人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「老麒」 鳥獣戯文シリーズ

 

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 麒麟は老いていた。微妙にうかせた体を岩の上に横たえながら、眼下に流れる渓流をものうそうに眺めている姿は、おいぼれた「くじか」と選ぶ所なく、五彩の鱗は色を失ってもはやそこから燐光を発するとは信じ難い。眼元の肉はたれ下がり、口ひげはだらしなく、牛の尾も馬の蹄も寝そべった腹の下にしまわれていては、この老いた動物の麒麟であることを確かめられるのは、先端に肉のついた一角だけだった。
 駘蕩とした春である。雪融けのためか、近頃しきりに降りつづく春雨のせいであろうか、幅の二尋ほどしかない小さな流れもぐんと嵩をまし、柔らかな春の陽射しを銀色にかえて小刻みな波の上に乱反射している。小川の向こう岸には鮮やかに緑の樹々がならび、新しい萌黄色の草々は眩しいほど明るく光を放っている。彼方には桃の樹々であろうか淡紅色のたゆたう帯がひかれてある。眼を凝らせば岸辺には幾本ものつくしさえ萌えているのである。 鷦鷯(しようりよう)の美声が聞こえる。いやが応にも心弾まざるをえぬような春の陽溜まりの中で、やはり麒麟はその衰えた大柄の体を丸めて、微妙にういたまま憂鬱のうちに沈んでいる。いや、憂愁に染まっているのはひとりこの「毛蟲(もうちゆう)の長」ばかりではない、寝そべった麒麟の背景には鬱然と一叢の竹藪がしげっている。葉はことごとく黄ばんで地面へ落ち、びたびたと露にぬれて陰湿につみかさなっている。立ちならんだ竹も皆枯死したかのように艶がなく、まるで太古の巨鳥の骨を隙間なく穢土に打ち刺したような荒廃ぶりである。注視すれば、幼芽はいやらしい落葉をかきわけて暗褐色の頭を其処此処に突き出している。丁度麒麟の平穏を破って胸のうちにおこる不安のように──
 麒麟には自分の老衰していることがどうにも信じられなかった。しかし、一駆に千里をはしった脚も怠惰のうちにすっかりおとろえ、皮だけになった球節はもはや体重を支えることさえ危うく感じられる。もちろん肉の落ちたのは脚ばかりではない。横腹にはくっきりと肋のかたちが透けている。その肋が弱々しく間延びした呼吸のたびにふるふると薄い腹の肉をふるわせるのである。それでも麒麟は老いを容易に受け入れなかった。
 確かに麒麟にも自分の体のおとろえは目に入るに違いない。 しかし、そういうことと老いを認めてしまうということは必ずしも一致しない。麒麟の胸中の不安はやがて漠として拡散していくばかりである。麒麟は今日もただこういう言葉を繰り返している。「しかしながら、しかしながら……」──
「しかしながらどうしたっていうんです」不意をつく言葉にふりむくと麒麟は眩しさに目がくらんだ。陽光を背にした毛物は麒麟が目をしばたいた様子を覗きこんで、くつくつと笑っている。猿である。粗野で彎曲した手足の筋肉は堅くひきしまり、その上に不潔で強い体毛がある所では密かに、ある所では疎に生え、黒々と輝いている。猿は中腰にかまえて麒麟を見おろし、黄色い歯を剥き出しにしている。対岸から「ヒッヒッ」と鳴き声がして小鳥がとびたった。山は深閑としている。
「千里を思うですか」
 猿はずるそうに麒麟を覗きこむと、すぐに反り返ってまたくつくつと笑った。麒麟はかすむ目を細めてこの不遜の動物を見ていたが、やがて顔をそむけると元の姿勢で横になった。小川はきららかに陽光を反射している。するとそこへ「ジャッジャッ」という鳴き声とともに雪加が二羽おりたち、互いに掛け合うようにして水浴びした。猿の言うことは無視したまま、麒麟は心地良い陽差しにあたたまり、のどかな景色を眺めている。
「これはじいさんから聞いたんですがね。あなた方は黄色ばかりじゃあないんですってねえ。青に赤に白。それから黒い仲間もいるっていうじゃあないですか。いやあ初耳でした」 麒麟自身にもこのことは聞きおぼえがなかった。
「あなた方は生きた虫を踏まず、生きた草を踏まず、それどころか房事の際にも肌を合わさないって本当ですか。それであなたはいつも独りとり澄ましていられるんですね。それは幸福かもしれません。しかし私にはどうも気の毒にも思えるんですがね」
