人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

小説「ドロテア」(六) ドン・アントーニオ

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   小説「ドロテア」(六) 

   ドン・アントーニオ

 

 読者はこの章を読み飛ばしても構わない。なぜなら、ここで語られる内容は、本書の付録的役割しか持たないだろうからである。冒頭、私はこの一冊の書物を、物語として提供すると約束した。そして語り手としてふさわしくあるため、少しずつ自身を透明にしていくと約束した。しかし、この章の記述は、物語というにはあまりにも資料的な事実に満ちている上、私自身の体験が色濃く反映したものになってしまいそうである。ドロテアの初代にして終身大統領であった男の生涯と、彼について一老人が物語る昔話に興味がなければ、読者は疲労と落胆を覚えるだろう。私はあなたに、ある男が──すなわち、すでにご理解頂いているであろう通り、あるルゴリオーが──公国を初めて訪れた時から話を始めるとも約束をしていたはずだ。だが、あの青年が島にやってくるずいぶんと前に、ドン・アントーニオは死んでしまっていた。だからこそ、この章は本書の付録でしかありえないのだし、たとえこの章を読み飛ばしたとしても、その前後すべての物語に目を通した読者には、私が伝えるべきドロテアが、十全に語られていなくてはならないのであるから。
 長い断りを済ませたからには、私は再び自身の姿をはっきりと現して、奇特な読者のためにこそ、かの人について語ろう。
 真っ白いエプロンに飛び散ったグレービーソースの一点のシミ。かつての私の同僚は、ドロテア公国をそうたとえた。ドン・アントーニオがこの島で生まれ育ったということは、まず間違いのないところである。大統領府が公式に配布したパンフレットには、ドン・アントーニオの生年月日が、一九二五年一月一日と記されている。が、おそらくそれは事実ではない。
 遺憾ながらまことに貧弱なドロテア島の歴史的資料に、ドン・アントーニオに関する記述がはじめて登場するのは、第二次世界大戦開戦の前年である。ドロテア島で現在も操業しているアンチョビ工場の事業主として、彼の名前を確認できる。ただし、ドロテア初代大統領はその頃、アンソニー・ロブソンと名乗っていた。この事実から推(お)して、彼の生年は少なくとも一九一〇年代まで遡るのが妥当と思われる。
 大戦終結の翌年には、プリクート島で農園主となったアントニス・キルギアコスが、農場監督者にあてた手紙の中で、ぶどうの生育具合をたずねたり、ワインの醸造について事細かく指示をあたえたりしている。といっても、私の推測では、これはすべて大麻の生育状況と、取引に関する隠語かと思われる。プリクートのワイン農園は、古くよりアフリカから調達された奴隷労働力に依存していた。当時より大麻の一大生産地であった西アフリカと、ドン・アントーニオを結びつけたのは、この奴隷売買がはじまりだったはずだ。
 ドロテアのアンチョビ工場と同様、非合法かつ暴力的な手立てによってプリクートのぶどう農園を手に入れたドン・アントーニオが、麻薬ビジネスに乗り出すのは、ごくごく自然な成り行きであった。私はただ当て推量ばかりしているわけでなく、例えば工場と農園の取得に関しては、いつか蜂蜜入りの甘ったるいワインで気持ちよくなった大統領自身が、私に直接語ってくれたことなのである。
 ドン・アントーニオは、生涯のうちで他にも最低四つ以上の変名を持ち、主にビジネスの際に使用した。アフリカにおいて、表向きはそれぞれ象牙取引とゴム採取を行っていた二つの会社の代表は、アントワーヌ・ガロンという経営者だった。麻薬ビジネスにおける生産と消費の地であるアフリカ、ヨーロッパ、アメリカの三点を結ぶのに、船が必要なのは言うまでもない。後年、その莫大な資金力によって、強引にヨーロッパ財界の一隅に席を得たドン・アントーニオの枕詞に、「海運業によって巨万の富を築いた」という文言が常に付け加えられていたのは、偶然でないと同時に非常に適正な評価でもあった。
