人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

小説「ドロテア」(八) 神々は演ず

 

  小説「ドロテア」(八)

  神々は演ず

 

 

 ドロテア演劇二日目の「町」では、物語が停滞してしまう。主人公リッカルドという推進役を失ったせいで、劇の連続性に空(くう)隙(げき)が生じている。おそらくヒーロー不在の劇中で、代わりになる資格を持っているはずのクレオンも、初日に終えた戴冠式で仕事は一段落したとばかりに顔を見せようとしない。時が満ち、きっかけが与えられない限り、自ら積極的に物語へ働きかけようとはしないのである。
 だからといって二日目は劇場内の町には何もありませんでは寂しい上に、あまりにも工夫と努力に乏しいから、公国劇場では、この空隙を埋めるため、いくつかの神話劇を舞台にのぼせてみせる。
 基本的には様々な神話の中からある場面を抜き出した一幕物として構成されており、そのため、ほとんどすべての演目に挿話的な趣がある。演じられる場所は、屋内、屋外を問わない。神話から材をとってくるのだから、それこそエピソード(挿話)の数には困らない。ドロテア演劇では、常に十いくつかの神話劇が用意されていて、観客の飽きをふせぐために、その中からだいたい午前中に二本、午後の部に三本程度が選ばれて舞台にかけられる。神話といっても、主に島民を相手にして短編劇をやるのだから──外国人の旅行者には、半円型野外劇場で演じられるリッカルドのプリクート漂着以降の物語がすすめられ、たいていの観光客はそちらに足をのばす──崇高さとか、それに類似する何かわれわれを高めてくれるような感動といったものは、基本的に期待できない。
 大食漢のヘーラクレースや、民衆の味方プロメーテウスの人気が高いのは、ここドロテアでも同じであるが、公国民はそれ以上に、神話から抜き出された猥褻(わいせつ)な場面を、もしくはみだらな解釈をされ演出がほどこされた劇を、より一層よろこぶ。例えば、鍛冶(かじ)の神ヘーパイストスの寝取られ、つまり美の神アプロディーテーと軍神アレースの不倫密会が、オリュンポスの神々に直接暴露される場面である。寝台の上で裸で抱き合ったまま、見えない網にとらわれた二神を、見世物のように取り囲んで笑う神々。観客達はさらにその周囲にあって、この見世物を神々と同じように笑う。
 神々同士の交情だけでなく、神々と人間の交合も、これまでに数多く上演されており、島民の受けが非常によい。中でも最も多く再演されたのは、ゼウスとイーオーの情事である。島民達の嗜好により合致するように、イーオーはゼウスに犯されてから牝牛にされるのではなく、正妻ヘーラーの目を欺くために、ゼウス自身も雄牛の姿になって交尾するよう改変されている。少し変わったところでは、新約からの拝借で、「罪の女」もしくは「マグダラのマリア」などともされる女性(ドロテア演劇では、より直接的に、売笑婦(ばいしょうふ)マリアとする)が、キリストの頭へ香油を注ぎかける段がある。ここでも、女に横恋慕をするユダの目を通すことによって、神聖なはずの行為が、官能的なもの、淫猥(いんわい)ささえ感じさせるものにすり替えられている。こういう具合だから、ドロテア演劇における神話劇が、しかつめらしい印象とはかなり趣の違ったものだと了解していただけるだろう。むしろ笑劇めいた台詞や演出が少なくなく散見される。
 神々を演じるのは仮面をつけた役者である。普段自分の役では素顔をさらしている外国人の役者が、開幕で歌う九人の女や、リッカルドの偽の葬儀に登場する兵士、戴冠式で王妃となるクレオン夫人などを演じる場合と同じく、仮面をかぶって舞台に立つのである。神々ではない神話に登場する人物、イーオーやユダや売笑婦、百目を持ったアルゴスのような怪物なども、すべて例外なく外国人の役者の受け持ちである。
 神話劇には島民の演者は決して出演しない。これはかなり徹底された暗黙裡(あんもくり)の規則であって、突然の事故や病気といった予定外の事態に役者が陥(おちい)り、直前で他の役者がどうしても確保できないという場合でも、代役に起用されるのは外国人の脚本家なのである。彼もしくは彼女が脚本家であっても、ドロテアの出身ならば、神話劇には出演できない。
 当然外国人の役者であっても、二日目に「森」にいるリッカルドやミュネーシケー、妖精のクイック、魔女エオーディアなどは神々になれない。中でもミュネーシケーは、自分の役柄での出番がない公演日でも、慣例として仮面をつけた役者が演じるべきとされている役どころを一切演じない。彼女には、ミュネーシケー役を演じていない待機時間にすべき別の仕事がある。先にも触れた、劇場内の売春業にたずさわっているのだった。
 ミュネーシケーは、自身が高級娼婦であるのはもちろん(島民達は彼女がそうあるべきと強く望んでいた──というより、もっと正確に表現すれば、そうでない彼女を想定することは島民達にとってあまりに困難であるらしかった──ので、彼女達が公国劇場に出演し続けようとする限り、否(いや)応(おう)なく体を売らなければならなかった。とはいえ私が知る限りにおいては、ミュネーシケーはごく自然にその生業(なりわい)に馴染(なじ)んでいったように、自らが進んで身を落とし汚すように見えたものだった)往々にして、劇場内で商いをする他の娼婦達のまとめ役になることも多かった。舞台をおりたミュネーシケー達は、一口に言ってふしだらな女である。言い方を変えれば、彼女達はふしだらでありさえすればミュネーシケーと認められるのだった。ジャックがラウラ以外の女となら、誰と寝ても良かったように、ミュネーシケーはリッカルド以外の役者となら、誰と噂になっても、崇拝とはわずかに違うように思われるがほとんど区別がつかないほど似通っている名聞(みょうもん)を、島民の間で得ることができるのだった。しかし、ジャックが島民の女にも積極的に手をつけそれを吹聴したのに対して、ミュネーシケーは島民の男とは噂にならないという点において二人は違っていた。ミュネーシケーは代わりに高級娼婦として、裕福な外国人旅行者とベッドを共にするのだった。
 クレオンやルゴリオー、海賊船長ポリュゴトラーポンピュルニニスといった、私生活で実直さや品行方正さを求められがちな役者には、ミュネーシケーは非常に危険な女性である。一度でもその色香に迷えば、彼女の人気と声望(せいぼう)がいよいよ高まるのに反して、彼等にとってはすぐさま命取りになってしまう。ミュネーシケーは商売柄、いろいろの手管(てくだ)に長けている。例えば、彼女は二日目の開場前、食堂棟で代(か)わり映(ば)えのない朝食をとっている役者の一人に近づいて、気安く声をかけたものだ。