 礼を失した言動にたえかねた麒麟は、不愉快さに猿を横目に睨みつけた。厳しい顔つきで「去れ」という意味を伝えたのだった。けれども猿のほうでは何を勘違いしたのか、にぶく光る黄色い歯を剥き出すとまた声もなく肩をゆすっている。麒麟は相手の態度に──厚すぎる口唇に、目尻から頬まで深くきざまれた笑い皺に、不潔な体毛に、欲望と無智しか感じさせない血走った眼に、脂ぎった額に、つまるところ猿の一挙手一投足、どんな細部の身体的特徴にも胸焼けがして、虫酸が走るのを抑えられなかった。
 猿のほうでは調子にのってますます図々しく、馴れ馴れしく、その無駄な饒舌をふるいはじめた。
「これもやっぱりじいさんから聞いた話なんですがね。あなた方はなんとも美しい声で鳴くんですってねえ。いやあ、じいさんが若い頃に一度だけあなたの鳴き声を聞いたっていうんですよ。私らこんな山奥に住んでいるけだものが、あなたに願い事なんてとんでもないことですがね。けれどもこういう無骨な私らだってね、雅やかなものに憧れもするし、ええ、こう見えても向上心って奴ですか、ええ持ってます。学問だって、しようという志はあるんです。春に鳴くことを「扶幼(ふよう)」、秋に鳴くことを「養綏(ようすい)」、へへ、なかなか博学でしょう。けれどもこんな山奥じゃねえ」
 麒麟は口のなかに苦い液を噛みしめながら、猿を無視し続けている。
「ねえ、麒麟さんおねがいしますよ。ねっ、一鳴き」
 無礼千万。麒麟はすっくと立ち上がった。猿はたじろいで天を仰いだ。丸まって寝そべっていては思いもよらないが、四つの蹄を微かに浮かせて立った姿は、一丈近くにはなるであろう。しかし、肋は透け、足腰はよわよわしく、このように堂々と起立していられることは奇蹟のように思われる。或いはこれこそ瑞獣である証だろうか。麒麟は鎌首をもたげるようにして猿を見おろすと、じりじりと顔を近づけていった。それから口を開くと、チロと小さな火炎を覗かせた。瞋恚のほむらの凄まじい炎熱を顔面に受けた猿は、大方自分の顔は焼け焦げたとでも思ったに違いない。情けない悲鳴をあげて、そのまま一散に逃げ去ってしまった。
 麒麟は猿が消えたあとも、しばらくその方角を見遣っていた。しかし、鬱陶しい邪魔者を追い払った最前の痛快な行為は、麒麟に少しも満足を与えていなかった。度を過ぎていたのではないかという懸念が、麒麟の良心を後悔させていた。ともすれば、あの鬱陶しい猿に、不潔で粗野なあのいまいましい猿に、もう一度ここへ戻ってきてほしいという気がするのである。そうして心配には及ばないと言って、にっこりわらってやりたいような気がするのである。
 何を馬鹿な。麒麟はすぐにその考えを打ち消した。二、三度細かく頭を振ると、麒麟は苦笑して、猿の無礼について思い返した。麒麟はこう考えたのである。
「昔ならばああいう動物は自分をこわがって決して近寄りはしなかった。ましてあの口の利きようといったら。昔はあらゆる動物が、自分を遠目にみてさえ恐怖に縮みあがったものだ。……いや、私は仁愛に富んだ動物だ。恐怖など他に与えるものではない。いわば一種、自分の神々しさを毛物たちは畏れていた。つまり自分とあれら獣は次元の違う―――」
 ──次元の違う──この言葉は今まで麒麟の意識したことのないものだった。言い換えれば、これまでは意識する必要のなかった言葉だった。麒麟は自身の倨傲に戦慄し、狼狽した。目を移すと一叢(ひとむら)の竹藪がしげっている。麒麟は今までの不安な感情が、そこにどんよりと漂って徐ろに凝固しているように幻覚した。しかも、それはますます色濃くなっているように感じられるのである。麒麟は突然の疲労におそわれ、またもう一度岩の上に横になった。
 うららかな春である。川面はやはりきららかに輝き、日溜まりを蝶が蜜をもとめて搖動する。どこをとっても淡い色合いの、たおやかな季節である。麒麟は独り憂鬱に沈みながら、或いは自分も老いたのかもしれないと思うのだった。険しい顔つきで中空を凝視している胸中にあるものは、今も変わらず例えようのない不安である。しかし、現在の不安は、これまでと違った麒麟自身にも名状しがたい或る性格を所有している。おそらくは痛恨の性格を。
 麒麟は前方を仰いだ。彼方の山には、春霞にけぶる淡紅色の帯が変わらずにたゆとうている。
 とその時、竹藪から「チョロロロロ」と 鷦鷯が一羽さえずった。美声はたかく澄んで澄んで、遠く遠く響き渡ると、彼方の霞までも届きはしないかと思われた。