 ドロテア島の実質的な支配者として専制をふるうドン・アントーニオが、当初はおそらく純粋に島民の慰安のためにのみ創始したドロテア演劇は、芝居小屋に毛の生えた程度の規模でしかなかった。もっとも、その頃から野外演劇は盛んに行われていたようである。第一回の公演は、一九五一年七月一日に開催された。本土で発行されていたタブロイド紙によれば、英雄リッカルドが、「宗主国の犬達」と罵られる総督テオフィロと副官ヴァスコを倒して、ドロテアに平和をもたらすという内容であったらしい。ただし新聞紙面に載った写真は、同日上演されたキャバレー風の舞台で、トップレスになって踊る数名の女性達だけであったから、初代リッカルドや、クレオル、クレオン兄弟の前身とおぼしき総督と副官の姿を見ることはかなわない。
 リッカルドとは、十七世紀半ばに、ドロテアでいくらかの勢力を誇った一派の頭目であって、テオフィロ、ヴァスコの両人もそれぞれ自身の勢力圏と配下ともいうべき仲間を持っていた。リッカルドと二人の違いは、三点ある。一点目は、テオフィロとヴァスコは互いに牽制しながらも、多くの点で妥協し合い、協力関係を築いていたのに比べて、リッカルドは他勢力に対して常に攻撃的であったらしいこと。二点目は、テオフィロもヴァスコも、また両人が率いる他にもいくつか存在したであろう、これら一口に言って「ごろつき」の集団が、一つ、ないしは二つ以上の国家から後ろ盾を受けていたのに比べて、リッカルドはそうしなかった、あるいは少なくとも最終的には援助を拒絶したという事実。三点目は、共にドロテア生まれだったテオフィロ、ヴァスコとは違い、もともとは海賊として前半生を送ったリッカルドは、明らかに「よそ者」だったという事情にある。
 一六六六年、リッカルドは突如として大公を名乗り、ドロテアの完全な自治を求めて、各国の支援を受けたテオフィロ、ヴァスコ、その他の連合勢力と激しい抗争を演じた。結果、彼による統治は一月に満たず、無惨に敗れ、港に死体を吊されたとはいえ、リッカルドが演じたこの反乱は、その全歴史を通じてヨーロッパ各国の支配に翻弄され続けたドロテアにとって驚くべき唯一の例外であり、ドロテア公国にとって、なによりドン・アントーニオから見れば間違いなく、まさに英雄的としか表現しようのない事件だったのである。
 ドロテアに公国劇場が根付いたのは、なにもドン・アントーニオの常軌を逸した投資ばかりが理由ではない。もともと娯楽の少ないドロテア島にあって、演劇は古くから住民達の熱狂的な支持を受け、字義通り渇望されつづけてきたものだったからである。
 辺境の地が文化の伝播から取り残されるのは、誰にも納得のいく道理だろう。しかし大航海時代以来、海路の要衝、貴重な補給地として存在したドロテア島には、無数の船と人と情報が行き交ったはずである。島民はその中から、ただ芝居に関するものだけを欲した。ヨーロッパでは今どんな芝居が流行っているのか、人気の俳優は誰なのか、新人の脚本家の評判はどうか、といった事柄が最大の関心事だった。
 しかし、今より航海というものが危険に満ち、命がけだった時代に、ドロテアまで劇団を呼ぶのは困難であったろう。島民達は島に住みついたよそ者の、元海員や、海賊くずれ、酒場の女などを口説いて、素人芝居をやらせていたらしい。演劇好きな島民の中に、自ら役者を志願する者がほとんどいなかったというのは、奇妙に思えることだが、彼等にとっては今も昔も、芝居とは見るものであり、役者とは自分達に奉仕しよろこびを与えてくれるという意味で特別な存在なのだ。当時のドロテア島民が、港に立ち寄る船の乗組員を通じて手に入れられた脚本は、その頃評判をとっていた大陸の芝居を無断で翻案、もしくは、ほとんど引き写したものがせいぜいだったろう。おそらく、実際に観劇をしたか、人づてに筋を聞いたかした者が、記憶や想像を頼りに書き上げたのだ。とにかく杜撰な仕事であったには違いない。でなければ、公国劇場以前に演じられた芝居のうち、不完全ながら現存する唯一の脚本─これがモリエール作の『ドン・ジュアン』を種本としているのは明らかである──の中で、つじつまの合わない掛け合いが十指に余るほど見つかりはしなかったろうし、スガナレルという名前を持った主人公が、偽医者にでっちあげられたかと思えば、今度は父娘ほど歳の開いた婚約者に裏切られるというような、あまりに脈絡を欠いた脱線もあり得なかっただろう。
