人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

小説「ドロテア」 (一) 開幕の歌

 

 本書で取り上げるドロテア演劇における主な登場人物

 

 

 クレオル 先王。三兄弟の長兄。故人。
 クレオン 摂政。三兄弟の次兄。リッカルドを追い払った後、正式に即位する。
 リッカルド 英雄。三兄弟の末弟。プリクート討伐に出陣後、苦難と冒険を経験する。
 フランシスク 大臣。娘を失い盲目となる。賢者にして予言者。
 エレオノール フランシスクの娘。クレオンに見初められるが拒否し、自害する。
 アイヤック 将軍。クレオンへの叛乱を疑われ、死罪の宣告をうける。
 ルゴリオー 商人。のち新任大臣の一人。好色ゆえに若いラウラとの結婚を望む。
 ラウラ 美しい娘。ジャックの婚約者。
 ジャック 商家の息子。ラウラの婚約者。
 ダウス ジャックの家の使用人。女装して、ラウラの小間使いになる。
 ミュネーシケー プリクートの王女。
 クイック ミュネーシケーに仕える妖精。
 エオーディア プリクートの魔女。龍を封印より解き放ち、王と王妃を幽閉する。
 イライザ ジムの妻。下層貴族出身。
 ジム イライザの夫。平民出身。
 シモン 豪商の息子。ベルに恋をする。
 ベル 清純可憐な娘。奴隷として海賊船長に買われる。
 フローラ 多情な娘。シモンとの結婚を望む。
 ポリュゴトラーポンピュルニニス 海賊船長。

 

 

 