 

 

 初夏。若草はしだいに堅く、色濃く生長し、厳しさを増していく陽光に耐えている。弱竹も爽やかに、竹藪は春のように鬱然とはしていない。
 麒麟は日蔭を選んで一日中じっとして動かない。目をぱちぱちと閉じてみたり、遠くの景色を眺めようと目を細めてみたりするだけだった。しかも、その度に呪わしい目蓋はぴくぴくと痙攣するのである。麒麟はさらに際だって弱っていた。もはや憂鬱に沈んでいるのも麒麟しかいない。完全な孤独である。
 件の猿はもう麒麟に近寄りはしなかった。
 退屈な、生気のない毎日である。今日も麒麟は一日中日蔭で弱りながら、眼前を行き過ぎる蜻蛉や、足元を進む黒蟻の隊列などを空ろな目に映して緩慢に時を潰していた。すると一間も離れていない日向の地面からもこもこと蚯蚓(みみず)が這い出した。強い陽差しに暖められた土中の暑さに耐えられなかったのだろう。蚯蚓は地表に出ると、直接太陽に灼かれて、しばらくもだえ苦しむと身動き一つしなくなってしまった。麒麟は蚯蚓の死を確認しておいてから、不機嫌に顔をしかめた。何という低級な生き物だろうか。何という無価値で無意味な存在であることだろうか。これではこの虫螻は、焼け焦げてのたうちまわるために生まれてきたといっても、過言でないではないか。何という滑稽な、何という馬鹿な、笑止千万の命であろうか。
 丁度そのときである。東南の空から、もり上がる峰々をいくつも積み重ねてこさえたような巨大な積乱雲が立ちのぼっていた。峰々の頂は日光に白熱し、暗い雲底はその腹中に波瀾を呑んでしずかによどんでいる。瞬間、とてつもない霹靂(へきれき)が大気を震動させた。蒼白い巨根の稲光は麒麟の鼻先ではじけ、その刹那あらゆる音を奪い去った。
 雷のあとには、一頭の龍馬が川面に悠然と佇んでいた。麒麟は億劫気に上体をおこすと眠そうな目を龍馬にあわせた。長く伸びたたてがみと尾がつややかと輝いている。脚には肉がしっかりとつき、胸筋はもり上がって二つにわれ、頸には太い血管がとくとくと新しい血液で脈打っている。若々しい肉体は燐光を発する龍鱗に包まれ、背の斑紋には神秘の象徴が配されてある。
「古のものよ。お前は千年を生き越してきた瑞獣(ずいじゆう)、麒麟に違いはないか」
「見て分からぬか」
 麒麟はひくくわらって続けた。
「お前こそ何者だ。我が名を呼び、我が居場所をつきとめ、我が安寧を破ろうとするお前こそ何者だ。空より降りてきたところをみると、天馬の一種であるか」
「少し違う」
 今度は龍馬が頬を歪めた。
「私には翼が生えていない。私は龍馬という。私がお前の名を知り、お前の居場所へやってきたのは、私がお前と同じ瑞獣であるからだ」
「何の用だ」
「挨拶をしにきた」
「挨拶だと」
「そう。お前はもう千年生きた。そして年老いた。けれども、私がお前の後を引き継ぐ。お前にも覚えがあるだろう。私は千年昔のお前だ」
 麒麟は遠い記憶をさかのぼった。欽山の楽園。老いぼれた猪がおもいだされた。その猥褻な冗談と笑顔が浮かんだ。それからあれは自分に何か言った。
「──れだから、心配することはない」
 龍馬の言葉に麒麟は追憶からさめ、せせら笑って反駁した。
「心配? 誰が心配なんぞするものか。お前こそこの麒麟から何を引き継ごうというのか。お前に与える物などは何もない。お前はこれからの千年何の為に生きるというのか」
「私は瑞獣だ。私はその役割しか知らない。私は千年生き、また別のものへと私の役割をゆずるだろう。私はそれ以上でも以下でもない。私はお前と同じことを為すばかりだ。ここでお前と言い争うつもりはない。私はお前に伝えるべきことは伝えた。それが私の役割だからだ。それ以上のことをするつもりはない。私はもう帰らねばならない」
「待て」
 麒麟はあわてて制した。