 ドロテアで生まれ、ドロテアで育ち、ドロテアで、その悪事の才能を磨いたドン・アントーニオが、演劇を愛好したのも当然だった。もっとも彼が愛好したのは、演劇ばかりではない。腕はともかく、絵画制作とチェスもまた、ドロテア大統領の趣味だった。
 ドン・アントーニオは島の風景を描くことを好んだ。しかし、島の景色ほど変わり映えに乏しいものはない。外を見れば、ただ満々と湛える広い海が、周りをぐるりと取り囲んでいるのだし、後ろを振り返れば、小高い山の緑か、本土の地方都市とさほど違いを感じられない凡庸な町並みがあるだけだ。ドン・アントーニオは、それでも、ドロテアの海と空と海岸線を、飽くことなく描きつづけた。
 私は彼とチェスをしたことがある。ドロテアに来てまだ日が浅い頃だった。きっかけは、上役から試しにやってみろと命じられた課題であった。たまたまドン・アントーニオがそれを目にし、興味を持ったということだった。
 ドロテアの大統領は中肉中背というにはいくぶんか寸足らずの、小男と表現してもまあ間違いではないほどの体つきをしていた。いつでも真っ黒な三つ揃いの背広を着て、ワイン色のネクタイを着けていたものだ。いくぶん血色が悪いせいで、太い鼻の両脇に深い皺を刻んだ顔だけに注目すると、一見、何か病を患っているのかと思い違いそうになる。しかし全身をじっくりと見れば、今にも外側へあふれ出しそうな活気を力ずくで背広の下に押さえ込んでいるような、静かな精悍さを感じ取れただろう。自分よりはるかに下の立場の人間を迎え入れるには、やや丁重に過ぎると感じられる落ち着いた物腰に、独裁者らしい猜疑の眼差しを忍ばせていたのは、緊張からくる私の思い違いではなかったはずだ。
 ドン・アントーニオは挨拶を手短にすませると、すぐ本題を切り出した。
「君はチェスができるらしいね。手抜きをされてもつまらないから、真剣にやるように」
 選択肢は用意されていなかった。私は正直に最善と思う手を指した。一局終わった後、彼はほとんど口を利かなかった。チェスをしたのは、その一度きりだ。私は「臣下」として寵愛を受ける立場になり得る機会をふいにしてしまったかわりに、ドン・アントーニオから、ある種の信頼をかち得たようであった。
 彼はそう度々ではなかったが、重大な決断の際に、私に意見を求めるようになったのである。ただし、決断前にではなく、必ず決断された後に、であった。何人もドン・アントーニオの専横に対して、毛ほどの影響さえ与えられるものではない。
 ドン・アントーニオの「治世」において、私が最も感心した特徴は、ドロテア公国民が大統領に対して露ほどの敬愛の念を抱いていなかっただけでなく、一切の畏怖をも感じていなかったという事実だ。島民が大統領に対して感じ、ドン・アントーニオという固有名詞を聞いて想起したのは、何か巨大な醜さとしか表しようのないものであったはずで、それは常に嫌悪の対象でしかなかった。そのくせドロテア公国民、つまり島民達は、大統領のもたらす娯楽には無邪気に歓喜して、目一杯むさぼりつくすのである。
 ドン・アントーニオが終生示しつづけた島民への限りない寛容さは、つまるところ、無関心の裏返しでしかなかった。島民の反応に一喜一憂してみせるには、彼は自身の存在をあまりに高い地点、超越した場所に置いていたのである。
 ドン・アントーニオが、自らを劇中の「英雄」リッカルドに重ね合わせようと望んでいたことは、なにも彼自身の言葉がなくとも、多くの読者に事実として受け容れてもらえるだろう。しかし、公国民は「代理の王」「王位の簒奪者」クレオンをこそ、終身大統領になぞらえていた。これは、ドン・アントーニオが、島民の意見や心情をまったくかえりみなかった(どころか、彼はかつて私が「島民の感情」について言及したとき、怪訝な顔つきで、そのようなものを自分が忖度しうるという可能性にさえ驚き、結局は理解を拒んだほどだった)としても、皮肉な事実には違いなかった。
