人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「ドロテア」(二) 大使館

 

ドロテア (一) 開幕の歌

 

  大使館


 役者や脚本家としてドロテア演劇に真面目な興味を持つ者ならば、本土の首都郊外にあるドロテア公国大使館を訪ねてみるがいい。小さな駅から住宅街の路地を二十分も歩けば、窮屈げに古いアパートメントと肩を並べている、くたびれた建物を見出すことができるだろう。もちろん、ドロテア公国という呼び名が自称に過ぎないのだから、大使館というのも名ばかりで、ふさわしい機能も権限も有していない。本土の法律上では、ドロテア市役所観光課の出張所として申請されている。運営費をまかなうのは公国劇場で、劇場の事務方と市役所の役人が職員として働いている。歴史的に腐敗、癒着してきた市役所と劇場の関係を肌身に知って生まれ育った島民の感覚では、この二つの組織は一つも同然とみなされている。
 公国劇場で演じる役者は、普通このドロテア大使館で採用される。これから語られる男もその一人である。
 空気はいくぶん埃っぽいが、日差しは暖かく、気持ちの良い陽気の日だった。少なくとも、この日大使館を訪れた青年にはそう思われた。もっとも、同じ場所に居合わせた別の者に言わせれば、生ぬるい風が埃くさい空気をかき混ぜ、人の意欲をおだやかに削ぎ落としていくような、うっとうしい陽気だった。
 とにかく、その日の昼下がり、日光が濛々とする埃の粒子を際立たせる中、青い薄手のブルゾンを着た青年が、ドロテア公国の玄関をくぐった。青年は名を──いや、彼の本名などどうでもよい。たとえ仮名であっても、役名以外の名前を彼に与えてやる必要があるとは私には思われない。本書が語ろうとしている彼は、ルゴリオーであった彼でしかないからである。
 応対に出てきた職員に案内され、役者志望者達は決まった部屋に通される。寄木(よせぎ)の床はそこここが傷み損なわれ、全体に黒ずんでいる。がらんとして広い部屋には窓がなく、いつでも薄暗い。病院の待合のように長椅子だけが並んでいる。
 ノブに手をかけたまま後ずさって、職員がドアを閉めきる。まず確実に今も変わりはないと思われるが、無愛想な職員の態度と、静まりかえった館内の雰囲気は、はじめて訪れた者に友好的とは言いがたく、拒まれているという感覚を与えるのだった。青のブルゾンを着た青年も、心細げに室内を見渡したことだろう。
 後頭部が一つだけ見えた。襟足から耳周りが短く切り揃えられ、左につくった分け目から、右へむかって、きれいな白髪を梳(と)かしつけている。
 青年は足音をたてないように歩いて、白髪頭のとなりの長椅子に腰掛けようとした。年配の男は何かを読みふけっていたが、青年の気配に気づいて顔をあげた。
 軽く挨拶をかわし合ったあと、白髪の男は青年の視線に気づいて言った。
「ああ、これはドロテアのパンフレットですよ」
 青年に内容を聞かれると、優しく微笑んで言った。
「観光用ですからね。通りいっぺんのことしか書いていません。残念ながら、われわれにとって役立つような情報は特にありませんね。あなたは、遠くから来られたのですか?」
 青年は自分の住まいを答えた。
「それは大変でしたね。私はこの近くなものですから……」
 年配の男が言った地名を青年は知らなかった。
「よかったら、見てみますか」
 差し出された小冊子を受け取り、読み始めた頃合いだった。奥のドアが開いて、男の声が青年の名を呼んだ。パンフレットを返そうとすると、白髪の中年男は軽く手を振りながら言った。
「構いませんよ。私はもう読み終えましたから」
 青年は礼を言って、部屋の奥の開かれたドアに向かった。背の低い男が一人で迎える。黒々とした髪をヘアクリームでおさえこみ、着古した茶色の背広に、これも年季物の暗緑色のネクタイを締めていた。いつも何かこせこせしていて落ち着かず、いくぶん神経質な印象を他人に与える男だ。そのくせ仕事ぶりや実際の性格には、よく言えば要領の良い、もしくは大ざっぱなところがあった。しかし全体的には、善人と言ってよい男だったはずである。
 青年にとっては、この男が面談の相手で、たぶん幸運だった。とにかく役者として採用されるかどうかという点に関して考えれば、明らかに恵まれていた。