「お前がもう何の用もなくても、こちらからはまだ伝えることがあるのだ。たった一言。一言でいいのだ。そう一言で……」
 しかし言葉は、喉元までこみあげているはずの言葉は、みじめにもつかえてしまう。龍馬はしばらくは蹄をかつかつと岩に当てて、麒麟を待ってはいたが、やがて何も言えはしないと見て取ると、この老いた麒麟に、いまいましさと、多少の憐れみをこめ、言い放った。
「お前はもう死んでもよい」
 龍馬の端正な顔には、 琅玕を嵌めこんだように暗く澄んだ碧眼が、冷やかに麒麟を見下ろしている。龍馬は膝を折ったかと思うとその瞬間、ふっと浮き上がって重力に解放された──
「見よ龍馬。この麒麟は、この老いぼれだ姿は、千年後のお前なのだ」
 しかし、麒麟が叫び終わるかといううちに、龍馬は飛び去ってしまった。最後の言葉が聞こえたかどうかは麒麟には定かにわからなかった。
 雨粒が鼻先にはじける。驟雨は足早に去っていった。麒麟は大儀そうに身を震わせて水をきった。対岸にどさりと音がした。猿であった。雨よけに避難したところを百歩蛇にやられたのである。微かに動きもしなかった。雨のせいでしめっぽい緑の匂いが鼻をついた。生々しく鬱然とした匂いは、麒麟の鼻先に結露すると脳の最奥まで届いて、脳味噌をじわじわと暗緑色に汚染していった。
 やがて雲は乱れ、割れ目から初夏の陽が其処此処の地面にさしはじめた。蟻も陣容をたて直して、水たまりに溺れる天道虫を横目につらつらと隊列を続けている。
「ジャッジャッ──」小鳥も水辺にあそびはじめた。
 屍骸は溽暑(じよくしよ)に朽ちていった。日に日に昴進していく腐敗に鼻骨から下顎までは剥き出しとなり、眼球にゆらゆらと蛆が踊っている。ついに破れた腹からも溶けだした内臓と一緒に蛆のかたまりが現れ、ぼろぼろ崩れては地面にゆったりとのたうつ。腐臭は薫風に押しもどされながらも幾度も麒麟の鼻先をかすめた。一瞬間だけ独特の甘い匂いがしたかと思うと、すぐさま猛烈な吐き気に襲われる。その中に麒麟は、執拗に川辺に居座っている。ぶむぶむと唸りながら屍肉の周りをとびまわる太い蒼蠅の一群から一匹が飛び出すと川をわたってそのまま麒麟の鼻先へとりついた。麒麟は、しばらくは充足した栄養に体をぴかぴかと青光りにさせる腹のふくれた蠅を、いまいましそうに凝視していたが、にわかに顔を振るって追い払った。けれども、麒麟が追い払おうと試みたのは何もこの蒼蠅一つに限ったことではない。麒麟は自身の衰えた姿と、朽ち果てていく猿の様子をどうしても結びつけてしまう。麒麟はそのことによる暗鬼を自らの心から追い払おうとしたのだった。しかしまたその試みが成功したかどうかは別問題である。見れば、麒麟はやはり嘔吐をこらえたまま、苦虫を噛んだような顔をして自身の思考に苦しまされている。
「それでは自分もこの猿のように、蛆にその身を蝕まれるというのだろうか……何を馬鹿な。お前は自身が何者であるか忘れたのか。自分は麒麟なのだ。──しかし、たとえ自分が麒麟であったとして、つまるところ、この猿と何が違うというのか。どうして自分の命ばかりが、このような滑稽極まる命と無関係だと言い切れるだろうか。とにかく……とにかく自分にも、最後が来るには違いない」
 暗鬼は着々と麒麟の頭脳を蝕んでいたのである。やがてこのいたずら者は麒麟の胸のうちを潜ると、腹の中を暴れまわって吐き気を誘うて喜んでいたが、今度はそれにも飽きて鼻の穴から飛び出し、「この老いぼれめ」と麒麟の額をぴしりとはたいて、そのままけたけた笑いながら、次第に中空へとかき消えてしまった。
 麒麟は瞬きをして目を白黒させていたが、現にかえると何やら寒けがして、一つくしゃみをした。
 蝉が一匹腹を震わせて鳴きはじめた。呼応するように数匹が鳴く。麒麟の寂しさを青嵐が誤魔化していった。蝉は命途切れよと、いよいよ猛烈に鳴きわめく。
 山はこれから盛夏を迎えるのである。