 むしろドロテア島民は、劇中の「英雄」リッカルドを、歴代のドロテア市長になぞらえたものだ。中でも、一九六四年に当選を果たしてから、十年間その職にあったアレクサンドル・イワノフ市長は、反ドン・アントーニオの旗手として島民の間で絶大な人気があった。ただし、アレクサンドル・イワノフ氏は政治家として常に無力であり、十年におよんだイワノフ市政は何一つ実績をあげられなかった。
 ドロテア島では、ドン・アントーニオの庇護や協力なしに政治問題を解決するなど不可能だった。市長に立候補した者は選挙戦を通じて、ドロテアの腐敗を攻撃し、ドン・アントーニオを批判し、揶揄し、子供っぽい嘲弄でもって島民の支持をとりつけようとする。しかし当選後は、表向きはともかくその裏で、必要に迫られて膝を屈するか、もしくは自らの利益のために進んですり寄るか、どちらにしろ大統領の前に頭を垂れるほかなかった。
 ドン・アントーニオは生涯を通じて、本来の意味での政治家にはならなかった。必要がなかったからである。彼はドロテア公国の大統領でありさえすればよかったのだ。
 ドン・アントーニオは生涯を通じて、家族というものを、少なくとも法的に家族と呼べるものを持たなかった、ようである。彼の前半生は不明な点ばかりだが、特にアンチョビ工場の事業主としてその名を確認できる以前の幼少期に関しては、今となっては全くの謎というほかない。が、島民達の噂によると、二親の分からぬ孤児として育ったらしい。彼には兄弟もなかった。
 信仰を持たないという事実を誇りとしていた感さえあるドン・アントーニオが、自分の金で建立した教会で結婚式を挙げるということはなかったし、誰かと籍を入れたという記録もない。それでもドン・アントーニオには、事実上の「妻」ともいえる女性が十人ほど存在した。とはいえ、一つ屋根の下に暮らしたわけではない。家を与えてやっても、彼はそこへ訪れはせず、必要なときに必要な時間だけ自分の側へ招くのだった。
 それならなぜ私が彼女達を、例えばドン・アントーニオの愛人と呼ばずに、「妻」ともいえる女性などといった、まわりくどい表現で呼んだかといえば、大統領がそれらの女に必ず二、三人の孤児を養子として迎えさせたからであった。
 ドン・アントーニオに実子が一人もいなかったのは、彼の死後、名乗り出たすべての「子供達」が、詐欺師、もしくは、ただの勘違いと証明されたことからも確かである。避妊をしていたか、そもそも能力が欠如していたかまでは、私の知るところではない。しかし、大統領が種無しだったかもしれないという可能性は、彼が孤児であったようだという推測などより、よほど島民の心を浮き立たせるゴシップだった。特に、清廉な人格者として知られたイワノフ市長(私の目には何か鈍重な人物としか映らなかったが)以降に市長選を戦った候補者達は、この二点を取り上げてどれだけ下劣なジョークを案出するかに心を砕いたものだ。
 一度、そうあれは、ある野外劇のパートが大幅に変更されると決まってから、ドン・アントーニオの強い希望により、彼の目前でリハーサルをして見せていた時だったはずである。公国劇場に新作が加えられたり、従来の脚本が大きく手直しされたりした折、特にそれが気に入りの脚本家の仕事であればなおさら、自分の目で稽古の様子を見たいと望むことが間々あった。とはいえ、ドン・アントーニオは、その場で脚本や演出に口を出したり、意見したりをほとんどしなかった。大抵は、時折浅くうなずくだけで、ほとんどの時間を黙って聞き、黙って見るだけに費やすのだった。
 ちょうど私が大統領のとなりに立って、変更点について説明をはじめた、その時だった。公国劇場の囲壁に沿った道を、市長選に出馬した泡沫候補の一人を乗せた車が通りかかったらしいのである。率直に言って、その候補は知性に乏しい男であった。しかし、だからこそ、その男がドン・アントーニオを腐した嘲りの言葉は、えげつないほど露骨だった。
 私達がいた地点から選挙カーが通っていった道までは、直線で二百メートルはあったはずだが、公国劇場が休日なのをいいことに、スピーカーから放たれる大音量が派手に割れようとも構いなしでがなり立てるものだから、彼の非理知的な演説が、リハーサルを行っている私達の耳にまで充分すぎるほどに届いたのである。
