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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

太宰治『津軽』の嘘

 太宰の小説をまとめ記事にして目論見はずれてあんまりアクセスが稼げなかったおりに(『人間失格』だけじゃない!太宰治ならこれを読め──『晩年』とその他いくつか )『津軽」についてもエピソードを紹介しようと思っていたけど、文量が多すぎたので、断念した。ので、ここにメモ書きを残しておこう。

 なにやら訳知り顔をして書き始めたが、手柄はすべて長部日出雄氏の取材である。 

太宰治への旅 (NHK人間大学)

太宰治への旅 (NHK人間大学)

 

 太宰治の読者ならば、『津軽』を読んで、どうにもぬぐいがたい違和感にとらわれたのではないかと思う。

 それはつまり一口に言ってしまうと、小間使いだった「たけ」という女性を自分の母のようにしているからである。『津軽』の最後で、太宰は自身とたけとの再会を、美しく美しく描いている。しかし、たけという小間使いはもっともっと土臭い、田舎の、小間使いらしい小間使いだったはずなのだ。たけは子守であり、教育係であり、時には太宰の家来であっても、母親という柄ではない。

 むしろ、太宰の母親がわりといえば、叔母のきゑのはずなのだ。

 叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騷いでゐたが、私の泣き聲を聞いて、いそいで立ち上つた。そのとき毛氈が足にひつかかつたらしく、お辭儀でもするやうにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、醉つた、醉つたと叔母をはやしたてた。私は遙かはなれてこれを見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大聲を立てて泣き喚いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄關のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を流した。叔母が私を搖り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顏を押しつけて泣いてゐた。眼が覺めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかつた。
 叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思ひ出は生憎と一つも持ち合せない。(『思ひ出』より)

  

 にもかかわらず、『津軽』で太宰は自分はたけの子なのだと言い、たけを育ての親にしている。たしかに、たけは子守ではあったが、太宰が母親よりも母親のように懐いて慕っていたのは、叔母さんなのに、叔母さんに悪いではないか、おかしいではないか、不義理ではないか、たけが母親ってことはないだろう、と思って、他作品の整合性を見いだせず困惑してしまったのだ。

 それもそのはず『津軽』における感動のシーンはほとんどすべて嘘、虚構だったというのだ。二人で運動会を見る場面は、本当には太宰は中学校の後輩だった住職と一緒に酒を飲み昔話に夢中になって、たけも運動会も眼中になかったのだという。

 そのあと、小説では二人して桜を見に行くように書かれているけれども、実際には近所の主婦などがいて、太宰は仲間にはいれず後ろからぶらぶらついていったというのが事実で、しかもそのとき太宰は色の落ちた作業着を着ていたために、全身が紫ずくめの怪しい風体で、太宰は当時としては背が高く、日本人ばなれした高い鼻も持っていたから、事情を知らない人に「あれはアメリカのスパイでねえか……」と言われていたというのである。

 どうして、このような現実を、太宰は、彼の読者ならば「おかしい」とすぐに思うような「危険」をおかしてまで感動的な場面にし、たけを母親にまでまつりあげないといけなかったのか。

 それも長部氏のたけさんへの取材であきらかになっている。

 たけと会った夜、太宰はこう問いかけたのである。

「俺は、五所川原のがっちゃ(叔母)の子でねえか?」

 三十五にもなってまあ、とは他人の目から見ての感想で、子供の頃の体験や、受けた印象、思いというものは、大人になっても容易に修正できるものではない。太宰は子供の頃からそれまでずっと、叔母が自分の母親ではないのかと疑い、あるいはそう願い、その思いをこじらせて、叔母こそが自分の母親にちがいないと思い込んでいたのだ。

 けれどもそれは、たけによって完全に否定される。そりゃまあそうだ。

 小説ではたけに会う前に、太宰は叔母の家へ行くのだが、あいにく不在で、たけのところへ寄ったあと、叔母がいる弘前へ行くつもりになっていた。しかし、小説ではたけとの再会がラストシーンで、そのあとの弘前へ行ったか行ってないのかすら書かれていない。

 叔母との再会のかわりに、読者への挨拶で小説はしめくくられている。NHKの番組でも長部日出雄氏はこの文章を最後に紹介していたから、私もネタ元に敬意をあらわし、それを踏襲して、終わりにしよう。『津軽』が太宰の代表作にふさわしい作品かどうかは別として、たけとの再会シーンが虚構にしても白々しいとやっぱり思えてしまっても、いや、たけとの再会シーンがほとんどまったくの虚構だからと知ったからこそ、この文章は大変に美しい文章である。

 私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

 ということで、私もこのへんで。では、さようなら。

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)