「おはよう。あなたは朝から元気でいいな。私は朝が弱くって、いつも疲れが残っちゃうから。今日は一日中出番があるっていうのにひどい顔してるでしょ?」
 起き抜けのままといった風情で無防備な姿をしているか、保守的で露出を抑えた服をすでにきちっと着こなしているかは、その時しだいでまちまちのようである。多分、ふしだらだということ以外の、ミュネーシケーそれぞれの個性によって違うのだろう。もしくは彼女が他のミュネーシケー達とくらべてより危険な、ということはより役にふさわしいミュネーシケーだった場合、相手の反応や好みを考慮するのはもちろん、同僚として彼とどれだけ親しく会話できる間柄なのかによって、服装だけでなく立ち居振る舞いまで変化させていたと考えるべきなのだろう。
 声をかけられた方の役者は「おはよう」を返したあとに、何か一言くらいは付け足すだろう。「大変だね」とか「そうか、今日は二日目だよね」といった、ごく自然で当たり障りのない言葉を。それから「いつもと同じで綺麗だよ」というような上手は口にしないでも、野暮は野暮なりの誠実さで「ひどい顔なんかには見えないけどな。大丈夫だよ」くらいは言ってのけるだろう。なぜなら彼女が顔をむくませて食堂棟に顔を出すなどあり得ないからだ。たとえ生真面目な彼等の節穴のような目に、ミュネーシケーが起きてすぐの化粧っ気のない素顔に見えたとして、実際にはそうであるかのように見えるだけに過ぎない。
「ありがとう、優しいね。あなたは、いつもこんなに朝早いの? 私も真似しようかな。ねえ、ここは空いてるんでしょ、座ってもいい?」
 そう聞いた時にはもう、ミュネーシケーは隣に腰掛けていたものだ。ついでに言えば、仕事柄、彼女は早起きの習慣を身につけようとはしなかった。ミュネーシケーは公国の役者の礼儀にのっとって、食べ飽いた朝食の献立に軽い不平をもらし、役者の誰彼の噂をひとしきり話すだろう。この日出演する演目に関する意見や愚痴をのべたり、もはや眠っていても演じられそうなほど慣れきった自分の役柄について、本当には必要としていない助言をわざわざ求めてみたりする。隣に座る役者が、彼女の演技以外の仕事について、嫌悪ではなく同情をしめすようだったり、同情の裏に自分でも意識しているかどうか曖昧な情欲をひそませていると見て取れば、夕べの客がどれだけむかつく男だったかを話してみようという気になるかもしれない。
「あなた達は、今日は神話劇に出るんでしょう? うらやましい。だって、私みたいにずっと一つの役しかできないよりは、仮面だったとしても、他の役もできるほうがずっといいに決まってるもの」
 ミュネーシケーは彼が今日神話劇に出演するということは確かめても、何の役をするのかまでは詮索しない。総じてドロテア演劇に出演する外国人の役者は、仮面をつけている時の自分を軽んじる、または恥じ入るような感覚を共有しているからだ。そのような羞恥心をさほど感じていない者であっても、特に親しくもない相手には、仮面での出演予定を自ら進んでは明かそうとしないのが普通である。とはいえ他の日であれば、誰がどの仮面の役をしているのか、わざわざ聞きたださなくても、おおよそのところ見当がついてしまう。しかし二日目になると話は変わる。外国人の役者が演じなくてはならない仮面役の数が多いので、役を割り振りスケジュールを管理している脚本家や劇場職員でもない限り、それぞれの演目に誰が出演するかは把握できない。共演者であっても、当日の舞台裏で顔を合わせて初めて知るということはざらなので、ある役者が早入りして衣装に着替え終わっていたなら、仮面を装着した彼や彼女が誰なのかは、直接に問いただすという不粋(ぶすい)を犯さない限り、相手役でも背格好や声音で推測しなければならないということが少なくないのだった。
 ミュネーシケーは隣に体をちかづけ、すっきりした顎(あご)の線から、ほつれ毛が弧(こ)を描くうなじまでを見せつけたり、または、いかにも柔らかそうだがはりのある二の腕を目の前に突き出し、ことにもふくよかな胸元をにじり寄せ、しかしそうするのも話に夢中になっているからだというように、視線は中空にさまよわせて続けるのだった。
「時々考えてみるの。もしも私がミュネーシケーじゃなくって、別の役に選ばれていたらどうだったろうって。別に考えるだけだから、ベルでもフローラでも、なんでもいいの。もしも私がミュネーシケーじゃなかったら。そうすれば、今日だって神話劇に出ているはずでしょ。たとえば、私がアプロディーテーで、相手役のアレースはあなたかもしれない。そんなことを時々想像してみるの。私にとっては素晴らしい考えなんだけど、いつも神話劇に出られるあなたには分からないかもね。でも、そうは思わない? もしそうだったとしたら、どんなに素晴らしいだろうって」
 ここで「その通りだね」でも「なるほど、分かる気がするよ」でも返事の仕方はなんだっていいが、ミュネーシケーの問いかけに同意をしないクレオンもルゴリオーも海賊船長(彼の名前はあまりに長いので、この後もこのように表現するのを了承頂きたい)もいるとは思われない。「そんなことは考えたこともなかったよ(なぜなら、仮面役なんて好き好んでやるようなもんじゃないと思ってるからね)」などと答える役者は多くいそうだが、たとえ仮面役を低く見るのは役者に共通の考えであっても、その中で品行方正を期待されている彼等には、ふさわしい言葉ではない。
「そうだ。アレースといえばね、昨日ジャックが、明日は俺がアレース役なんだってはりきっちゃってて。あの人は、ほら、あんな風だから。アレースをやるのはアプロディーテーだったフローラをものにした時以来だってうるさいの。いくらジャックでも素面(しらふ)だったら自分の役をべらべら喋ったりしないんだろうけど、昨日は初日だったから。私が仕事を終わって顔を出したときにはもうすっかり出来上がっててね、役とはいえベッドで一緒に裸になった女を、俺がどうとうもしないで終わる訳がないんだとか何とか。私は嫌になってすぐ帰っちゃった」
 お前はどんな仮面を演じるのかと、直接問いかける行為が慎(つつし)まれるべきであり、神話劇で自分が演じる仮面役を誰彼の区別なく吹聴するのも、役者仲間に眉をひそめさせる振る舞いであったとしても、誰かから聞いた噂、自然と耳に入った風(ふう)聞(ぶん)という前提があれば、その場にいない第三者の出演予定を話題にするのは許されるという、これも暗黙裡の共通理解があったし、人によれば喜んで詳しく聞きたがりもする。だからミュネーシケーは「これも確かジャックが言ってたんだけど」と何度か強調しておいてから、やっと用意してきた話に踏みこむのだった。
