人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「饒舌な件(くだん)」(二) 【鳥獣戯文シリーズ】

 

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 毀(こぼ)たれ、欠けて、かたむいた石段は、黒ずんだ苔におおわれていた。昨夜降り始めた霧雨は、午(ひる)をとうにまわってもはれない。四つ足の蹄が、湿った苔を踏んでのぼっていく。朽ちて倒れた鳥居をまたぎ越えると、雑草のほしいままに生い茂る境内の景色がひらけた。
 まっすぐに伸びる杉の林立(りんりつ)に取り囲まれて、薄暗い空はわずかしか望めない。横倒しになった石灯籠が土にその身のなかばを埋もらせている。草の緑におおわれゆく狛犬が、それでも虚しい阿吽(あうん)を交わし合っている。灯籠も狛犬も、大小いくつもの黴に浸食されて、石の素肌はほとんど垣間見えない。出羽国の北端にあるいくつかの寒村は、幾年もつづく悪天と冷たい夏によってもたらされた飢饉のために、人の寄りつかない廃墟(はいきよ)と化していた。
「ん、牛か」
 神殿の御扉(みとびら)の前へ寝そべっている老狐(ろうこ)は、まぶたを薄くしかあけずに呟いた。
「はい。件と申します」
 件は緩慢に胴をゆすり、赤茶色の体毛にじっとりと染み込んだ水をはらった。
「それはお前自身がそう言うのだから、そうなのだろう」
 寂びた金毛をした妖狐は、体を丸め直して目をとじる。
「お昼寝の時間だったでしょうか」
「うん。まあ眠いといえば眠いな」
 妖狐は眠ったままで、億劫(おつくう)げにこたえた。
 件の頭頂から顔面へ、一筋のしずくが流れた。雨は細かさを保ったまま、ますます濃密になっていく。しばらくの時間が流れた。件はいつものおそろしい表情をして、陶器でできた人形のように頭をたよりなく揺らめかせている。
 またしずくが流れ、醜い人面をつたっていく。件はそれでも辛抱強く待っていた。二筋、三筋とつづけて、しずくが件の顔を流れ落ちるようになって、ようやく妖狐はまた目と口を開いた。
「用があるなら、言っていいのだ」
 件は頬をほころばせた。しかし、できあがった表情は、まるで目の前の狐に襲いかかりそうな形相(ぎようそう)をしている。妖狐は黙って整った細面(ほそおもて)の眉をひそめた。
「何から話せばよいでしょう」件は思案げに上を向くが、彼の胃の腑(ふ)からはすぐに言葉が湧き上がってきた。「そう。ぼくは怪鳥さんに言われて、ああ、怪鳥さんというのは、ぼくの知り合いの、たいへん美しい人なのですが。人といっても、ぼくのように体は人間とは違うのです。怪鳥というくらいですから、鳥なのですよ。たいへん美しい、みどりの羽根をもった鳥なのです。それで、その怪鳥さんが、ぼくにこう言うのですよ。あなたは先のことを何にも約束できないのねって。
 ご存じでしょうが、ぼくは件ですから、生まれつき予言の才能が具(そな)わっているらしいのです。でも、予言をするとすぐに死ぬという話もありますね。だから、ぼくを育てた人間のお爺さんとお婆さんは、ぼくに将来のことは何も考えるなってきつく躾(しつけ)してくれたのです。
 おかげでぼくは、この歳まで無事に生きてこれましたが、予言をしたことなんて一度もありませんから、予言したとして、本当に死んでしまうのかどうか、定かなことは分からずじまいなのです。ですから、怪鳥さんに、噂ばかりでなくって自分の足で確かめろと言われたのをいい機会に、本当のところはどうなのか、自分で探り当ててやろうという気になったのですよ。なぜって、ぼくの知っていることは、草双紙で読んだか、誰か人間の話を聞いたものばかりなんですもんね。それで、まずは自分の仲間がどこかにいやしないかと思って、瓦版の文句をたよりに……」