 茶色い背広の小男は、役所の職員であるだけでなく、公国劇場の脚本家も務めていた。脚本家が本業である。本土の大使館で行われる役者の採用面接に、島から脚本家が出張する時は、ほとんど決まって早急に新しい役者がいる場合、つまり、劇の主要登場人物を仮面が演じなければいけない状態だった。大使館は市の観光課の出張所なのだから、急いでいればいるほど、役所に勤務している脚本家の中から選んで派遣するのが簡単で、無駄な時間を失わずにすむのだった。
 しかもこの「チビの脚本家」あるいは「役所勤めの脚本家」は、要領よく、したがって手が抜ける部分は徹底していいかげんに事を運ぶのを常としていた。限られた期間であっても、なるべく大勢の候補者を集め、その中から選ぼうという気など、さらさらなかったのである。最低限必要とされているのは、前任に代わる新しい役者を雇用することであって、彼は確実にその仕事だけはこなしてみせた。
「どうぞ、どうぞ」
 脚本家は部屋の中央にある一脚の椅子を手の平で示した。いつものように、誰の目にも作り笑顔と分かる表情を満面に浮かべていたはずだ。しかし、この背の低い脚本家の笑顔は、そのあからさまなぎこちなさが、かえって見る者に彼を好人物に見せるという興味深い性質をもっていた。
 脚本家は、青年が椅子に歩み寄って座ろうとする間に、揉み手をしたかと思うと、すぐさま頬をさすり、ひじを曲げ胸元でつくった拳を握ったり広げたりしながら、鼠のように首を小刻みに動かして、殺風景な部屋の四隅をうかがっているような仕草をするのだった。
 面談を行う部屋は、待合にしている前室の四分の一ほどの広さしかなく、かなり窮屈な印象を受ける。面接官用に、机と椅子が一式ある。机は脚が長く、天板が高い。背の低い脚本家が座ると、子供がそうしているかのように、肩から上しか見えなかった。彼の背後には、壁一面をほとんど領してしまうような大きな窓があって、太陽が照らす日中には、待合から入ったばかりの目に、ことにも眩しく感ぜられたものだ。
 脚本家は肩の高さまで腕をあげ、机の上に散らばった書類をめくりめくり問いかける。
「事前に頂いている推薦状と履歴書は確認しております。ええと、いくつかの劇団で十年間ほど? 経験としては充分ですな」
 俳優としてのキャリアを考えれば、公国劇場との契約は有利には働かない。むしろショービジネスの世界での華やかな成功、有名劇場での大舞台、映画、人気ドラマへの出演といったものから、一旦はるかに遠ざかってしまうことを意味する。若手というにはとうが立った役者なら、事実上は断念すると言って過言ではない。だから、ドロテア演劇に出演する役者達の多くは、自分の将来の可能性に限界を感じて、島へやってきた者ばかりなのである。演技における才能、俳優としての資質に疑問をおぼえ、描いた夢の実現が困難だと知ってなお、その夢の世界から現実へ帰られない、かなしい者達ばかりなのだ。もちろん、演じる場が与えられているだけで、現在を素直に喜べるような、無邪気な、もしくは幸福な「善き人」達も中には存在するのではあろうが。
 だから、若く希望に満ちた、自らの未来に自信を失っていない俳優が面接に来たとして、彼なり彼女なりに合格を伝えたとしても、周りからの助言や彼等自身で考え直した結果、断られてしまうということが往々にしてある。こういう不幸な事故、無駄な手数と骨折りを避けるために、ドロテア大使館は、あらかじめ複数の劇団関係者との間に人脈を作っておく。必要な場合に、必要な人物を都合してもらうためだ。もちろん、そうやって紹介してもらった人間がいつも役にふさわしいかは定かでない。ただし、採用を伝えた後に心変わりする可能性が低い人間を紹介してもらうことはそう難しくはない。「チビの脚本家」はその点をもっとも重視した。青いブルゾンを着た青年も、そのような俳優の一人だったのである。
「それから、契約さえまとまれば、来週頭にでも入国して頂けるという話だったとおもいますが……。ええ、ええ、それは大丈夫ですよ。引っ越しの手続きや荷造りなどは、指示を頂ければそのとおりにこちらの職員にやらせますから。さしあたって身の回りの物と、貴重品、それから他人に触られたくない物もおありでしょう? そのあたりの荷造りさえして頂ければ……。なるほど、そうですか? それは素晴らしい。では、急げば来週といわず今週末にでも出られそうですね」