「ねえクレオン、これもジャックが言ってたことなんだけど、彼がやるアレースの相手をするのは、エレオノールなんだってね。わざわざ私が言わなくたって、彼女がアプロディーテーだってことは、きっと知っているんでしょうけど」
「いいえ、そうなんですか? 今はじめて聞きましたから」
「そう? そうね。一緒に暮らしていたからって、なんでも知ってるわけじゃないのに。言いづらいことだってあるもの。私余(よ)計(けい)なことを言ったなら、ごめんなさい。あんまり気にしないでくれるといいんだけど。酔っ払ったジャックが言ってたことだから、本当にそうかどうかも分からないようなことなの」
 このくらいの軽いからかいで、世慣れた人格者のクレオンをいつでも動揺させられるなら、ミュネーシケーはずいぶんと楽だろう。ただしあまり簡単過ぎても、成功した場合に受けられる島民からの賞賛が目減りしてしまうかもしれない。
「大丈夫ですよ。エレオノールは最近自分に振られる仮面役に、不満を持っているようでしたからね。アレースやアプロディーテーなんかの人気役は、若い役者ばかりが指名されて自分達には演じさせないんだってね。私がゼウスをすることも、エレオノールがイーオーになることもないと決めつけていたようなんですよ。これで勘違いだと分かったなら、彼女の機嫌も良くなっただろうし、あなたが教えてくれた通りならば、私にとってもいいニュースですよ」
 多くの場合において、ミュネーシケーがクレオンの心を揺さぶるのは容易でなかったようだ。特にエレオノールの容色に、往時にくらべて衰えが見えてきているほど、嫉妬をもちいて心の隙間に入りこむのは難しかっただろう。とはいえ、過去にはミュネーシケーと噂をたてられ人気を落としたクレオンもいたのだから、たとえば彼と暮らしているのが、若く美しいエレオノールだった場合、いつもこのようにクレオンが余裕をたもった受け答えをできたかは疑問である。クレオンがまだ枯れきっていない壮年の逞しさを内側に持っているなら、エレオノールとの関係が精神的なものかそれ以上踏みこんでいるかにかかわらず、心中おだやかでないこともあっただろう。世故にたけた人物であることが多いクレオンでさえ、そうでありうるならば、他の役者にいたっては、ミュネーシケーが仕掛けたこういう他愛ない罠にも、足をかけて転びかねない者の数がより多くいたと思わなければならない。
──「ねえラウラ、君が稽古をしていた新作は、今日はじめて舞台にかけるって言ってたんじゃなかったっけ?」
 ルゴリオーは何の気なしでといった態度を意識して問いかけるのだった。こういう遠回しにかまをかけるようなやり口は、どのルゴリオーがやってもぎこちなかったはずだ。
 ラウラはまだベッドの上で昨夜の余韻とつながったまま、気怠(けだる)い様子で座り込んでいるか、ソファに腰かけ眠い目をこすりつつ、タバコをふかしたりしているだろう。
「そうだけど? 昨日だって話したじゃない。ううん、私が話してあげようとしたけど、真面目に聞こうとしなかったのよ、あなたがね。新作がうまくいけば、あなただって脚本をおぼえて演じられるようにならなきゃいけないんだからって言ってあげたのに」
「他人がやる仮面役について聞くのは、あまり歓迎されないってことくらいは僕でも知っているからね、遠慮したんだよ」
「ただの他人ならね。でもルゴリオーがラウラにそんな遠慮なんて必要ないでしょ。今まではそうやって遠慮していたくせに、今朝になって突然気が変わったのね」
「新作はやっぱり誰だって気になるじゃないか。君が言うとおり、芝居がうまくいけば、僕だって台本をおぼえて、稽古をしなきゃいけないからね。ゆうべ聞かなかったのは、ベッドで仕事の話なんかしてたんじゃ、集中できないからさ。昨日君から話そうとしてくれてたんだから、今聞いたっていいと思ったんだよ」
 ルゴリオーがラウラの顔を見られずに、苦しい言い訳をひねりだしている姿はたやすく想像できる。普段四角四面な人種というものは、誰かにかまをかけようなどと慣れないことを考えると、自分が仕掛けた罠にかかる滑稽な猟師のように、反対に自らの秘密を探り出されてしまうものだ。勘がいいラウラなら、寝起きが悪かろうが、二日酔いだろうが、昨夜示しあった愛情のせいで体が重たかろうが、もうこのあたりでルゴリオーが何か隠し事をしていると気づいてしまっていておかしくない。
「ああ、そう。別に話してあげるのは構わないわよ。あなたがそんなに新作に興味があるっていうのならね。でも色っぽい場面はないから期待しないで。そのかわりにとても残(ざん)酷(こく)なのよ。私は息子をばらばらに引きちぎって殺してしまう母親役をやらされるんだから。ギリシア悲劇にある『バッコスの信女(しんにょ)』は知ってる? ぶどう酒の神様、ディオニューソスと、彼を盲信する女達の話。あれと題材が同じらしいわ」
「見たことも読んだこともないよ。ディオニューソスの名前くらいなら知ってるけど」
「あら、私の恋人はずいぶんと教養がないルゴリオーなのね」
「失望させて悪かったね。僕は脚本家じゃないから、ギリシア悲劇を読んでなくてもなんとかなるんだ」
「私のルゴリオーはすねちゃったの? かわいいから、許してあげる。なぜって、私だって知らなかったんだもの。何? そんな顔しなくったっていいでしょ。新作の内容を教えてあげるんだから、もっと感謝してもらわなきゃ。小屋はクレオンの宮殿でやるのよ。今日やる芝居はね、神話劇だけど一幕物じゃないの。
 テーバイ王ペンテウスの前に、両手を縛られた男が一人いる。彼はすばらしい美男子なの。と言っても、仮面をつけてはいるけれどね。でも、仮面をつけているからこそ、どんな役者が演じても、本当に美男子だって言えるでしょ。彼は縛られた手に常春藤(きづた)の蔓をからめた聖なる杖を持っている。長い髪を垂らしていて──これはかつらをつければいいわね。肌は白く、みずみずしい唇は、そのままでも紅をさしたように艶(なま)めかしい。木彫りの仮面でどこまで表現できるかは難しいところだけど、私が見た限りでは、なかなか良くできてたと思うわ。長い髪にも常春藤をさして、その上、蛇を頭に巻いて冠にし、狐皮でできた胸当てをつけている。この男がディオニューソスね。
 テーバイ王ペンテウスと、ディオニューソスは従兄弟なのだけど、王はこの美男子がゼウスの子だとも、神々の一人であるとも認めてないの。だから、あやしい術をつかって、テーバイの民を惑わしていると言って、厳しく責め立てる。ディオニューソスが捕まっているのもそのせいなの。葡萄酒の神は、母セメレーは確かにゼウスを父として自分を産んだこと、そして自分は神として生をうけ、ヘーラーの嫉妬のために人の世の各地をさまよい暮らさなければならなかったと言うんだけど、テーバイ王は承知しない。