 怪鳥のもとから忽然と姿を消した件は、まず西方(さいほう)を目指した。彼が「失敬した」瓦版には、丹波国という地名が書かれてあったのを覚えていたからである。それ以外の手がかりはなかった。件は夜の闇にまぎれて、片端(かたはし)から農家の牛小屋をたずねて歩いた。
「こんばんは、失礼します。ぼくは件といいます。じつはたずね人をしているのですが、このあたりにぼくと同じような件が出たことはないでしょうか」
 牛たちは突然あらわれた異形にいい顔をしなかった。気味悪がって、無視をするか、さっさと立ち去れとうながした。恐慌して鳴き叫ぶものや、混乱して体を柱や壁にうちつけるものもあった。件はそんなときでも天性の「人の良さ」を発揮して、もしくは、生まれてこのかた誰からも忌避されなかったという経験がないためか、さして気にするでもなく次の牛小屋をさがして歩いた。「こんばんは、失礼します──」
 七日七晩、休まずたずね続けて何も得られなかった。底が抜けた脳天気の件も、さすがに乱杭歯の隙間から、笑い声ではない吐息を漏らさずにはいられなかった。
 谷あいの細い道をずいぶんと登った先の農家で、もうこれで最後にしようと声をかける。件が人語で挨拶をし、話し終わらない途中で、若い雄牛の頭がとんできた。件は一瞬で三間はとばされて転がった。雄牛が角切りされていたおかげで、大きな怪我を負わずに命拾いしたのだった。立ち上がって汚れた体をふるい、帰りかけた背中に、呼びかける鳴き声があった。薄暗い小屋の奥から、年老いた雌牛がおぼつかない足取りで出てきた。顎をあげて頭を上下に振り、鼻面で何かを指し示そうとしている。件がその方角を振り向くと、険しい山が月の光をうけて、夜の闇にもくっきりと輪郭をあらわしていた。『あの山で、お前と同じ件がでたという噂を聞いた』雌牛が唸る鳴き声に、件はそういう意味を聞き取っていた。
「おはようございます。いませんか、件さん。いませんか」
 翌朝はやくから、倉梯山(くらはしやま)の山中には、どこか間の抜けた明るい声がひびいていた。件が歩を進める先々で、鳥が飛び立ち、蛇が這い逃げ、もぐらが土深く身を隠した。日輪が空高くのぼり樹木の影をみじかくしても、さまよい歩く件の声は途切れなかった。
「いませんか、件さん。おはようございます」
「もう、おはようって時間じゃないがね」
 応えた声は人語であった。件は声のするほうへ首だけをねじ向けた。しかし、見えたものといえば、一個の大岩と、大岩の上へ寝そべって陽を浴びている黒い毛をした狐一匹だけだった。
「おっかないな。そんな顔をしてこっちを見るなよ」
 黒狐(こくこ)は岩の上で跳び上がって身構えた。件は、足踏みして体の向きを変えてから問いかけた。
「狐さん。人の言葉が分かるのですね。ぼくは件です。実は──」
 件はかいつまんで自分の身の上と、どうやってこの山まで来たのかという経緯(いきさつ)を話した。いや正確にはかいつまんで話すつもりだったが、一度はじめると話がふくらんでなかなか終わらなかった。話は、脱線し横道にそれ、行きつ戻りつして、同じ事柄がまた別の視点から語られる。件の口が開いている限り、果てしがないように思われた。
 黒狐はいい加減うんざりして、自分から件に話しかけた。
「件っていうのかい。そいつなら知ってるよ。人の頭に、牛の体。どこにいるのか教えてやろうか」
 この時ばかりは件も言葉を忘れて、こくりこくりと大きく頭を二度上げ下げしただけだった。
「そら、その件とかいう化け物なら、俺の前に突っ立ってるじゃないか」
 黒狐は器用に尻尾をまるめて小さく宙返りし、間抜けな異形を出し抜いてやったと喜んだ。件はやっぱり黙ったままで俯いていた。黒狐はさんざん大岩の上で跳びまわったあとで件を見ると、思わず柄にない同情をしてしまった。ただでさえ醜い件が落胆すると、この世にこれ以上ないと思えるほど沈痛な面持ちに見えるのである。
「おい。ちょっとからかっただけじゃないか。だいいち、件っていうのは予言をすると死んでしまうんだろ。だったら、この山に件が出たことが仮にあったとしてもだ。俺が知らなくったってしょうがないじゃないか。まあ、そう気を落とすなよ。お前にいいことを教えてやる。知りたいことがあるなら千年生きた妖狐に聞けばいいのさ。千年を生きた狐は、人の言葉を操るのはもちろん、博学にして博覧強記、知らないものはないって話だ。おっと、俺じゃあないぜ。俺は今年でまだ齢(よわい)七十五ってところだ。千歳の妖狐なら北にいる。お前が生まれた関東よりもずっと北にな。なに、道々たずねて行けばいいのさ。と言っても、牛なんかに聞いてちゃいけないぜ。また同じように無駄足踏んじまわあ。狐に聞くのさ。俺のように人間の言葉をつかえる古狐にな」
 黒狐に丁寧に礼を言って別れると、件はその足で東へ下った。方々(ほうぼう)の山を、林を、森を、野を、熱心にさがし歩いた。しかし、人語を解するほどに長く生きた狐が、そうざらにいるものではない。やっと見つけたとしても、彼らが知っているのは、曖昧でたよりない消息ばかりだった。件は熱心な探索の合間に思いだしたように立ち止まると、どこというでもない遠くの中空(なかぞら)に視線をただよわせて、ひとり孤独な息をついたりした。