  開幕の歌


 北大西洋に浮かぶ変哲ない一小島のみが、かつてドン・アントーニオその人によって「祝福の土地」と称され、本書の語り手である私が人生のうち少なくない一部分を消費した、ドロテア公国の全領土である。
 ドロテア島の住民、つまりドロテア公国の国民はふつう、自らの故郷をただ「島」という素朴な名称によって呼びならわす。もっとも、歴史上いかなる貴族も君主として戴いたことなく、現在にいたるまで国際的な認証とは無縁の自称独立国であるのだから、住民のもちいる呼称のほうが理にかなってはいる。
 ドン・アントーニオが高らかにドロテアの独立を宣したのは、一九六六年八月のことだった。国際社会に対して一方的に突きつけられたこの挑戦的な宣言は、一種の戯れ言、失敗したユーモアとして受けとめられ、他国や主要国際機関のまじめな関心を、ほとんどまったく集められなかった。したがって、ドロテア公国の実態は、今も単なる島嶼を形成する小島の一つに過ぎない。
 それでもともかく、ドロテア公国が、自称独立国の体裁を整えるに成功した下地となったのは、ドロテアの歴史──これまでに七カ国によって領有権を主張され、そのうちの五ヶ国による実効支配のために少なくとも計九回の国籍変更がなされ、現在でもそれぞれの国家の体面上、未解決という建前によって領土問題が形式的に棚上げされているという歴史──があるといってよい。
 ドロテアへの定住が資料によって確認されるのは、一四二〇年代のことで、既にその頃には複数の国からの移住者が生活していたと分かっている。この小島が各国から重要視された理由は島そのものの魅力にはなく、新大陸への航路上に存在するという便宜性からだけであった。往時の名残は、大西洋を横断して欧州と米大陸を結ぶクルーズ船が寄航するドロテア港に見ることができる。
 公国の主な産業は観光業であり、カジノ、ナイトクラブ、レビュー、マリーナといった施設のほか、海辺の観光地ならどこにでもありがちな娯楽ならば、島内にたいていは揃っている。本土の法律を無視して推奨されている男性相手ばかりでなく女性向けにも充実した売春業と、禁止されてはいるものの罰則がないために公然と行われる外国人観光客相手に限ったマリファナの提供という、対外的に表立っては宣伝がむずかしい観光資源をのぞけば、ドロテア演劇もしくは公国劇場などと呼ばれる、島のおよそ三分の一の敷地面積をつかって行われる大規模な群像劇が、公国観光の最大の呼び物となっている。
 もっとも本書を手にとる読者ならば、そのくらいの知識はあっておかしくないばかりか、ドロテア演劇についての、ガイドブックなどには記されていない詳細な情報をこそ何より期待していることだろう。今日ならば、ウェブ上の検索だけで簡単に手に入れてしまえるこのような事実の羅列が冒頭から続くことは、読書する上で苦痛かもしれない。しかし、そのことを理解していてなお私は、本書を物するにあたっての構成上の要請から、このように書いているわけである。そして当然、乱雑な事実の混交から選り抜かれ、構成されたこの冒頭部分は、本書を読み進めていくにあたって、あなたにとって無意識的にであれ重要な役割をになうはずである。少なくとも、そのように語ろうと私は努力している。だから、今示しつつある情報が、教養ある読者にとっては自明の、すでに知識としてもっている新鮮味のないものであったとしても、あえて退屈を甘受して、もう少しだけお付き合い願いたいと思う。
 この馬鹿馬鹿しいほど大規模な群像劇の創始者も、公国の絶対的支配者として君臨した初代にして終身、そして最後の大統領ドン・アントーニオである。彼の動機は必ずしも明らかとはいえない。いくつかの理由は簡単に数え上げられはするが、そのいずれにしても、これほど大がかりな装置を必要とするとは到底信じられないからである。ただし彼が演劇を愛していたことは、彼の残した言葉によってはっきりとしている。おそらくは偏見を含んだ、個人的な感想を許していただけるなら、愛するというよりむしろ、彼は劇という表現形式に異常な執着を示していたと表現する方が、よりふさわしいように思える。
 ドン・アントーニオはこの群像劇にふさわしい「輝かしい名称」を見つけられずに、生前いつもただ「劇」と呼んだ。それゆえに、今も公国の国民は、ドロテア演劇もしくは公国劇場という対外的な名称になじまず、「島の劇」と呼ぶ。公国の劇には、暗黙裡ではあっても、かなり厳格に守られている風変わりなルールがいくつか存在する。