 ペンテウスはディオニューソスを口汚く罵って、美しい長髪と、日焼けを少しもしていない肌を男らしくないと嘲り、お前は自分の姿形を変えられるという話だが、どうしてそのままの姿で兵士に見つかったのか、また予言の力があるとも聞いたが、どうしてお前は囚われの身となり、ここにこうして引き立てられる自分の姿を予見できなかったのか、それは結局、お前の力というものが全て嘘であり、お前が神ではないと証明している、と言うの。酒の力で民を堕落させ、邪宗に帰依させた信徒を扇動し、いずれは王の地位をおびやかすつもりだろうと決めつけてしまう。牛飼いが登場するのはこの時ね。
 牛飼いが話すのは、バッコスの信女、つまりディオニューソスを信仰する女達のことよ。彼は牧場で女達を見かけ、あとを追って森の茂みまで行く。牛飼いの話はちょっと刺激的だわ。彼が見たのは神がかりになって歌い踊るテーバイの女達だった。不思議なことに、杖を突き刺した地面からは、葡萄酒が泉のように湧いて出てきている。女達の誰かが乳を欲すれば、ただ中空をすくっただけで、牛や山羊の姿もないのに、両手いっぱいにあふれそうなほど満たされる。蜜がほしければ、常春藤を絡めた杖をかざしてやるだけで、際限なくしたたり落ちてくる。女達はそれぞれ好きなものを飲み、声を合わせて酒神をあがめ歌い、異国風のあやしげな舞踏を疲れ果て眠るまで続ける。その中には、ペンテウスの母アガウエーの姿もある。私が今日やるのがこのアガウエーなのよ。
『ええ、間違いようはございません。あれは確かにアガウエー様です。私はちょうど十年前の収穫祭の折、父に付き添って、生贄(いけにえ)用のよく太った仔牛を祭壇のすぐそばまで連れて行ったことがございます。御母上は私達牛飼いの父子に直接やさしい言葉をかけ、労(ねぎら)ってくださいました。そのときのお姿は今でも忘れません』
 どう? 牛飼いの台詞を私が覚えてたって仕方ないけど。うまいものでしょ? それで牛飼いは仲間を集めて、私を救い出そうとするのよ。だけど、見つかってしまってさんざんな目にあうのね。命からがら逃げ出したのはいいけど、女達は彼等が飼っている牛の群れに躍りかかって、仔牛も、牝牛も、怒り狂った牡牛ですら、素手で肉を引き裂いて、ばらばらにしてしまう。信じられる? お話だって言っても、女達があんまり怖ろしくって、笑ってしまうでしょ。しかも女達の蛮行はこれで終わりじゃないのよ。そのまま村を襲うと、銅器に鉄器、それから幼い子供達をさらって、森へ帰って行くっていうんだから、いくら最初に攻撃を受けたからって、やってることは山賊並みだわ。村人が武器をとって反抗しようとしても、女達に傷一つつけられないんだそうよ。反対に、女達の弱々しい細腕でふられた杖のせいで、どんなに屈強な男でも、ひどく痛めつけられるっていうんだから、ディオニューソスの力がどんなに偉大だか分かるってものでしょ。
 ここまでが牛飼いの話。だから、まだ私は舞台には登場してないの。どう? これでもかいつまんで教えてあげてるんだから、ずいぶんな長台詞だって分かるでしょ。私は牛飼いの役にはならないけど、男のあなたには、いつか回ってくるはずね。楽しみにしてればいいわ。牛飼いは女達の怖ろしさを目の当たりにしているものだから、信徒を虐げるのではなく、バッコスを新しい神としてテーバイに迎え入れるようすすめるけど、ペンテウスは激怒して牛飼いを追い払う。バッコスとはつまり、その場で両手を縛られているディオニューソスで、テーバイ王はこの色男が、自分の地位を狙っていると疑っているんだから。ペンテウスは、自ら武器をとってバッコスの信女を捕らえ、母を取り戻すと宣言するんだけど、その時、ディオニューソスの両手をきつく縛り上げていたはずの縄が、するする外れてしまうの。結局ペンテウスはディオニューソスとの噛み合わない問答に業を煮やして、王宮で待っていろ、母を助けて戻ってきたら改めて裁いてやると、捨て台詞して退場しようとするんだけど、その時ディオニューソスがそっと後ろから近づいて囁くの。『王は森にいる女達の姿を、じっくりと見てみたいとはお思いになりませんか』ってね。
 この時にもう、ペンテウスはディオニューソスの術にかかってしまっているのね。あれほど忌み嫌っていたはずの、バッコスの信女が歌い踊る様を、見たいと思うようになるのよ。自分でも突然の心変わりに驚きながらね。『酔っ払った女達の姿など、見て不快には違いない。不快には違いないが、どうしたことか、俺は是が非でもそれが見たくて堪らなくなった』と言ってね。
 楽しいのはここから。女達に見つかって怪しまれないようにと、ディオニューソスがペンテウスに女装をすすめるのよ。ペンテウスは言われるまま、信女達と同じ姿に着替え始めるの。まずは衣装が必要だから、ディオニューソスが、少々お待ちをと、舞台袖(ぶたいそで)に一度引き返すんだけど、途中で直接客席に向かって話しかけて、ペンテウスをむちゃくちゃにこき下ろすのよ。まずは着物を脱がせて、ほとんど裸にむいてしまってから、長い髪のかつらに、長い裾(すそ)の着物を着せる。まだら模様の仔鹿の皮を腰にまき、髪留めをつけて、常春藤を髪にさす。あなたの予想通り、このあたりは私が今簡単に説明したようには終わらないわね。たっぷり時間を取って、ばかばかしくて滑稽なやり取りをくり返すの。それから、顔が男のままでは女の服装をしても意味がないと、白粉で顔をぱしぱしはたくのよ。顔といっても仮面だけど。仮面のペンテウスが咳(せ)き込(こ)んでも、嘘くさくって笑えないっていう意見があったから『おい、いい加減にしてくれ。そんなにはたくと、仮面の中まで粉で真っ白だ』って台詞を足したらしいんだけど、どうかしら。島民に受けると思う? 化粧が終わったら、ペンテウスの仮面の上に、女の仮面を被(かぶ)せてつけさせるの。当然、一目で不器量と分かる仮面をね。私にはちょっとエレオノールに似て見えたんだけど……今のは内緒にしておいてちょうだい。
 女装が終わっても、ディオニューソスはそうたやすくペンテウスをいたぶるのをやめはしないわ。だって、とっても簡単に観客を喜ばせられるはずの場面だもの。女らしくしゃなりしゃなりと歩けと言って、しつこく舞台を左右に往復させたり、しなをつくって女らしい言葉遣いをしてみせろと言って、何べんもやり直させるのよ。ペンテウスも本当に女らしくはしないわ。なるべく不自然に、観客がおかしいと思ってくれるように演じるの。そこまでやったら二人はやっと退場する。退場といっても、客席におりて、通路を歩くのよ。そのまま建物を出て、宮殿の敷地内に設えられた舞台までね。そしたらやっと私の出番。と言っても、観客が移動を終わるまで、いくらか待たなくちゃいけないんだけれど。