「……そうやって、時間をかけてじぐざぐに北へ北へと進んでいるうち、盲滅法野山を歩くよりは、まず御稲荷様をたずねるほうが見込みがあるっていうことが分かったのですよ。その後はずいぶん楽になりましたが、最後このあたりに来て、またかなり時間がかかりました。出羽国の北あたりの神社にいらっしゃるはずだと聞いたので、てっきり稲荷社(いなりしや)にいるに違いないと早合点していたのですよ」
 うつらうつらと船を漕ぎつつ、ずっと黙っていた妖狐は、件の話がやっと自分の元までたどりついたのを待ってまた気乗りしない様子でこたえる。
「ここは人も来なくて落ち着くのでな。そのうえ雨露もしのげる」
 話に夢中になって霧雨に濡れているのも忘れていた件は、妖狐の言葉で、ずっしりと重くなった体毛を意識した。胴をふるって水を切る。件の顔には幾筋もの水の流れが途切れなく伝っている。
「山海経(せんがいきよう)いわく、そのかたちは狐のごとくで九つの尾あり、その声は嬰児(えいじ)のようで、よく人を食う。ええ、これも草双紙で読んだのです。その、つまり、あなたも人を食べるのでしょうか」
 件は言い終わってつばを飲む。
「この声が赤子のように聞こえるかね」
「さあ、でもお年寄りにしては若々しい声ですね」
 妖狐は丸くなった体から尻尾を一つきり見せた。件は肩で息ついて安堵した。しかし、次の瞬間、妖狐が長い毛の尻尾を左右に振ると、豊かな房の尻尾は二つに増えていた。また妖狐が尻尾を揺らめかすと、二つの尾は三つに増える。件は吊り上がった細い目をせいいっぱい見開いて凝視している。
 妖狐は尾をふりながら、陰鬱な空を振り仰ぐと晴れやかな顔をして笑った。壺(つぼ)を敲(たた)いたような笑い声が杉の高木(こうぼく)に囲まれた境内にひびきわたる。
「安心せえ。たとえわしが人食いであっても、お前はあまり美味そうには見えぬ」
「シッ、シシシッ。シシシシシッ」
 件が笑い声を重ねると、今度は妖狐が怖気(おぞけ)に濁った目で、牛の体にのった人面に見入った。すっかり興がさめてしまった妖狐は、気を紛らせようと話頭(わとう)を転じた。
「その年増の怪鳥は何歳ほどになる」
「そう、鎌倉の将軍を見たという話を聞きましたから、少なくとも、もう五百歳くらいにはなるのですね。ええ。それが、どうして鎌倉なんかの話になったかというとですね、ぼくが読んだ滑稽本のなかに、貧乏浪人が源氏の史跡をたずねて鎌倉へ巡礼をするっていう話があったんですよ。これが面白いのなんのって。でも、怪鳥さんに話しますとね『それはおかしい、私が見て知っている往事の鎌倉は……』と訂正が入りましてね。そうは言っても、人間で鎌倉に将軍がいる頃を見知っているものはいませんしねえ。それにぼくが読んだのは、今の世の滑稽本なんですから。少しくらいの出鱈目は許されるってものでしょう。ともかく面白いのが一番ですから。まずなんといっても傑作なのは、主人公の浪人というのがその日食うにも困る貧乏なのですが、旅の路銀を工面するために──」
「お前は歳がいくつになるのかね」
 妖狐は件の話を打ち切ってたずねた。
「来月でちょうど丸五年になりますから、人間の数え方でいえば、六歳ですね」
「ずいぶんな歳の差だ」
「それは問題ではありませんよ。ぼくはもう大人ですからね。六歳といっても人間のようにふらふら歩いて、考えるのも話すのも夢の中というような、おぼつかない年頃とは違います。なぜって、ぼくは生まれてすぐに、しっかり考えて話すことができたんですからね。これはお爺さんとお婆さんが証人ですよ」
 件は誇らしげに胸筋を前につきだして顎をあげた。が、霧雨が直接目に降りこんでくるために、同じ姿勢を保っているのはむずかしかった。