 雇用される役者はすべて外国人から選ばれる。この際、たとえ公国内部においては他国と認識されているはずの本土人までが、採用対象から除外されるのは、興味深い慣例ではある。ただし、公国内で「役者」と呼ばれ扱われるのは、役名とまとまった台詞を持つ主要登場人物を演じる者に限られていて、モブとして敷地内をにぎわし、端役として劇に出演する島民達は含まれていない。また、役者の病気や事故、逃亡や解雇などによる緊急時には、劇場に雇用され普段は端役をこなしている島民の誰かが代役をこなすことになるのだが、モブ役にしろ端役にしろ代役にしろ、ドロテア島民である演者には仮面の着用が義務づけられ、外国人の役者と明確に区別されている。
 役者達は、一ヶ月のうちの大部分を、かつてのドロテアの景観を再現したという公国劇場の敷地内で過ごさなければならない。公演は月単位で管理されており、毎月必ず一日に初日を迎える。全体の物語を演じきるのに六日間が費やされ、七日目の休日を合わせると、ちょうど一週間で一巡りする計算になる。二月を除けば、四巡分にあたる二十七日間が、公国劇場の上演期間である。(四巡目におとずれる七日目の休日には、役者達を縛る理由がないので、ドロテア演劇では二七日が毎月の最終公演日になる。二月に限り、公演は三週間すなわち二十日間で終了し、残った一週間強の休演期間は、年間で最長の休暇であると同時に、役者達の契約更新が行われる期間でもある)
 月末の休演期間(三日間ないし四日間)を除いて、役者達の自由は制限され、いわば「軟禁」状態に留め置かれる。たとえ当日に出番が一切なかろうが、その日の演目をすべて終えていようが、劇場の境界から一歩でも足を踏み出すことは許されない。役者達はその範囲内で生活し、銘々に割り当てられた古めかしい石造りの家で眠りにつくのである。
 役者の資質として最も重要視されるのは、彼の人となりが、演じる役柄とまったく相容れないという事実である。「嵌まり役」というものの考え方が、ドロテア島民と、それ以外に属するわれわれ一般とでは、正反対なのだ。これはドン・アントーニオの趣味を強く反映した感覚であって、彼はより虚構的な、より作り物的なものに喜びを見いだす質だった。自然さよりは人工的なものを好み、写実主義的な演出や演技には関心をあらわさず、むしろ戯画的な、もしくは大仰で誇大な演出、演技を喜んだ。ドン・アントーニオは何ら根拠を見出せない直観によって──しかし、根拠がない固執であるからこそより根強く──その役柄に一見して、否、よくよく観察してみてもなお不似合いな、おおよそ役柄に適った性質など持ち合わせていない俳優が行う演技こそが、劇的効果を最も強くするのだと確信していたのである。
 ドロテア公国民すなわち島民には、公国劇場敷地内への入場が無料で開放されている。外国人旅行者に対しては、入国時やホテルのチェックインに際して、彼等がドロテア演劇に興味があるかないかにかかわらず、義務だといわんばかりに入場券やワンデーパスポートの購入を積極的に勧めてくれる。だからドロテア演劇に興味をもった読者が公国を訪れたとして、言葉に関して不安を持っていたとしても、公国劇場への入場に関する手続きで戸惑う心配はない。財布の中身を気にしなければ、その点手厚いサービスは保証付きだ。親切な係員は、ドロテアに不慣れな外国人観光客であるあなたのために、あらかじめ充分なチップの額を含んだ料金を請求してくれさえするのである。
 さて、賢明にして学識深いわが読者にとっては既知の、退屈な前書きにあたる部分を慌ただしく終え、いよいよ本章部分へと移行していくわけだが、私は公国の歴史から、ある期間を切り取って──もう少し具体的にいえば、ある男が役に受かり公国を初めて訪れたときから、最終的にそれを失ってしまうまでを語ることで、ドロテアと、その演劇の全体をお伝えしようと思っている。
 そのために、私はあえて、一つの物語として本書を読者に提供したいと思う。つまり私は、私だけのドロテアを語るのではなく、私たちのドロテアを語るのである。ちょうど公国劇場の開幕を告げるコロス(合唱隊)の歌が、九人の女のユニゾンでありながら、自らを「私」と呼ぶのとは反対に、しかし同じような意味として。なぜなら、この二つのもの、本書の語り手と九人のコロスは、非にありながら、あまりにも似たものだからである。
 紙とインクと時間だけに限れば、ここにはあり余るほど用意されてある。私は物語にふさわしい語り手たるよう、自身を少しずつ透明にしていくことであろう。どうか本書が物語であると知って、したがって虚構を含み、事実でないものも語りうるのだという当然な解釈によって、あなたが失望されないでいるように。なぜなら、この物語は、事実とは証せない内容を語っている際に一層、真実を映し出すはずのものだからである。
 また、本書が期間を区切って語ることを非難し、その短さを嘆かれないでいるように。なぜなら、ドロテアとは、飽くことなくくり返される劇そのものだからである。そうであるならば、たとえ一つの回帰の中にも、公国の全歴史を語りきることが可能でなければならないのだ。