 緑一色の舞台には、いたるところに葡萄の蔓が巻かれてあるから、どんなに鈍い観客にだって、幕が上がればすぐ、バッコスの信女がいる森だって分かるはずよ。舞台の真ん中には葡萄酒を入れた大きな甕(かめ)。背後には梢の見えない樅の木が一本。舞台の端ではディオニューソスとペンテウスが岩陰にひそんでいるのよ。
 舞台にあがる女達は、アガウエーとその姉妹、イーノーとアウトノエー。女装したペンテウスと同じ衣装をつけて出てくるの。でも、仮面は彼と違って不器量じゃないわよ。三人ともベルトのように蛇を腰に巻きつけてる。芝居だから、おもちゃなんだけど、小道具としてよくできてるわ。まるで本物みたいに気味悪くね。はじめは蛇の剥製(はくせい)を使うつもりだったらしいけど、気持ちが悪いから三人で反対してやめさせたの。観客が目にすることができるバッコスの信女はその三人っきり。島民が使えれば信女達のコロスだって組めるんだろうけど、できないものは仕方ないわ。せいぜいお客さんをその他の信女に見立てて、客席にむかって話しかけてやるくらいのことしかできないのよね。登場した三人の姉妹は──今日は私がそのうちのアガウエーをやるっていうのは覚えてるわよね? ──とにかく姉妹は舞台に出てきてから、甕の葡萄酒を飲んで酔っ払って、ひとしきり台詞をかわし合うんだけど、なんせ物狂いの役でしょ? だから、意味があるようでいて、何の意味もなかったり、会話をしているようでいて、まったく噛み合ってなかったりするような台詞なの。観客へのサービスね。島民に受けるかどうかは、やってみなくちゃ分からないけど。男共が喜ぶような艶っぽい台詞もあるにはあるから、そうひどいことにはならないと思うんだけど。
 その間、舞台の端にいる男二人は、と言っても、一人は神様ね。女装した王様と、元から女のような酒の神は、声が聞こえるとか、姿が見えるとか、ごちゃごちゃ囁きあっているけど、そこからじゃペンテウスにはよく見えないようで、ぶうぶう不平を鳴らしだすのよ。その間に私達は踊りをはじめて、歌を歌い、ディオニューソスと、彼が人にくだした葡萄酒の素晴らしさを誉め讃える。舞踏と歌がはじまると、ペンテウスはいてもたってもいられなくって、間近で信女達を見たいと狂おしいほどに願うの。彼もすでにディオニューソスによって正気を失わされているんだから、どれだけ狂っていたっていいわけだけど。ディオニューソスは一計を案じて、信女達のそばにある樅の木の梢に王を移してやろうと言う。彼がえいやと杖を振ると、ペンテウスの姿はかき消えて、高い樅の木の梢から、よく見える、よく見えると喜んでいるテーバイ王の声だけが聞こえてくるのよ。本当には舞台袖からはけたペンテウスが、裏から喋っているだけなんだけどね。
 ここからがクライマックスよ。ディオニューソスは信女達に向かって、卑しい獣を捕らえよ、奴は樹の上にあって、決して漏らしていけない我らの祭りを覗き見ようとしているぞと、ばらしてしまうのよ。信女達が、と言っても舞台にいるのは姉妹が三人きりだけど、とにかく私達三人が樅の木を揺らすと、ペンテウスが落ちてくるのね。この時のペンテウスウは、女装はしているけど、仮面は元のをつけて落ちてくるの。
 女達はペンテウスに襲いかかる。姉妹にとってはわが子と甥(おい)っ子になるテーバイ王ではあるけれど、狂っているから獣だと信じて、掴みかかる。テーバイ王はまたたく間にずたずたにされてしまうわ。手をとって力を入れれば、腕が引っこ抜かれるし、脚だって同じに胴体にくっついてはいられないの。私は息子の首をちぎり取って、イーノーとアウトノエーはペンテウスの体をぐちゃぐちゃの肉片にしてしまう。あたり一面血まみれになって、返り血を浴びた女達も血まみれのひどい有(あり)様(さま)。その中で、自分の息子の首を高々とかかげた私が、逞(たくま)しいライオンを女達が素手で仕留めたと誇らしく宣(せん)して、姿をあらわしたディオニューソスに首を捧げたところで幕はおりるわ」
 途中からは立ち上がって身振り手振りをまじえ、一人で今日やる芝居のリハーサルをやりきったラウラは、どっかりとソファに腰をおろした。もうすっかり目はさめている。新しい煙草をとりだして火をつける。深い呼吸のあとに吐き出された煙が濛(もう)として、彼女の顔を霞(かす)ませ、表情をぼやけさせた。ルゴリオーは新作の内容に本当はさほど興味を持っていなかったからこそ、それらしい問いをひねり出さないではいられなかった。
「ペンテウスは落っこちてくる時にはもう人形なのかな?」
 ラウラは嬉しそうに微笑みながらとぼけてみせる。
「さあ? いい線いっているかもね。そんなことより、私はあなたの質問に答えてあげたんだから、今度はあなたの番よ」
「え? そうだな……二日目にやる劇にはあまりなかったような題材だし、面白いと──」
「違う、違う。私が聞いてるのは、今まではこっちから話しかけた時でさえ気をつかって、私が何の役をやるかってことを知ろうとしなかったくらいなのに、どうして今朝に限って突然聞いてきたのかってことよ。不自然じゃない。ルゴリオーがラウラに隠し事をしようとしたって無駄なんだから、本当の理由を教えなさい。何があったの?」
 ルゴリオーは驚いて恋人の顔を見てから、うなだれると、決まり悪そうにつぶやいた。
「さっき食堂で聞いたんだよ。君がアプロディーテーをやるってね。今日は新作をやるはずだって聞いてたから、気になったんだ」
「誰から?」
「ミュネーシケーだよ」
「ああ、彼女にふきこまれたのね。よく分かったわ。あの女は平気で嘘をつくんだから、気をつけなきゃいけないわよ。ルゴリオーのあなたは特にね。この話は終わりでいいわ。だから、いつまでもしょげてないで。そうね、さっきの続きを聞かせてくれない?」
「さっきの?」
 ラウラはソファの隣を手の平で軽く叩いた。
「教えてあげた新作の内容について、あなたの感想を聞かせて。島民に受けると思う?」
 ルゴリオーはすすめられるまま、恋人のとなりに腰かける。
「結末がショッキングなのは悪くないと思うよ。濡れ場がない神話劇だって、いくつもあるんだから。ただその場合は、かわりにうんと滑稽なものばかりだけどね。だから、実際見た上でないと判断はしづらいけど、受けるためには、あまり堅苦しいと思わせるような芝居にしないことなんじゃないかな」
