが「ブイブイ」いわせていた頃に既に殺されるか、老衰死していたものだろうか。仮にそうだとしても、その頃はまだ文学には権威めいたものが残っており、世間も音楽や美術などの芸術分野への態度と同じように「それなりの敬意」をもって接していた(敬して遠ざけていた)はずだ。

 誰が完全に純文学を殺したのか。又吉だったか、早稲田だったか、北条だったか。

 

 もう何年も前のことを記憶だけで書くので、ある小説家と漠然とした言い方にしておくが──ある作家が、SNSでこのように書いていたのが回ってきた。

「僕がデビューした頃、評論家はこぞって「文学は終わった」と言っていたものだが、この頃では誰もそんなことを言わなくなった(大意)」

 この言葉はどういう風に解釈すべきか? つまり、文芸評論家みたいな信用できないやつらは勝手なことを言っていたが、今もこうして文学は生き残っているではないかという誇らしさにあふれた言葉なのだろう。

 しかし、本当にそうかなと思って私の心は暗くなった。

 実際には、彼がデビューした頃はまだ、文学にも攻撃されたり、けなされたり、否定されたりするだけの価値や権威があったということではないか。特にかけだし、売り出し中の評論家が、標的にして小銭を稼ぐと同時に名前を売りたいと望む場合には。それでも充分さみしいが、その頃はまだ、文学にも最後の輝きがあった。輝きと言っていいかは微妙だが。

 

 もっとも、自称文芸批評家・評論家が信用できないという意味では異存はない。

 特に彼らが文芸誌に書く場合には、もしくは新聞に書く場合には。

 もしも現代の文芸批評家・評論家になすべき仕事があるとすれば、その第一は、誰が文学を殺したのか? という謎に答え、いつ文学は死んだのか? と特定してやることだろう。いつまでも腐肉をあさったり、亡霊を出し物にして木戸銭稼ぐのは悪趣味に過ぎる。

 ただし、その仕事は文芸誌には掲載されない。

 だから発表する場としてはブログが最も適当だ。(古風に個人サイトでもいいし、もっと古風に同人誌でもいいが)

 もはや文芸批評はブログでしか可能でなく、「美しい顔」のような小説を書けないと自認する創作者は同人をつくって、あたかも秘密結社のように暗いところで狭く細くやっていくしかないように思われる。

 

 多少とも自らの能力に信を置く文芸批評家は、この問いに答えなければならない(と思う)。すなわち

 

 誰が、いつ、(どのようにして?)文学を殺したか。