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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

私は私の偏見を抱きしめていたい

 偏見を攻撃する言葉が往々にして偏見に満ちているのは、たとえどのような彼、彼女であっても、考えられうる限り完璧な人間でも、それが神であっても、完全に偏見からのがれることなど不可能だからである。

 可能であるとすれば何も考えないことである。頭に浮かべることを、腹が減ったとか、眠いとか、排泄したいとか、交合したいとか、単純な欲求に限ることである。

 あの人は美しいとか、あの花は美しいとか、いやいや、それもまた危険である。何かを肯定すること自体、一つの偏見に通じる。むしろ偏見そのものと言っていいかもしれない。どうして一つの否定なくして一つの肯定がありうるだろう?

 たとえ自分は何一つ否定するものではない、ただ何かを肯定するだけだと公言しても、その肯定されたものや価値観の、反対側に位置するものや価値観を肯定する人がきっといるのだ。そのことを無視して、自分はただ肯定するだけの存在です、と自称するのは、無神経な馬鹿でなくて何なのだろうか。何かを肯定することの裏側には必ず何かを否定することがあり、何かを選択するということは、それ以外の選択肢を低く見積もることである。

 であるならばこそ、可能な限り偏見をなくすためには、単純な欲求しか頭に浮かべまいと努力するほかない。可能な限り無意志、無意見、無感動を通すことである。

 にもかかわらず、やっかいなことだが、偏見を攻撃する美しい正義の人に限って、「自分の意見」とか「自分で考えること」とか「自分の言葉」というものやらを、やたらと推奨してきたりもするのだ。

 しかし、少しでも本当に自分の頭で考えてみれば、自分の意見とか、自分の言葉といったもののほとんどすべてが、過去に誰かが言ったことの焼き直しでしかないということに気づくだろう。

 何ものにも頼らず、自分で考えたと本気で信じている馬鹿は、誰かの言葉や、誰かの意見を知らない間に自分の中に吸収していたという事実にすら気づけない、どうしようもない馬鹿である。

 何事かについて、少しでも本当に何かを考えてみようと意欲したことがある人間ならば、その何事かについて、自分以前に考えた者の意見や言葉を知ろうとするだろう。そして、自分一個人で考えられることは、すでに他の誰かが考えてしまっていることに気づいてしまう。

 いちいち誰かの言葉であると前置きして引用する誰かは、必ずしも権威主義の嫌味なやつではなくて、古人に対して謙譲の気持ちを持ち、自分というものを過大評価しない人間かもしれないのだ。

 しかし「自分の頭で考えろ」教に属する彼等には、そんなことはお構いなしである。

 もしも、ただ自分一個という空無な内実のみから、何らかの意見や思考や言葉がほとばしったとするなら、それは自分一個のものでしかないという時点で、この世の中に存在する偏見の最たるものであろう。幸いなことに、そんなものは存在しない。

 

 私が何かを肯定するとき、それは、あなたが否定するもの、嫌悪を感じるもの、価値をまったく感じないものであったりする。「人それぞれ」で世の中が成り立つと本気で信じるなら、「人それぞれで世の中は成り立つ」という偏見の中に生きていてもらえばいい。

 しかし、なんぴとも、なんらの偏見なしに考え、意見をもち、言葉を発することは不可能である。

 

 であるならば、私は私の偏見を、偏見を攻撃する正義から守りたい。

 私は私の偏見を抱きしめていたい。