「そうよね。私も同じことを心配してたんだけど。本を書いたのがあの脚本家だから、役者が島民の好みに合わせて馬鹿馬鹿しく演技しようとすると、あまりいい顔をしないのよ」
「あの脚本家って?」
「あの脚本家って言ったら、あなたと最近ずいぶんと仲がおよろしいらしい、あのチーノの脚本家に決まってるじゃない」
「ああ、神父の脚本家のことを言ってるの? だとしたら彼は中国の人間じゃないよ」
「じゃあ何なの?」
「さあ。とにかく彼は『中国に旅行したことがある』と言っていたからね。だから中国人ではないだろ。アジア系なのは確かだろうけど、それ以上は知らないよ」
「だったら別にチーノの脚本家で構わないじゃない」
 役者は脚本家を名前で呼ばない。脚本家は普通、役者と同じく外国人であるが(ただし、役者の場合のように暗黙の禁忌(きんき)があるのではなく、現実的な要請からそうなってしまうだけであり、能力があれば島民でも雇用されうる。実際に、過去には「島民の脚本家」も「本土人の脚本家」も存在した。ドロテア公国民の多くは、観客として娯楽の享受者でいることを好むから、結果として外国人の脚本家ばかりになるだけだ)役者ではない彼等は役名を持たないので、島民はごく当たり前に脚本家を本名で呼ぶ。
 しかし、役者達は「あの脚本家」とか「その脚本家」などと言って、脚本家を名前で呼ぼうとしない。まるで脚本家に個性がないかのように、個人として認めたくないかのように扱うのである。どうしても個別に指定する必要がある場合は、役所勤めの脚本家とか、女の脚本家、ひげの脚本家、デブの、年寄りの、といった呼び方をする。ほとんどの役者は、脚本家を陰で馬鹿にして、彼等と距離をおきたがる。本当の名前を失ってドロテアで生活する役者達の心には、同じよそ者として公国劇場に雇われていながら、本名のままでいる脚本家達への、嫉妬めいた感情が巣くっているように思われてならない。
「脚本家と友達みたいに付き合うのはどうなのかしらね。ルゴリオーが、クレオンだったり、あの長ったらしい名前の船長と気が合うっていうのは分かるわよ。でもね、何も好き好んで脚本家連中と仲良くしなくったって」
「どうして? 彼はいい人だよ」
「あの噂好きの神父が?」
 ルゴリオーは、ラウラが顎を上向かせて見おろす表情に、軽侮を感じ取って反発した。
「神父の脚本家は別に噂話なんか好きじゃないよ。噂好きなのは、島民と、君をふくめた役者達のほうじゃないか」
「手厳しいのね。恋人にはもっと優しくしてくれなくちゃ。あの脚本家がもともとは噂好きな性格ではないとしてもよ、ドロテアの神父は噂話に詳しくないではいられないのよ。信仰心なんて欠片(かけら)も持ってないような島民達が、なんであんなに足繁(あししげ)く教会に通うかは知ってる? 告白をすればすべての罪がゆるされるということだけは、都合よく信じているからよ。島民が自分の罪だけを告白してすむと思う? ついでに他人の秘密までべらべら喋るに決まってるわ。当て推量や、こじつけや、たちの悪い嘘も一緒にね。だから、公国のことは何でも、根拠もない噂や、本当は事実と違う誰かの行動もふくめて、教会の神父に筒抜けなの。島民の女達が誰でも神父に熱をあげてる理由が分かったでしょ。彼は噂話の宝庫なのよ。神父といい仲になれば、それがすべて手に入るんだもの。あなただって、自分のことを何でも話してしまっているんじゃない?」
「僕は敬虔(けいけん)な信徒だよ。島民とは違う。神父に相談事をしていけないかい? この島じゃあ信頼できる友達なんて、そうそう望めやしないじゃないか」
「あの脚本家が、正式な資格を持っていない神父でも?」
「そうだとしても、他にろくでもない司祭はたくさんいるからね。それに、友達として相談をしているだけなら、誰に文句を言われる筋合いもないじゃないか」
 ルゴリオーがふて腐れて腹をたてると、ラウラは微笑んで謝る。主導権を持ったより大人な一方が、あえて下手(したて)にでて折れてあげたほうが、恋人という関係をつづける上ではより好ましい結果をもたらすものらしい。
「ごめんなさい。何もあなたを不愉快にしたかったわけじゃないのよ。ただ、他の役者と同じようにしたほうが、あなたにだっていいんじゃないかと思っただけなの。喧嘩はやめましょう。怒ってるの? 本当に怒ってはないんでしょ?」
 こういう時、ラウラは体をすりよせて、どんな恋人でも覚えがあるように、ルゴリオーの手を握るか、肩に手を置くか、そうでなければ、うなじに手をまわして優しく撫でてやるか、とにかく、経験からそのルゴリオーが心地(ここち)よいと感じる愛撫を、丹念にためしてみるのだった。
「怒ってはいないよ」
 ルゴリオーは和解を受けいれる印に、罪のない嘘をつくのが常だった。
「良かった。喧嘩なんてしたってつまらないもの。別の話をしましょうよ。そうだ、あなただって今日も神話劇をやるんでしょ? 何の役なの? それとも、私の役は聞いても、自分の役は教えたくない?」
「そんなことはないよ。別に僕は仮面をかぶるのだって嫌ではないんだ。ただ表では言わないのが皆のルールだから、そうしているだけだよ。だから、別に君の役が何か聞いていなくたって、君が僕の役を知りたいなら教えるさ。君は僕にとって他の役者達とは違う、そのつまり、特別な人だからね」
「愛してるって言ってくれればいいのよ。それは嬉しいけど、ねえ、それで? あなたは何の役をやるの?」
 ラウラはおどけた調子で両手を広げた。ルゴリオーの答え方は、仮面役を嫌がっていない役者にしてはやけに覇気のない、微妙な態度だった。
「ウコバクをやるんだよ」
 ラウラは手を叩いて笑い転げた。
「本当に? あなたがウコバクをやるの? ルゴリオーがウコバクをやるだなんて。待って、ルゴリオーだからウコバクにふさわしいのかしら? えっ? どうなんだろう。ねえ、あなたはどう思う?」
 ルゴリオーは笑うラウラを尻目に、つまらなそうに答えた。
「ルゴリオーでも、リッカルドでも、アイヤックでも、たとえラウラやフローラだって、ウコバクをやるには関係ないよ」
 ウコバクは、神々でなく、英雄でもなく、神々に愛される女でもない、役者達が演じたがらない怪物や魔物の類いのうちでも最も人気がない下級の悪魔である。しかし島民からの人気は高かった。ウコバクやアルゴスのような異形達は、仮面役というよりは仮装役と表現したほうが適切な衣装をまとう。ウコバクを演じる役者は、ブルトンの挿絵にあるように、並外れて大きな鼻、まるい目、厚い唇、とがった耳をした、頭をすべて覆ってしまう仮面をかぶり、裸の尻からは牛の尾をたらし、股間には巨根をぶらさげる。手には大きなスプーンを持って、けなげにも一日中地獄の釜に油を注いでいるのである。