 

九人の女によるコロス 私に嘆きを歌わしめよ。邪な兄の企てによるリッカルドの忌まわしい船出は、英雄に数々の苦難と冒険を強い、嘘の葬儀と偽の戴冠によって、心あるドロテア人(びと)に大きな悲しみと幾多の不幸をもたらした。
 私にかの人を語らしめよ。正統な血筋にふさわしく徳高い正義の人⑴を。彼は黄泉より帰りて勲(いさおし)をたて、自らの生まれを証したのちに、妾腹(しようふく)の子に正当な裁きを与えた。
 私は歌い語るだろう。まことに王者にふさわしい神聖な英雄の物語とともに、彼が治めたドロテアと、ドロテア人の祖先達のさまざまな物語を。薔薇色の指を伸ばして昇り来る曙と、オレンジ色の髪をなびかせて入り沈む夕陽⑵の二つが、何物にもさえぎられず全(まつた)い姿で微笑みかけ、絶えず爽やかな潮風が恵む豊かな土地において、演じられるべきすべてのことどもを。
 私は語る。私が語りうるすべてのものを。私が語らないものを除いたすべてを。私が語ったもののみがすべてである。
 私は何者でもありうると同時にまた、何者でもなくあることができる。
 私はあらゆる場所に遍在する。海に山に林に森に、村に町に民家に王宮に。
 私は言葉そのものであって、私の言葉こそが世界である。
 なれば聞け。私の語るそのすべてを。神々と英雄の物語を、また人の子の悲劇、喜劇を。
⑴ ドン・アントーニオは、ドロテア演劇の中で、自らが英雄視するリッカルドの統治を
正当化しようとしていたと考えられる。 ⑵ 朝陽が伸ばす薔薇色の指と、オレンジ色の
髪をなびかせる夕陽というイメージは、古くからある定型的な形容である。

 

 ドロテア演劇の開幕を告げるこの語りかけるかのような斉唱は、公国劇場の入り口である巨大な門の向こう側から聞こえてくる。九人の女は、外国人の女優の中から当番制で選ばれる。仮面をつけた彼女達は、その姿を観客には決して見せない。門の前には広い道が通っている。敷地部分の買収と同様に、ドン・アントーニオが強引に拡張させた道である。観客となる外国人旅行者や島民は、この広い道を歩いてやってくる。
 歌が終わっても、門はすぐには開かれない。幅だけでなく、奥行きも広いこの門は、舞台としての機能を併せ持っているのである。
 小雨がぱらつく曇天の日だった。ドロテアの晩春にはめずらしく、肌寒い風をともなって降る雨だった。旅行者は傘を手にし、島民はほとんど手ぶらの者ばかりだったが、観客は皆一様に門の上を見上げていた。
 舞台には、いつものように、落命した先王クレオルの二人の弟、クレオンとリッカルドが立っていた。ただし、次兄のクレオンだけは代役である証に仮面をつけていた。役不足だと日頃から不満をためこんでいた外国人の役者の幾人かが、代役に名乗り出て少々揉めはしたが、慣例通り、「仮面達」と呼ばれている、劇場に演者として雇用されている島民のうちの一人が演じることになったのだった。彼が一番の年長者だったこともあり、島民の演者で不平を言う者はなかった。むしろ仮面達は、誰も積極的にクレオンを演じようとはしなかったのだから。

 