「お前と同じように予言をする姫魚というのは、もともと神社姫といって、知恵のまわる商売人が探幽(たんゆう)の描いた百鬼夜行図の濡(ぬ)れ女(おんな)を模写させたもので、つまりは、コロリと飢饉に苦しみ悩む人間どもが生み出した幻の獣だ」
「へえ」件はいかな悪鬼でもこれほどと思わせる恐ろしい表情で、間の抜けた感嘆を漏らす。「やっぱり、いかさまだったのですねえ」
「それならお前もいかさまの、本当には存在しない異形なのかね」
 件は目玉だけを上に動かして少し考えたあと、困惑を笑いで誤魔化そうとして口を開きかけた。
「おっと待て待て。そのまま、そのまま。お前の笑う顔と声は、あんまり心地よいものではないからな」あわてた妖狐は雨に濡れるのもかまわず前足を差し出した。「まあ聞くがよい。狐も茶碗も木も岩も、永(なが)の歳月を閲(けみ)すれば神霊を宿しあるいは異形に姿をかえるは、今お前の目の前で話すわしの姿がしめすとおりに万物自然の理(ことわり)だ。が、われら尋常にあらざるものを生み出す何ものかは、命あるものを老いさせ命なきものを古び朽ちさせる歳月の経過、神さびることを促す時の力ただ一つではない。無数の感情、無数の思いが凝集した思念のかたまりもまた、神獣、妖怪の類(るい)を生み出す。そしてこの世において、思念の力のもっとも強いものといえば、人間どもの恐れや不安といった感情だ。つづく飢饉に薬の効かぬコロリの流行、くわえて近頃は尊皇だ攘夷だとうるさく、政道は乱れ、人心は荒廃しつつある。たとえお前が読んだ摺物が、商売人の思いつき、不安にかられる民草(たみくさ)を欺くつもりの出鱈目を書き連ねたものであっても、今ここにこうしてお前が在(あ)るように、姫魚という異形もどこかの海の中にきっと存(そん)しているに違いないのだ」
「ははあ、すると瓦版に書かれてあった文句は嘘なのですね。出鱈目のいかさまなんだ」件は何度も力強く頷いた。「だったら無事かもしれないんだ。全部嘘なら。予言をしても平気かもしれないんだ」
「そう早まるな件よ。瓦版に出鱈目が書かれたといって、その文言(もんごん)すべてが嘘であるとは限らんぞ。それらの錦絵(にしきえ)や摺物を生み出したのは、お前自身を生み出したのと同じような人間どもの恐れと不安なのだ。お前が嘘でなくここに在る以上、どうしてお前が死から免れると言えるのか」
 件はたしなめる妖狐の言葉にもひるまなかった。首をぬっと伸ばして再び顎をあげると、吊り上がった細い目をさらに細くして、重く垂れ込める黒い雲に向かって顔を差し向ける。
「そうかもしれない。けれど、やっぱり、そうじゃないかもしれないんだ。ああ、そうでなければどんなに素晴らしいだろう。怪鳥さんに一生変わることのない思いを誓うことができたなら」
「万一そうできたからといって、受け容れられるかは別問題ぞ。のう件よ。落ち着くんだ。怪鳥はそうできないと知っておるからこそ、お前をからかっていたのだ。お前の告白を別に望んではいないのだ。命を粗末にあつかうでない。お前を育ててくれた老夫婦の恩を無駄にするな」
「けれども、もしも受け容れてもらえたなら。受け容れてもらえたならなんて幸せなんだろう。ああ。ぼくは将来のことを話している。明日のことを考えるとはなんて心躍ることだろう。明日に希望をもつとはなんと美しいことだろう。可能性とはなんて素晴らしい言葉なんだろう。怪鳥さんがこのぼくの気持ちを受け容れてくれたなら」
 妖狐は憐れみの気持ちから、いかにもすまなそうな小声で言った。
「お前の顔ではちと難しかろうな」
 件はしばらく黙っていたあと、口角をひきあげて笑いかけた。が、人好しの件は、さっき妖狐から制止された手前、声を出すのを我慢した。肩を細かく上げ下げし、一層不気味で恐ろしいものになってしまった奇妙な笑顔を揺らめかしている。
 賢明な妖狐は、ずぶ濡れに濡れた件の滑稽な面に、かなしみの色が浮かんでいるのを見逃しはしなかった。