 面接に来た俳優達は、こういう性急な面接官の態度に、気(け)圧(お)されたり面食らったりするのが普通のようである。彼等がどのような印象を持つかは、それぞれの性格によってまちまちだろう。すぐに欠員を埋めたくて焦っていると感じて、採用は決まったも同然だと思うか、ここでもう少し時間をくれと言うとすぐに見切りをつけられてしまうかもと怖れるか、雇う気がはなから無いのではと疑って、無理を押しつけて気を萎えさせようとしているのではないかと思うか、さっさと必要事項だけ伝えて時間を早めに切り上げたがっているのではないかと考えるか。
「何かそちらから質問はおありですかな?」
 いずれにしても、俳優達は、仕事の内容や条件を確認したいと願う。青いブルゾンを着た青年も例にもれず、公国劇場で雇用された場合に演じることになるであろう役柄についてのくわしい説明を求めた。
「そう、ルゴリオーです」小男の脚本家は、我が意を得たりと声を高くした。「役について概略はお聞きですな? それから脚本の抄録もお渡しできているはずだ。一言で言うなら、好色な卑劣漢というところでしょう。その点、あなたはきっとこの役にぴったりだ。分かりますよ」
 青年は思わず顔をしかめた。
「いや、違う違う」脚本家は青年の顔の前で、その不快げな表情を拭い去ろうとでもするかのように手を振った。「ドロテア演劇の役者に必要とされる資質についてはご存じなかったですか? どんな役者が役にふさわしいかと我々が考えるか、ということですが。ええ、ええ、そうです。ですから、ルゴリオーをやる役者となると、真面目な人間ということになります。特に女関係に関してはね。分かりますよ。あなたはきっと真面目なタイプだ。そうでしょう? 嘘をつくのが苦手ですね? 女についてだって、キリストのように清廉でいろという訳じゃない。ただあちこち見境無く手を出して、食い散らかすようじゃ困ってしまうというだけです。だってそうでしょう? ルゴリオーというのは、節操のない女好きの、スケベオヤジの役ですからね。あなたは一途なたちでしょうが? え? 一人の女を大切に思うたちでしょう? 当たっていますな? いやきっとそうに違いない」
 脚本家は握った万年筆の先を相手の顔に向け、したり顔して言うのだった。募集している役柄が敵役、悪党、嫌われ者などならば、面接官として話をすすめるのにあまり苦労はしない。相手の性格と人柄の長所を見つけてやればいいのだ。たとえ本心からそうとは信じていない言葉であっても、面接官が言った世(せ)辞(じ)やべんちゃらに対して真剣に怒るような求職者はいない。ただし、あまりに役柄と自分の人間性の違いばかりを強調されると、不安になる者も少なくない。
「いやいや、違っているからいいのですよ。だからこそ、島民達は喜ぶのです。それに役者なら、自分の性格とまるで違った役を一度はやってみたいと思うのではないですか? 少なくとも、そういう役は、非常に演じ甲斐のあるものでしょう。大丈夫です。ドロテアでは、そういう演技が好まれます。等身大のかざらない演技など、演技とは認められないくらいなのですよ」
 小男の脚本家はこのように青年をなだめ、説得した。面接官になった脚本家は、大体同じようにして自らの言い過ぎた部分を修正し、俳優達の心に芽生えさせてしまった不安を摘み取ろうとする。彼等の自尊心をくすぐってやるのさえ忘れなければ、そう難しい作業ではない。
 問題なのは、善人や有徳者、それから英雄といった役どころを募集している場合だ。ドロテア演劇において、こういった登場人物を演じるにふさわしい者といえば、単純に考えて悪人ということになる。少なくとも、役柄が持っている長所や美点を、役者自体がほとんど持っていない必要がある。「あなたは二、三人くらい殺していてもおかしくない風貌で、この慈悲深い僧侶の役にぴったりです」とか「偽善者なうえ詐欺師であるあなたには、きっと当たり役になると思いますよ」などと言ってしまっては、最低でも気まずい思いは避けられない。殴られたって文句は言えないだろう。面接官の目の前にいるのは、紹介者から、「間違いなくこいつは悪党ですよ」という折り紙つきの推薦を受けてやってくる者達ばかりなのだから。