クレオン まさか臆病風に吹かれたのでもあるまい。なにゆえ大臣以下廷臣(ていしん)を集めた会議にも、諸侯が顔を揃えた晩餐の席にも顔を出さぬのか。王位を継承し、ドロテアの次代を切り拓くべき男が。少年時より風采よく行い正しく、ドロテアの花とも星とも讃えられてきたわが弟が。成人しては、馬上で槍を持たせても、徒で剣をふるわせ、また弓を引かせても人後に落ちず、無敵の名をほしいままにしたリッカルドが。
 言ってくれ、何がお前をそれほど頑なにし、ふさぎの虫に広い胸を蝕ませるままにしておくのか。王を失った悲しみのためか。なるほど、悲しみはあろう。けれども悲嘆にくれているのはお前ばかりでなく皆そうなのだ。そうして皆、新しく王となるお前が、亡き王の与えた試練を立派に果たし、即位の条件とされたプリクート⑴の制圧を成し遂げることを期待しているのだ。
 しかし中には、陰々として内にこもるお前の様子を聞き知って、いわれない疑いを始めたものがいる。私は違う。断じて私は誠実な弟を疑ってなどいないぞ。しかし、口さがない連中は、裏でこそこそと、いや、ある者などは公然と、お前のクレオル王への忠節と親愛の情を疑い、リッカルドは命を惜しんでいるのではないか、遠征軍の指揮官たる資格をそなえていないのではないかと言い立てるのだ。
 それどころか、お前がクレオル王の遺言に従わず、与えられたはずの試練を反故にしてなお、王位に就かんと画策するつもりではないかと邪推する者さえいる。分かってくれ、リッカルドよ。兄の無念を。許してくれ、その不埒な讒謗者(ざんぼうしや)をただちに斬って捨てなかったこの兄を。なぜならその男は、恥ずべきことにこの国の有力な貴族の一人だったのだから。答えてくれリッカルドよ。お前は昔と変わらずに勇気ある者だと。悪しきプリクートの者共を討ち果たし帰ってくると誓ってくれ。
リッカルド (クレオンをかえりみず、なかば独り言のように)勇気を? 勇気まで疑われるのか? この俺が。かつて戦(いくさ)においては誰にも先陣を譲ったことなく、誰よりも数多くのきらめく鎧を、打ち倒した敵将からはぎとってみせたこの俺が。これほどにクレオルを愛し、これほどにクレオルに尽くしてきた、このリッカルドが。命?命など惜しみはしない。王位? 名誉さえあれば俺には充分なのだ。
 ああ、せめて直接この耳が王の遺言を聞いたのであったなら! クレオルが直々に命じて下さったのなら! けれども実際は人伝にもたらされるのだ。凶報はおのが醜(みにく)い姿を恥じるコウモリのごとく日の光を避けて飛んでくるものらしい。
 あの慈愛に満ちたわが兄クレオルが、このリッカルドを忌まわしいプリクートへ、海賊達の中でも最も悪しき海賊達の根城、姿むごい魔物と、腐肉のようなわが身を売って子をなす魔女の住み処⑵へ行けと命じるとは。絶えず波高く風すさび、岩礁多い難所、かの思慮深く策に富んだ英雄⑶でさえ避けて通ったというアムピトリーテー⑷の破滅の大波と、火炎の嵐⑸を越えて行けと、ドロテア人の何人もなしえなかった無謀な航海を命ずるとは。自らの喪が明けぬ間に、次なる王に戦をしかけよと命じ、同時にその死の宣告まで下すとは!
クレオン 気持ちは痛いほど分かるぞ、弟よ。けれどもお前はその時船上にあったのだ。われらが共に愛する兄王クレオルは、あまりにも唐突に急逝された。とはいえその遺言は、信頼できる者に確かな声音で伝えられたのだ。
リッカルド (顔をそむけたまま独白)お前と、お前の息のかかった者だけに伝えられたのだ。
クレオン その中には私もいた。私がこの目で見、この耳で聞いたのだ。だから弟よ。今はもう嘆きをやめ、悲しみをふりきり、われらが兄弟の、王家の血統の正しさと、その勇敢を示すときだ。
リッカルド (兄の言葉には耳をかさず、しばしの沈黙のあと、不審の面持ちで見つめる)その杖には見覚えがある。兄クレオルが父から譲り受けた品では?
クレオン その通りだ。王は、お前が悪しき者共を討伐する途上にある間、私に摂政として留守を預かるよう託したのだ。
リッカルド (再び顔をそむけ独白)何ということだ。いやしい胎(はら)から生まれた男が、神聖な王笏(おうじやく)を握るとは! 今に王冠をその軽い頭に載せ、黒い腹に宝珠(ほうじゆ)を⑹抱き込もうとしても驚くまい。
⑴ ドロテア島の西南西、百キロメートルに浮かぶ小島。かつては奴隷を使役してのブド
ウ栽培が盛んであった。 ⑵ 劇中の設定では、プリクート島には魔女が棲み、魔物(龍)
と交わって「悪しき者共」すなわち海賊や怪物を産むとしている。 ⑶ トロイア戦争、
アカイア軍側の智将オデュッセウスをさす。 ⑷ ギリシア神話の海の女神。ポセイドー
ンの妃。⑸ ドロテア、プリクート両島の近海では、海底火山の名残が確認されている。
⑹ のちに劇内で王権の象徴として登場するのは、宝珠ではなく宝剣である。推測だが、
ドロテア演劇設立当初は小道具として宝珠が使用されていたのだろう。