 


 あわい川を覆う森にある大木の洞(うろ)で、怪鳥は毎朝日の出とともに目覚める。日に一回か二回水を浴びる以外に、何するということもない。腹が減れば川魚を捕らえてむさぼり食う。魚に飽(あ)けば、森の小獣(しようじゆう)小禽(しようきん)にとびかかる。川魚の骨が底に沈み、散らかった獣毛羽毛が風に舞う。南中した太陽が少しずつ傾きはじめると、怪鳥は決まって居眠りをはじめる。小さな顎を豊かな羽毛の中に隠して、左目を閉じ、右目を開き、こくりこくりと頭を動かす。次には左目を開き、右目を閉じる。また左目を閉じ……とくり返して浅い眠りをまどろんでいる。
 と、夢現(ゆめうつつ)の溶け合い混じり合った朦朧する意識の隣に、覚えのある気配を感じる。
「こんにちは怪鳥さん。起こしてしまいましたね」
「こんにちは件さん。いいのよ気にしなくて。いつものことだもの」
 件はシシシシッと歯の間から空気を漏らして、恐縮を笑いであらわした。
「ぼくは言われた通り、自分の足でたずね歩いてきましたよ。けれど残念ながら、仲間の件には会えませんでした。けれど、かわりに、たいへん教養のある狐さんに、千年も生きた妖狐さんに会って話を聞くことができたのですよ」
 怪鳥は件の側の目だけを開いたまま問うた。
「ふうん、それで、そのお爺さん狐は、どんな良いことをあなたに教えて下さったのかしら」
「姫魚という異形も、このぼくも、みんな人間たちの恐れや不安という気持ちが生み出したのだというのです。それから瓦版に書かれてあった商売人の出鱈目な思いつきも、この人間たちの感情のかたまり、思念といったかな。こいつが生み出したものだということなんです。だから件が予言をして死ぬということも、ぼくが今ここにいるように本当のことかもしれないし、あの瓦版に描かれてあった角のついた件の絵のように、まったくの嘘っぱちかもしれないんです」
 聞いている怪鳥の胸のうちに、残酷な感情が夏の積雲のような急激さで成長した。体(たい)を開いて向かいあい、甲高い嗜虐(しぎやく)の言葉を、件の人面へ向かってまともに投げつける。
「それじゃあ、ここを出ていった時と同じじゃないの。あれからどのくらい経つのかしら。一ヶ月、いいえ二ヶ月はあちこちさ迷っていたのよ。二ヶ月もほうぼう歩いて、分かったことが、本当かもしれないし、嘘かもしれないなんて、まあなんて骨折り損なのかしら。ずいぶん滑稽じゃないかしら。そうよ、滑稽だわ。まるでお馬鹿さん。ええ、あなたはとんでもないお馬鹿さんよ」
「そうです。怪鳥さん。嘘かもしれないんです。本当ではないのかもしれないのですよ、怪鳥さん。で、あるならば。で、あるならばです。ぼくは予言をしたって平気なのです。先の世について語っても大丈夫なのです。そうであるならば、怪鳥さん、あなたにどんなことを誓おうとも、ぼくは無事でいられるのですよ」