 

ウコバク (歌う)えっさあほいさ えいやあと よいこらせえの ほいさっさ
今日も今日とて一日中、地獄の釜に火をくべる
ベルゼブブ様の言いつけだ
昨日も明日も同じこと、地獄にゃ日曜もありゃしねえ
ベルゼブブ様にゃ逆らえぬ

えっさあほいさ えいやあと よいこらせえの ほいさっさ
働き者の農夫でも、陽が沈んだなら休むもの
けれど俺にゃあ許されぬ
冥府(めいふ)はいつでも真夜中で、陽なんか昇ったことがない
どんなに渋い雇主(こしゅ)でさえ、働きに応じた賃(ちん)を払うもの
けれども俺はただ働き
残業代など夢の夢、不景気でも変わりがないが慰めよ

えっさあほいさ えいやあと よいこらせえの ほいさっさ
俺がいなけりゃ、地獄では、燃える炎が消えちまう
俺がやらなきゃ、地獄の釜もぬるま湯で
俺がさぼれば、その途端、イクシーオーン⑴も回らない

えっさあほいさ えいやあと よいこらせえの ほいさっさ
燃えろ、燃えろ、勢いよく 燃えろ、燃えろ、天までも
ゼウスの尻を焼き焦がせ
⑴ 神々の食卓に招かれた折、ヘーラーを誘惑しようと企む。ゼウスによりタルタロス
(奈落、地獄の神格化)へ落とされ、燃える車輪に縛り付けられ空中を回転し続けるとい
う永遠の罰を受ける。

 

 ウコバクが一息ついて汗をぬぐうかのように、頭をすっぽりと覆う仮面に腕をこすりつけていると、舞台にもう一人の役者があらわれる。獅子の皮をかぶって、棍棒(こんぼう)を握った、英雄ヘーラクレースである。十二の功業(こうぎょう)のうちの一つ、冥府の番犬ケルベロスを捕らえるという冒険にやってきたのだ。

 

ヘーラクレース (大声で)おい、そこの下等な悪魔! お前はそこで何をしている?
ウコバク (独白)なんだ、なんだ、おかしなのがやってきたよ、まったく。背負ったライオンに頭を食わせてやがらあ。(振り返って)うるさいぞ! 俺様が何してようが、お前なんかの知ったことか。へんてこな格好をしやがって。馬鹿にでかいなりだが、お前こそどこの穀潰(ごくつぶ)しだ。
ヘーラクレース おっと、俺を知らないとはおそれいったな。これだから冥府なんかの田舎者は嫌なんだ。俺は神話世界最強の英雄、ヘーラクレースじゃないか。
ウコバク ヘーラクレースだろうと、ヘクトール⑴だろうと、ヘーゼルナッツだろうと、俺の知ったことか。こちとら勤勉なる労働者様だってんだ。仕事の邪魔だ、帰った、帰った。
ヘーラクレース ナッツと言ったな? それは団栗(どんぐり)かな? 胡桃(くるみ)のようなものなのか? 俺はナッツには目がないんだ。
ウコバク うるせえナッツ野郎⑵! ナッツに夢中⑶たあ、偶然でも馬鹿にしては気が利いてるじゃないか。
⑴ トロイア戦争、トロイア方の総大将。プリアモス王の子。 ⑵ 狂人の意。 ⑶ お
そらくこの脚本は、英語圏出身の脚本家が担当、もしくは部分的にあとから書き足したも
のと思われる。

 

 英雄と下級悪魔は、しばらく憎まれ口を利き合う。言葉でやりあえば、ウコバク的な役柄が優勢をしめるのは、あらゆる劇作品に共通したルールである。しかし腕力となるとゼウスの子に及ぶべくもない。苛立ったヘーラクレースに首根っ子をふん捕まえられ、ウコバクは観念して服従する。

 