 

 

 蕭々とした秋である。透き徹る風に流れに、べっこう色の陽光は屈折し玻璃結晶の一列が輝き出る。黄ばんだ枯葉、赤らんだ落葉は地面を厚く敷き詰め、或いは渓流に拾われて山を下り、さやさやとした風にも後から後から際限なくこぼれ落ちる。鷦鷯の美声にも耳傾けず、毛物達は冬籠りの仕度に追われている。
 仰げば山一面紅葉に染まり、高い空の色は薄い。麒麟は夕暮れ迫る薄暗い中に、今も同じ場所にうずくまっている。ちらと見る限りではもはや生きているのか死んでいるのかさえ判別しがたい。体中の肉はこそげ落ち皮と骨ばかりになった大柄の肢体は、奇体の模型のようであり、その異様な体が不思議の力によって地面に接しようとはせずに微かに浮いている。しかしながら不思議はまたこれ一つばかりではない。麒麟は笑んでいるのである。頬はこけ、一角は傾き、口ひげの半ばは抜け落ちた貧相の表情が、静かに両の眼を閉じ、安らかな頬笑みを口元にかけて形造っている。この不思議な微笑は何故であろうか。自身の凋落に季節が追いついたことに対する安堵、憂愁を分かち合う対象があることに対する満足といったものであるのだろうか。否、それにしては麒麟は寂寞とした虫の細い鳴き声にも、苔むし菌糸にむしばまれた朽ち木にも全然無関心である。一向にその眼を開く様子はない。麒麟は傾眠に沈んでいるのである。それではこの不可思議の頬笑みは、麒麟の夢のせいなのだろうか。まどろむ麒麟の背景には一叢の竹藪がしげっている。春には枯死したかと思われた艶のない竹が、今はその根から養分をぐいぐいと吸い込み、若竹とともに青々と輝いている。それはまるで紅葉にさびれていく山全体の生気を、この竹藪だけで独占しているような錯覚を感じさせる。或いは麒麟の現も竹の栄養として吸収されているのではあるまいか。夕焼けに照らされた山の中にもやはりこの竹藪の竹一本一本のみがその活力ある生を主張し得ている。
 そのうち、麒麟の頭にこつと何物かがかち当たると眠りから揺り起こした。目前にあるのは丸々とした一個の団栗である。麒麟は何を思ったか、それとも単に病熱ゆえの痴呆のせいだろうか、おもむろにその小さな命へ顔を寄せると口にくわえてそのままかりりと噛み砕いた。その苦さが意外であったのか、しばらくは意識をとりもどしていたが、やがてまたずむずむとまどろみの中へおちていってしまった。夕闇が麒麟を、竹藪を、朽ち木を、紅葉の山全体を包んでゆく。


 円く大きな月が山の真上へのぼった。蒼白い面妖(めんよう)の光にみたされた渓(たに)には虫の声一つなく、またそよと吹く風もない。のっぺりとした暗い川の面はあお黒く、糊の流れているかのようにその動きは感じられない。はらはらはらはらと昼間よりもしげく散る落葉は白く光り、ずんずん川面を埋め尽くし、或いはまた地に落ちて辺りを照らしている。
 麒麟は川端に立って目をつぶり空を仰いでいる。遍(あまね)くその体から放たれている柔らかい光は、ただに月光の故だけなのだろうか。衰弱しきったはずの肉体は光に包まれて老いを忘れている。しかし、麒麟は若返ってもいなければ、健康を取り戻した訳でもありはしない。あやふやの光が感じさせるのは疲労である。安らかな倦怠である。
 麒麟はちいさく口をあけた。
 妙(たえ)なる音楽はかなしいものへの愛憐のように濃やかに響き、あやしく山を包み──嫋々(じようじよう)として────

 

 

 幽谷は縹渺(ひようびよう)を失った。色のない風に秋の虫が応える。透徹した川は流れをとり戻した。夜空には、光を失い黄色くなった満月がはりついている。平凡の秋。余韻を知らしめるのは、ただ一つ竹藪の変化のみである。
 花盛りの竹林。竹一本一本ことごとく、またそのあらゆる枝々に小さな可憐の花が鈴生りに咲きこぼれている。そうして味わいのない景物の中で独り、竹藪のみが白くけぶっているのである。
 渓には何ものの姿もない。