 件は目を開けたまま夢見るような恍惚を感じている。怪鳥はいつもの、いやいつにも増して物凄い、おぞましいとでも形容したいような件の表情に、常(つね)ならざる異変を感じ取って、冷や水をかけられた気分になった。
「何を言うの。本当かもしれないのよ。本当だったらどうするの。どうするも何もないわ。あなたは死んでしまうの。そんなことも忘れてしまったの、あなた、本当のお馬鹿さんなのね」
 件をしずめようとする怪鳥の声音は、すこし怯えていると同時に、さきほどと比べて優しさにあふれたものだった。
「分かっています。けれど、ぼくは知ってしまったのです。明日を語るということの素晴らしさを。明日に望みをもつということの美しさを」
 件は小さく一歩踏み出して胸をはり、鎌首をもたげるようにして怪鳥を見下ろす。冷たく細い目の濁った眼球には、そうとは気づいてもらえない、思い人への深く限りない愛情が宿っている。
 怪鳥はたじろいで身を竦(すく)めた。混乱した彼女には、自分が件の怪異な容姿に怯えているのか、件が行おうとしている行為に怯えているのか、とっさに判断がつかなかった。
「やめてください、件さん」
「いいえ、もう止めることはできないのです」
「考えなおすのよ」
「大丈夫ですよ、怪鳥さん。心配なんて何もないのです。こんなにも素晴らしく、美しく、幸せな感情に、どうして恐れや不安を感じる必要があるでしょうか。ああ、ぼくが今、どれだけ幸せなのかを、あなたが分かってくれたならなあ。恋する人に誓うということが、しかも、この身一生について誓うということが、どれだけ幸せに満ちているかを」
「ああ」
 怪鳥は双(そう)の翼をひらいて顔にかざし、強く目をつむった。
「怪鳥さん。ぼくは、あなたを生涯かけて恋い慕うと誓います。この言葉は絶対なのです。ぼくは、これから一生とこしえに、あなただけを、愛(かな)しみ続けることでしょう」
 怪鳥が見ている暗闇は、しばらくの沈黙のうち、鈍い地響きの音で破られた。巨体が倒れたせいで、砂埃が舞っている。怪鳥は件に近寄り身を屈めて、二つの触れ合う人面を覆い隠すように翼をひろげ、華奢な鳥の体を震わせた。
 砂埃はやがてかき消える。あわい川の流れは、すぐ上流で湧きあがった豊かな水をどしどし川下へ追いやっていく。どのくらいの清水が流れ、どのくらいの時を経たのか、やがて顔を上げた怪鳥の人面は、もう濡れてはいなかった。
 澄んだ瞳が冷ややかに足元を見下す。顎あげてコロクルコロクルと鳴きしきると同時に、怪鳥は河原の小石を蹴って舞い上がった。高く、高く羽ばたいて加速すると、見る間にその姿は小さな影となり消え去った。
 件は笑っていた。眉のない細い目を吊り上げ、口の端をめくり、先が尖って不揃いな歯列をむきだしている。首傾げるように片耳を地につけ、おそろしい笑顔のままで事切(ことき)れていた。


 武蔵国に生まれた一頭の異形の物語、仍(よ)って件の如くである。

 

 

 

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