 私は暑さや運動のためでなく、一瞬のうちにあれほど汗を流した経験を後にも先にもしたことがない。言葉を失って、口を半開きにしたまま停止してしまっていた。まるで、その場に起きてしまった出来事が、自分のせいででもあるかのように感じていた。情けない話だが、私は怯えきっていたのだ。もしもその時、ドン・アントーニオが理不尽にも私を怒鳴りつけていたとして、私は反論するどころか、頭を下げて許しを請うていたことだろう。ドン・アントーニオはそうしなかった。わずかに顔を動かして、横目をつかって不思議そうに私を見遣り、説明を続けるよう促しただけだった。あれは大統領が私を含むその場にいた人々に配慮してとった態度なのだろうか。内心は煮えかえっていても、威厳と余裕を保とうと我慢していたのだろうか。しかし私の目には、ドン・アントーニオの内面にいかなる葛藤も存在しているようには見えなかった。
 ドン・アントーニオは自分の女に養子をとることを強いたが、その子供達には興味を示さないのが普通だった。会いもしないのだから、名前すらほとんど記憶していなかったろう。それでも孤児達は、大統領が女に与えた養育費のおかげで、新しい母親と割合に幸せな暮らしを、ともあれ物質的には恵まれた暮らしを送っていた。
 中で唯一、ドン・アントーニオが愛情らしきものを傾けたと言えるのは、マリーア・ピニャという女性についてだけだった。彼女はドン・アントーニオ亡き後、ドロテア財団の理事となっているが、今は母親の故郷に帰っていて、公国に帰ってくることはない。財団は本部を本土に置いてあるから、それで支障はないのである。
 マリーアの母親も、マリーアという名前だった。母が死んでから、ドン・アントーニオが娘を改名させたのである。母親のマリーア・ピニャは、ドン・アントーニオが最も執着した女性の一人だった。養子であるから当然血はつながっていないが、どことなし母娘で似た雰囲気を持っていたらしい。
 私は母親のマリーア・ピニャを直接には知らないが、娘のマリーア・ピニャには会っている。彼女は大統領の女達が養子にした元孤児のうちでただ一人、大統領府という大層な名称が与えられたドン・アントーニオの邸宅で「父であるかのような男」と共に暮らした。私が目にしたマリーア・ピニャは、いつも秘書のように、ドン・アントーニオの側でつつましやかに控えていた。秘書「のように」と書いたのは、実際には彼女は何の仕事もしていなかったからである。マリーアはたいてい群青色のドレスを着て、消え入りそうな声で挨拶をするほかは終始黙っていた。こう書いていて気づいたが、私は彼女の声が非常に小さかった事実はおぼえていても、彼女がどんな声をしていたかは記憶にない。彼女がよく着ていたドレスの紫がかった青の深みは思い出せても、彼女の顔立ちはもやに包まれたように曖昧で、はっきりした像を結ばない。器量が悪くはなかったはずである。母親のマリーアは、素晴らしい美人だったと、女性を含めた幾人もが思い出話に嘆息するほどの器量好しだったらしい。娘のマリーアには、誰もが母親に似ているとは言いはしたが、誰かが彼女を美人だと褒める言葉を私は一度も聞かなかったように思う。くり返しになるが、器量が悪くはなかったはずである。私が知っているマリーア・ピニャは、質朴と静寂がそのまま一人の女性になったような、過ぎるほどにつつましやかな娘だった。多くの人の記憶から早々に抜け落ち、その場にいてさえ存在を間々失念させてしまうほどにも。
 ドン・アントーニオが娘のマリーア・ピニャとも関係したのかどうかまでは、私に知るよしはない。島民は当然そうしていると彼等の道徳観にふさわしい理解をしていたが、表立って批難したり、揶揄したりすることは控えていた。ドン・アントーニオは、自分に対する島民からの罵詈雑言には驚くべき寛容さを示したが、自分の女への誹謗中傷には同様でなかったからである。
 大統領がある踊り子を見初めたときの話だ。一人の島民が、彼女と寝たと吹聴してまわったのである。その男は名前をサースタンといった。彼はもともと本書でとりあげるべき性質を有しない島民の一人であったが、いらぬ悪態をついた報いで、ここにその名を留めることになったのである。サースタンは美形を鼻にかけた嫌味っぽい青年で、毒舌家を自負していたそうだ。彼は酒場で、町角で、また友人、知人の家を訪ね歩いて、ドン・アントーニオの新しい「妻」をこきおろした。