 

 高い舞台から朗々とした二つの声が響き渡る。リッカルドは身を屈め動き少なく、クレオンは胸を張って、時折ゆっくりと腕を広げてみせながら、弟のまわりを右に左に行き来する。邪な者が堂々として情け深げに、正しい者が危うく心乱れた様子で演じられる。前回と同じ内容がくり返される。役者は変わり、時に代役がたち、脚本にわずかな直しが入ることはあっても、同じ演出と同じ演技を強要しようとする巨大な意志には揺るぎがない。ドロテア演劇全体のプロローグにあたるこの一場には、二人以外に人物は登場しない。兄はあくまで白々しく、弟は批難と恐れを独白しつつ、台詞を応酬しあう。結果、英雄は毎回、自らの気高い精神をあだにして、敵の罠だと分かっているプリクート遠征を、高らかに宣するのである。
 雨が木製の仮面に染みとおって、無表情なクレオンの顔を黒ませていく。門の内側では、待機中の役者が二人、芝居を眺めていた。
「役者がいないから仕方なしとはいえ、仮面のへぼ演技が開幕をつとめるんじゃ、どうにも締まらねえな」
 島民から「めくらの賢人」と呼ばれるフランシスク役の男が言った。
「どこをどう見たら、へぼなんて言えるのさ? 彼より上手い人なんて、このドロテアにいやしないのに」
 ラウラは半歩横に移動して、しきりに体を寄せてくるフランシスクから距離をとった。彼女には、「リボンを結った乙女」もしくは「手に入らない女」という呼び名が島民から与えられている。その名にふさわしく、この日も白く清潔なリボンで髪を結わえていた。
「そうかあ?」フランシスクは眉間に皺を刻み、遠く門の上にある舞台をより詳しく見てやろうと目を細くした。
「そうよ。彼が一番のベテランだもの。ドロテアで一番上手い役者は、どう考えたって彼のほかいないわ」
「役者? 仮面は役者じゃないぜ」
「仮面だろうと、素顔だろうと、舞台に立っていれば役者じゃない」
「いいや、違うな」
「島民みたいなことを言うのね」
「その島民になるつもりだからな」
 フランシスクは、白髪の混じった長髪にかかった微かな雨滴を払い、まだ顔をしかめて舞台上を睨んでいる。軒(のき)が狭い家の下にいるせいで、左肩だけがひどく雨に濡れ、ねずみ色した服の色を、そこだけより暗くしていた。
「ああ、そう。本気だったの?」傘をさしたラウラは、先のとがった小さい鼻から息を漏らした。「だったら急いだが良さそうね。年を食って目も弱ってきてるんじゃあ、せっかくお情けでもらった盲人役だって、そろそろお払い箱だから」
「いいや、俺より見える奴なんていやしない。俺は誰より見通すからこそ、ルゴリオーをやっていたにもかかわらず、ここに『めくらのフランシスク』として残れているんだ」
「残らなくったって良かったのに」
「お前のためなんだぜ、なあ。分かっているんじゃねえかそんなことは。時間ってもんが人の言うように平等なら、年を食ったのは俺だけじゃないはずだ。お前だっていつまでもラウラでいられるわけじゃねえ」
「そう。もう若くはないわね」怒気を含んだ言葉を吐き捨てる。「でもラウラは若い乙女の役だもの。若い乙女の役をドロテアでやるのなら、小娘だった昔より、今のほうがふさわしいはずよ」
「島の連中がそう思えばいいがなあ」フランシスクはいくらか乱杭気味の歯を覗かせて、ずるそうな笑みを浮かべた。と思うとすぐに態度を変えて、切実に訴えかける。「もうそろそろ退き際ってやつを考えるべきなんだよ、お前も俺も。第二の人生ってやつをよ。お前はどうするつもりなんだ。今さら外へ出て、真っ当にやり直せるもんじゃない。俺と一緒になって、この島で暮らそう。公国国民ってやつになって、これからは芝居をやるんじゃなくて、芝居を見るほうになって暮らすんだ」