ウコバク それじゃあ旦那はハーデス様のところへ用がおありなんでしょう。どうしてこんなところへ? ここはタルタロス、奈落の底の地獄ですぜ。(地面へ押しつけられそうな姿勢のまま上を指差し)ハーデス様のいる冥界はもっとずっと上のほうでさ。
ヘーラクレース それが俺にも皆目(かいもく)分からぬ。
ウコバク 道を間違えられたんですね。(やっと解放されてから、独白)俺は首を違えるところだったわ。
ヘーラクレース どうやらそうらしいな。
ウコバク (客席に向かって)こりゃあ、ただの迷子だぜ。図体(ずうたい)だけは一人前どころか二人前、三人前だが、おつむのほうは、三歳児以下ときていやがる。
ヘーラクレース おい、何か言ったか?
ウコバク へえ、旦那はさぞかし音楽に通じていなさるだろう、と言ったんです。なぜって、あのワン公は、竪琴(たてごと)の音色を聞くと、ぱったり倒れて熟睡しちまうらしいですからね。
ヘーラクレース いいや、俺は音楽は落第だった
ウコバク へえ、そうですかい。(客席に)確かにこの先生、風流を解する繊細さは持ち合わせていそうにないや。
ヘーラクレース そのかわり、ケルベロスは焼き菓子に目がないと聞いて、用意してきた。奴が夢中でむさぼり食っている間に、楽々と生け捕ってしまうという段取りよ。
ウコバク なるほど、さすがゼウスの子だ。音楽はだめでも家政のほうに天稟(てんぴん)がある。しかし旦那は、そのおっかねえ棍棒以外は手ぶらに見えますが、焼き菓子は背負ってるライオンの毛皮の中にでもしまってあるんで?
ヘーラクレース うん、腹が減って道々食ったんでな。もうない。
ウコバク (独白)こりゃほんもんだよ。やっぱり、ただの阿呆だった。気の毒に、ライオンの口で頭をがっぷりやられてるが、この皮ばかりになった百獣の王に、脳味噌を囓られちまったのかもな。
ヘーラクレース 菓子がなくてもなんとかなるだろう。そんなことより、料理人。食い物の話をしているとまた腹が減ってきた。とにかくなんでもいい、腹の足しになる旨いものを持ってきてくれ。
ウコバク 料理人? あっしがですか? 嫌ですぜ、突然ふざけちゃ。
ヘーラクレース 俺はなんにもふざけちゃいない。お前こそ俺をからかうのはよせ。その手に握っている巨大なスプーンが、俺の目に入らないとでもいうのか? ここには、こんなにも大きな釜もある。
ウコバク これは地獄の炎を焚(た)きつけている釜じゃないですか。旦那だって聞いたことがあるはずだ。この釜に油を注いで、火を絶やさないようにするのが、地獄でのあっしの受け持ちでさあ。どうです? 貴い仕事でしょう。(スプーンを杖のように立てて胸をはり威張るが、しょげかえったヘーラクレースに気づき近寄る)どうしたんです? 旦那。気分でも悪いんですか? 焼き菓子があたったんだな。生焼けはいけねえや。なに、違うんですかい? 声が小さくて聞こえねえや。ああ、食い物がないからってそこまで落ち込んでるんですか? まいったな、ここにゃあ、石炭と硝石(しょうせき)くらいしかありませんぜ。
(ヘーラクレースはウコバクが指差した袋をつかむと、顔を突っ込んでむさぼり食う)
ウコバク これじゃ、どっちが犬か分かったもんじゃねえや。
ヘーラクレース よし、腹ごしらえは済んだ。お前はこれからケルベロスがいるところまで俺を案内しろ。
ウコバク いや、それはできねえ。ベルゼブブ様に叱られる。持ち場を離れたら最後、俺の命はないも同然だ。
ヘーラクレース なに? まともな料理もだせない上に、道案内すら断るだと? 何がベルゼブブだ。蠅(はえ)の王だか、糞の王だか知らないが、俺にはまったく怖くはない。
ウコバク そりゃ、あんたにゃ関係がないからさ。俺には大あり、生きるか死ぬかだ。
ヘーラクレース いいか、これが最後だぞ。お前がどうしても嫌だと言うのなら、お前をこの釜の中に投げ入れてやる。(ウコバクに詰め寄り、また首を掴もうとする)
ウコバク 自分の子供を投げ込んだようにですかい?⑴
ヘーラクレース (胸をおさえ、苦しげによろめく)お前は触れてはいけない俺の過去に、今その汚い舌で触れたのだ!
ウコバク (両手で仮面の口を開き、舌をつかんで引っ張りだす)こいつがですか?
ヘーラクレース 許しておけぬ! 殺してやる!
ウコバク (腕をまくる動作をし、スプーンをクリケットのバットのように構えて、時折威嚇(いかく)のため素振りをしてみせる)畜生! こっちだってやってやる。俺を臆病者だと思っているんだろう。負け犬だと思っているんだな。本当にそうかどうか試してみやがれ。頭にきてるのは俺様だって同じなんだ。お前についていったって、地獄の釜の火が消えたら最後、ベルゼブブが俺を仕置きしにやってくる。あの気味の悪い、象よりでかい蠅の化け物がな。卵を産み付けられて、蛆虫共の餌にされてしまうのさ。だから、ここでやられようと同じじゃねえか。どうせ死んでしまうんならなあ、どうせ死んでしまうんなら……一秒でも長く生きながらえた方がましだ!(態度を突然変えて跪(ひざまず)き、ヘーラクレースの脚にすがりつく)お願いです、旦那。命だけはご勘弁を。ケルベロスへの道案内は、地獄広しといえども、このウコバクより適任な者など見つかりっこありません。
⑴ ヘーラクレースは、ヘーラーが吹き込んだ狂気の結果、わが子を炎に投げ入れて殺し
たとされる。この罪を償うため、彼はデルポイの神託を受け、十二の功業を果たすことと
なった。

 

 ヘーラクレースはウコバクを簡単に許すと、ケルベロスの住(す)み処(か)を目指して歩き始める。けれども退場はしない。舞台の中央から下手(しもて)の端まで歩き、引き返して上手(かみて)へまで行き、もう一度中央まで戻ってくる。道案内をするはずだったウコバクは、英雄がふんぞり返ってがに股の行進をしている間も、舞台の中央に突っ立ったままでいる。仕事を放棄したことを蠅の王に知られたらと想像して青ざめ、どうにもならない不運に落ち込んでしまった己が境遇をぐちぐちと嘆く。

 

ウコバク ……俺は今までに一度だって仕事をさぼりはしなかったのに。こうなりゃ進むも地獄、退くも地獄だ。だってそうだろう? 頭が軽い英雄先生が、右往左往しているこの場所が、正真正銘の地獄なんだからな。ああ、俺は情けなくて屁がでちまいそうだ。

 

 ヘーラクレースが歩いている間に、二人(半神と下級悪魔)の背後では、地獄の大釜が取り払われ、その裏に控えていた、玉座についた冥府の王ハーデースとその妻ペルセポネー、夫妻の足下に寝そべった番犬ケルベロスが姿をあらわす。ハーデースとペルセポネーは、もちろん役者が演じるのだが、ケルベロスは役者が中に入っていない模型である。セット裏から透明の糸で三つ首を操り、うなり声や吠え声はスピーカーから流される。

 

ヘーラクレース (後ろを振り返って驚き)なんだ? もう着いたのか? 信じられん。俺にはまた同じ場所へ舞い戻ってしまったかと思われるくらいだが。
ウコバク (連れて振り返り驚くが、取り澄まして)そりゃあもう、案内役が違いますから。(ヘーラクレースの後ろに隠れ、独白)王様と王妃様に気づかれなきゃいいんだが。いやまさか、冥界の下の奈落の底、地獄のうちでも下っ端中の下っ端の俺の仕事など、お二方には興味がないはずだ。

 

 全体的に威厳に欠ける公国劇場で演じられる神話劇の中でも、最も笑劇(しょうげき)めいている部類に属するヘーラクレースの黄泉下(よみくだ)りの一幕では、なおも馬鹿馬鹿しいやり取りが続けられる。しかし、読者の中にはもう神話劇にも飽いた方も多くおられる頃合いだろうし、あのルゴリオーがやった役柄が、どんなものかもお伝えできたと思うから、あとは簡単に筋だけをお伝えしておくとしよう。
 夫婦仲が思わしくない王と王妃は、なにかと意見が食い違うが、唯一、飼い犬を猫かわいがりするという共通の趣味を持っている。夫婦喧嘩と愛犬自慢、ケルベロスの下手な芸にうんざりしたヘーラクレースは、また腹が減ったとわめきだす。ウコバクは持ち場を離れたのを気づかれはしないかと、びくびくしながらも、観客を喜ばせる警句(けいく)をしきりに飛ばす。業(ごう)を煮(に)やしたヘーラクレースが、無理矢理にでもケルベロスを連れて行くと詰め寄り、ハーデース、ペルセポネーの二人と争いが起きかけた瞬間、天井から(これも一応、機械仕掛けの神の一種と言ってよいであろうか)羽に無数の髑髏(どくろ)が描かれた巨大な蠅が降りてくる。ベルゼブブが地獄の釜の火が消えたのを知って、ウコバクを仕置きしに来たのである。ベルゼブブの模型は、それだけで舞台の大部分を隠してしまうかと思うほどの巨体をしている。宙吊られている蠅の王が、右へ左へ飛んでウコバクを追いかけると、冥府の王も王妃も、半神の英雄も、逃げ惑うしかない。ケルベロスは狂って吠えたて、毒の泡を吐きながら倒れる。舞台上が収拾不能の混乱に陥ったところで、幕は唐突に下りるのである。