 しかし島民達は用心深く、こういう噂の広め方をした。「なあお前知っているか? 色男のサースタンがこう言うんだ。『ドン・アントーニオの新しい女はとんだ食わせ物だ。まことに大統領の奥方にふさわしい。確かに踊り子には違いないが、舞台の上じゃ腰から上で隠さない肌がないという類いの踊り子さんさ。これは色好みな島の男たちで知らぬ者はない事実じゃないか。それどころか、仕事とは別の舞台の上じゃ、腰から下も包みかくさず見せてくれるそうだぜ。嘘じゃない。なんせこの俺もまた、ベッドの上で彼女と楽しく踊った仲だからな。どうして大統領は尻軽のストリッパーなんぞにつかまったかと思うね? それはあの女が、素性の怪しいよそ者だからさ。親のない孤児のドン・アントーニオにとっては、これ以上ない似合いの女だよ。俺は島の男連中にこう言ってやりたいんだ。公国民のはしくれとして、大統領の新しい愛を祝うには、あの慈悲深い踊り子をダンスに誘ってやるのが一番だとね。心配はない。あのかわいい女は生まれつき、ダンスが滅法好きなんだ。なあ兄弟、俺はこういう言葉の上だけじゃなく、本当にお前達を一種の同胞だと思いたいのさ。俺とドン・アントーニオとの兄弟だとね。もっとも順番からいえば、年下の俺が兄で、年上の大統領が弟だが。たとえ血のつながりはなくってもだ。兄弟が多いというのは、何より心強いものと言うだろう?』という風に、女泣かせのサースタンが言ってまわってるんだ」
 噂が島中に広まると同時に、サースタンの姿がかき消えた。彼はでたらめを言ったわけではない。彼の話はすべて事実だった。とはいえ、事実なぞに何の意味があろう。ドン・アントーニオは、自分の女を少しでも悪く言う者を決して許さなかった。二日後の早朝、サースタンは港でフォークリフトに吊されていた。港とはいっても、島の北側にあるクルーズ船や飛行艇が泊まっているドロテア港ではなく、島の南側にある漁船ばかりが舫っている小さな港である。
 舌を引き抜かれたサースタンの顔は、無惨にめった打ちを食らって、美形は面影もなかった。まっすぐに伸びていた長い脚は、無理に膝を外側にねじ向けられた上、片方の足首から先が切り取られて無くなっていた。両肩の骨は折り砕かれて、格好の良かったはずの広い胸板を覆いかくすように、体の前で寄り合わせられていた。衣服をすべてはぎ取られているだけでなく、豊かなブロンドの長髪もむしり取られて、ところどころ疎(まば)らに残っているだけだった。
 私が語りうるドン・アントーニオが持った「家族らしきもの」に関する話はこれで一通りだ。彼は薄情な男だったと言われて仕方ないかもしれない。良き夫、良き父親と言えないのは確かである。しかし、彼はドロテア公国の大統領でありさえすればよかったのだ。
 どうか読者のみなさんには、この章で詳(つまび)らかにされるドロテアの初代にして終身、そして永遠の名誉大統領(死後そう呼ばれることが、独裁者の最後の望みであり命令だった)であるドン・アントーニオの情報が充分でない、とりわけ、裏社会、彼の犯した犯罪に関する情報が貧弱過ぎるという理由で、作者を責めないでいただきたい。私にとっても彼はただ、芝居狂いのドロテア公国大統領でしかなかった。
 その実際的な権力を理由としてではなく、ドン・アントーニオを畏(おそ)れていたのは、ドロテア島の中で私だけだったはずだ。おそらくは、とてつもなく巨大で量りがたい通俗性ともいうべきものに私は圧倒されていた。ドロテア公国に住んでいる者に漠然と共有される彼への嫌悪感から、たぶん私だけが自由だった。私は彼にある親しみを、大統領の女達とその養子でさえ不可能であったろう親しみを抱いていた。私ほど、彼を怖れ、かつまた──とにかく本書の作者である私ほど、彼を自由に正直に書き出してみせた者は、今までになかったはずだ。本書の付録として語るべきドン・アントーニオについては、これで全てである。私はふたたび自身の姿を物影にかくし、少しずつ透明にしていかなくてはならない。公国劇場では、初日のうかれ騒ぎが終わり、朝になればすぐ、次の日の公演が待っているのだから。

 

ドロテア(七) 二日目につづく