 しかし、背の低い役所勤めの脚本家は、相手の感情に配慮するという細やかさに欠けていた。彼は言うのだった。「これは誠実な女の役ですからね。ふだんからお人好しだっていうんじゃあ困るんです。嘘ぐらい平気でつけるような玉じゃないとね。それくらい訳はない。そうでしょう? 心配にはおよびません。あなたのペテンで馬鹿を見たり、泣いたりする者が増えれば増えるほど、島民達は拍手喝采するでしょう」「虫も殺さない男を演じる役者というんだから、血を見て卒倒するような弱虫じゃつとまりません。むしろ血を流させるくらいでなくては。酒は強いほうで? いやいやかなりのものでしょう。酒席での喧嘩ならよくあることです。いますな、酒が入った途端に気が強くなる馬鹿者が。そういう手合いを一つ、二つ殴って、ぶちのめしてやればいいのですよ。腕に覚えはあるはずだ。隠したって分かりますよ。思い知らせてやればいい。しかし、加減はつけてやるんですね。つまり、その、相手が死んじゃあ、さすがにまずい。分かりますでしょう? とはいえ、うまく証拠を消せば別ですがね。その点あなたに抜かりはないはずだ。いえいえ、誤魔化さなくても大丈夫です。自信がおありでしょう?」露骨な作り笑いを浮かべ、机の上にようやく出た首を鶏(とり)のように始終動かし、手すさびにする万年筆を休みなく振り回して、言うのだった。
 彼は誰の目にも神経質に映らずにはいなかったが、臆病者ではなかったのかもしれない。もしくは単に落ち着きがないというだけの、無神経な人間だったのかもしれない。
 チビの脚本家は、知(ち)己(き)の劇団関係者から紹介された俳優には、彼または彼女の採用が、はなから決まっていたかのように喋り続けるのだった。ただ外見上そのように振る舞うだけでなく、内心でもさっさと終わらせてしまいたいと願っているからだ。「面接なんかで人間は分からないよ」というのが彼の持論であって、言い訳でもあった。そんな彼でも、最低限、役者に確認しておかなければと考えている事項がいくつかあった。せっかく新しい役者を雇っても、すぐに辞めるとごねられては、余計に手間がかかるからである。
「知っておいでのはずだが、契約期間は一年間です。一年たたない間に、事情ができたから辞めたいというのは困ります。これはよろしいですな? なに、一年というのは最低の期間ですから、役者が継続を望む限り、一年ごとに自動で契約が延長されるのが普通です。足腰がたって、台詞が言えれば、いつまでだって、ルゴリオーでいられるんですよ」
 これは事実の一側面ではあるが、必ずしも事実の全貌ではない。島民の支持を失った役者は、とうてい公国劇場にとどまっていられるものではないからだ。一年を待たず、追われるように島から逃げ出す役者も少なくない。
「ご家族や親戚は少ないということですね?」
 青いブルゾンを着た青年が、二十歳の時に両親を亡くして以来、ほとんど天涯孤独だと説明すると、脚本家は作りものの笑顔の上に、本当の笑みを上乗せした。
 恋人とは半年前に別れたという答えと、推薦状の内容が一致しているのを確認し嬉々とする。万年筆で便箋を一叩きし、快活な調子で言った。
「プライベートを詮索して申し訳ない。当然、理由があるのです。ドロテア演劇とは、いうなれば神秘の演劇です。その内情はベールにさえぎられてこそより魅力的に見えるのです。役者のみなさんは、公演中は外部との接触を完全に断たれますし、島外への電話が可能なのは、休演期間だけなのです。ですから、率直に言って、あなたのような方のほうが、不便が少なくていいのですよ」
 正確には、神秘ではなく、秘密主義というべきであろう。ドン・アントーニオは、公国劇場の情報が島外へ漏れることを極度に忌み嫌った。そしてドン・アントーニオ亡き後も、秘密主義の伝統は、しっかりと守られているのである。役者が携帯電話を所有することは事実上不可能だし、本土を含む外国への「国際電話」が可能な公衆電話は録音され、手紙も秘密裡に検閲されている。島外から知人が役者を訪ねてくることも歓迎されない。役者や脚本家の契約の際には、口外禁止をうたう条項が当然入っている。本書の語り手が立場を明かそうとしない理由の一つも、ここにある。