「金はどうすんのよ」
 ラウラはうんざりだというように顔をそむけた。
「葉っぱをあつかうんだ」
 ラウラは一旦フランシスクの顔をまじまじと見てから、黙ってもう一度顔をそむけた。
「ちゃんとルートは確保してある。今商売をやっている爺さんが一人、足を洗いたがってるんだ。それを俺が受け継ぐ。安全な商売だ。それに儲かる。俺を愛してくれとは言わねえ。ただ夫婦になってくれさえすりゃいいんだ。そのかわり、不自由はさせねえ。お前は苦労知らずの奥さんを楽しんでればいいんだよ」
「馬鹿ね」ラウラはさっきフランシスクがやったように、しかしこちらはきれいに並んだ小さく白い歯列を覗かせて、声をたてずに笑った。
「なにが馬鹿だ。真面目に考えてみろよ。俺達にとっちゃこれが一番ましな未来だ」
「馬鹿よ。リッカルドの使い走りになるなんて」
「俺はもうフランシスク役なんだ。英雄側についたって問題ない。いや、そっちのほうが自然だろ?」
「役者をやめた後の話がしたいんでしょ? それこそ最悪よ。劇場から自由になってまでリッカルドに媚を売るなんて」
「金のためさ。そんなことは気にしない」
 ラウラは大げさに陽気な調子をうわべだけで装うと、フランシスクを嘲って言う。
「ねえ、お情けで教えてあげるわ、お馬鹿さん。元は私のいい人だったんだものね。あんたはドロテアの人間が分かっていないのよ。島の連中がどういう奴らだってことがね。あいつらが私達を受け入れるなんてことは金輪際ありはしないの。教えてあげるわ。あんたがルゴリオーからフランシスクになれたのは、決して目端が利いて、先を見通す力があったからじゃない。だってそうでしょ? フランシスクは予言者なんだもの。あんたが意気地のない卑怯者の馬鹿だと知れたから、ルゴリオーにはてんで向いていなくって、忍耐強く信義に厚い賢者役のほうがよほどぴったりだと、誰もが思ったのよ」
「なあ、子供みたいに聞き分けのないことを言うなよ」
 フランシスクはラウラの腕をとった。ラウラは体をよじり揺すって、苦しそうに笑いながら言う。
「子供なのはそっちよ? ねえ、まだ分からないの? そんな未来なんてありっこないの。まやかしなのよ。だからもうわがまま言うのはよしてちょうだい。ずっと昔に、私のかわいい人だったお馬鹿さん」
「俺は生き残ったぞ。俺は生き残ったんだぞ。馬鹿なのはあいつらのほうじゃないか。おい、聞いてるのか、俺は生き残ったんだぞ」
 フランシスクはラウラの腕を握る手に力をこめて強く揺すぶった。ねじり上げるかと思うほど強く引きつけて、彼女の体を抱きすくめようとする。
「痛い。やめてよ。仮面達が見てるでしょ」
 ラウラはフランシスクを突き放すと、形相を変えて憎々しげに睨みつける。
「悪かった。悪かったよ。機嫌を直してくれ」
 フランシスクは途端に哀れっぽい涙声になって懇願する。ラウラは冷たく言い放つ。
「こないだ久しぶりに良くしてあげたからって、あんたの女に戻ったわけじゃないんだから。坊やみたいに夢中になる歳じゃなし、あんまり馴れ馴れしくしないでよ。今日、明日にでも、私のいい人が来ようっていうのに」
「悪かったよ」
 フランシスクはうなだれて言った。けれどもラウラは、もう隣の男の存在をほとんど忘れてしまってでもいるようだった。薄曇りの空の、その雲を透してぼんやりと差している太陽の光を見上げる。
「すぐに私のいい人が来るんだから」
 ラウラは少女のように微笑んだ。

 

 

「ドロテア」(二) 大使館

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