 青年に関する資料と面談での返答が、採用にあたって越えるべきハードルをすべてクリアすると、小男の脚本家は安堵の息をついて緊張をといた。
「あなたにはアジアの血が入っていますね?」脚本家は気が楽になってやっと、面接している対象を、資料から得た情報の集積としてではなく、目の前にいる一人の人間として、興味をもって眺められた。「やはり。分かりましたよ。血というものは、どうしても顔に表れるものですからね。いや、いや、失礼。気を悪くしないで頂きたい。なぜって、これはあなたにとって有利な、喜ばしい事実ですからね。つまり、ドロテアは外国人の役者を欲しているわけですから、なるべく多様な国から多様な人種の役者に来てほしいと願っているわけですよ。多種多様な、いわば無国籍の役者集団が、ドロテア人を演じ、ドロテアの歴史を再現する。これこそが理想なのですからね。ですから、そういう偏見や、それこそ差別なんて、とんでもない」
 小男の脚本家は顎を引き、口の両端を下げた顔を、大仰に揺すぶった。いくらか構えていた青年は、気を安らかにして、つつましやかな微笑を浮かべた。
「今は特にチーノの役者が少ない。チーノがルゴリオーをやると知ったら、島民は最初から大歓迎して劇場につめかけること、請け合いですよ。あなたの成功は約束されたも同然ですな」
 青年はまたつつましやかに、しかし今度は顔をしかめた。
「いやいや、そうですか。あなたにチーノの血が入っているなんて、ここには何も書いてありませんでしたからね!」脚本家は万年筆で便箋が破れそうなほど何度も叩く。「あなたのおかげでドロテア演劇もまたしばらくは安泰ですな。なんといってもルゴリオーは島民に最も人気のある役の一つですからね。下品な、色狂いの、シャツのボタンがはちきれそうなくらい太っちょのルゴリオーはね! え? いやいや、無理に体重を増やそうなんてしなくていいのですよ。むしろ、今のままスマートであるほうがいいのです。脂肪のほうは、綿がたっぷり詰まった肉(にく)襦(じゆ)袢(ばん)を中に着込めばいいんですからね」
 面接官がもう契約を済ませでもしたかのように話し続けるのに勇気づけられ、青年は大胆さの中にいくぶんか不安が織り交ざった心情で、合否の通知はいつになるのかと問いかけた。
「おや失礼、まだお伝えしていませんでしたかな? いやこれは私の不覚でした。もちろん新しいルゴリオーはあなたに決まっていますよ。あなたが『うん』と一言言ってくれさえすればの話ですがね。え? どうですか? よろしいでしょうな? あなたは私を失望させないはずだ」
 青い薄手のブルゾンを着た新しいルゴリオーは、思わず顔をほころばせて返事した。
 脚本家は左手を突き出したまま、椅子から飛び跳ねるように立ちあがって、ルゴリオーの前に進み出た。ルゴリオーも立ちあがり、一瞬間とまどったあと左手で固い握手をした。
「では、書類を片付けてしまいましょう。なに、いくつか署名をして頂くだけですから。機密保持に関しては、改めて内容を私から読み上げますがね。なに、そうそうお手間は取らせません」
 脚本家は跳鼠(とびねずみ)がはねるように机まで戻り寄る。幾枚かの書類を手元にまとめてから、営業上の笑顔を浮かべた首だけを後ろへねじ向けた。
 ルゴリオーもまた笑顔で応え、ふと、今も前室の広い待合で長椅子に座ったまま待機しているであろう、白髪頭の品の良い紳士を思い出して、微かに表情をゆがめた。ルゴリオーの採用が決定し、この場で契約をすませてしまうのならば、あの紳士がいくら待ち続けても待ちぼうけに、この後、面接官にどれだけ彼自身の魅力や長所を訴えても、骨折り損になってしまうだろうと思い至ったからだ。
「では、われわれの新しいルゴリオー。お願いできますかな」
 脚本家の声で、ルゴリオーは我知らず下方へさまよっていた視線を上げた。微笑をつくり直し、足を前に進める。
 万年筆を受け取って書類を確認しようとすると、脚本家がすばしこく動いて椅子を運んでくる。二人の男は一つの机に向かい合って座る。脚本家が指さした空欄に、ルゴリオーが握った万年筆の先が、青いインクの小さな点をにじませる。ペンはそのあと迷いなく、なめらかに走った。

 

ドロテア(三) 偽の葬儀

 

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