人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

オレステイア三部作『慈(めぐ)みの女神たち』アイスキュロス──ギリシア悲劇を読む第五回

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登場人物

デルポイなるアポロンの社の巫女 

アポロン神

ヘルメス神

オレステース 故アガメムノーン王の息子、母クリュタイメーストラーを殺し、狂って諸国を流浪する。

クリュタイメーストラーの亡霊

復讐の女神エリーニュス(後に「慈(めぐ)みの女神」と変る)の群れ

アテナ女神

アテナイ最高法廷アレオパゴスに審判をつとめるアテナイ市民たち

アテナイの婦人や娘、数名

 テキスト

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇

 

 訳者は呉茂一氏。

 原題『Eumenides』(エウメニデス:慈みの女神たち)は、引用した登場人物欄にある通り、もともとは復讐の女神エリーニュスで、コロスとして登場する。コロスが題名となるのは、前作第二部の『供養する女たち」同様である。

 ただし、通常の(例えばこれまで読んできた作品の)コロスとは違って、このエリーニュスたちは、劇の主要な登場人物、ほとんど「主人公的」な登場人物という役割を演じる。これは第一部のクリュタイメーストラー、第二部のオレステースと同様、第三部ではエリーニュスが「復讐者」の位置にあるからだろう。

 前二作においてわれわれは、ノースロップ・フライからの引用を尊重して、「典型的な復讐悲劇」では、復讐される者を悲劇の主人公として、クライマックスにその「罪」に対する「罰」の執行者として復讐者があらわれる(例えば『マクベス』のように)という定義を採用し、しかし、アイスキュロスのオレステイア三部作では、復讐者のほうが中心として書かれているということを確認した。

 第三部で、「(典型的な)復讐悲劇の主人公」つまり、復讐を受ける側の人物にあたるのはもちろん、母殺しを行ったオレステースである。

 オレステースは第二部の終わりから、エリーニュスたちに追われ、狂気にとりつかれて諸国をさまよっている。第一部でのクリュタイメーストラー、第二部でのオレステースのように、だれか特定の人間に復讐を任さず、エリーニュスたちが自らはっきりと姿を現してオレステースを追い回さざるをえないのは、復讐者の役をになう人間がいないからだとも言える。

 復讐の連鎖をつむぐアトレウスとテュエステースそれぞれの子孫のうち、テュエステースに連なる者はもう存在しない。(オレステースはアトレウスの孫である)少なくとも、劇内世界には存在しない。このことは、第三部のクライマックス(ということはオレステイア全体でのクライマックス)において、かなり重要な条件に思われる。

 もしも、アイギストスとクリュタイメーストラーの間に子供が生まれていたならば、その「罪の子」は、必ずオレステースを討たねばならなかっただろうからである。

 

巫女

 オレステースは狂気にまかせた流浪の後、デルポイにあるアポロンの神殿にたどりつく。

 劇がはじまるのは、その神殿、はじめに登場するのは、神殿につかえる巫女である。

 巫女は神々の名前を数え上げつつ祈りをささげ、奥殿に入る。入ってしばらくすると、驚き恐怖し、よろめいてまた出てくる。オレステースとエリニュースたちを目撃したからである。

 第一部の冒頭に登場した「物見の男」が、「すべてを知っている」ようであったのに対して、巫女はほとんど何も知っていない。

 巫女によれば、男(オレステース)は聖石のそばに座り込み、手にはまだ血が滴っているという。アルゴスから逃げたオレステースは諸国を流浪してデルポイにたどりついたというのだし、仮にアルゴスからまっすぐデルポイに向かったとして一日でたどりつける距離ではないから、母の血が滴っているというのは、常識的にはおかしい。これは「呪い」の力でそうなっているというより、例の「三一致の法則」のうちの「時の一致」(一日の劇内時間のうちに演じきる)が、第二部から引き続いて適用されているからだろう。

 忌まわしい姿をしたエリーニュスは(巫女はエリーニュスだとは分かっていないが)近寄りがたい凄まじい吐息でいびきをかき、眼からは嫌らしい汁をたらして眠っている。

 

アポロン

 巫女が退場し、眠るオレステースと、その周りを取り囲み眠るエリーニュスが姿を現す。

 つづいて、アポロン神ヘルメス神をともなって現れる。ヘルメスは台詞を発しない。

 アポロンは眠るオレステースにこう話かける。

 けしてそなたを、見棄てはすまい、終始一貫、そなたの身近に立ち添って護ってつかわす、よしまた遠くに離れていった時も同じだ。そなたに敵意をいだく者には、けして優しい神とはなるまい。

 エリーニュスを眠らせたのはアポロンの業(わざ)なのである。彼の言葉をまた借りれば、エリーニュスとはこのような存在である。

この嫌らしい娘たちは、年を経た老いの娘だ、この者たちとは、神々の誰一人として、また人間も、野獣とて、かつて交わることがないのだ。彼らこそ悪のために生れ出たもの、忌まわしい闇に棲まい、地の下なるタルタロスを居として、人間界にも、オリュンポスなる神々にも、憎しみを受けている。

 しかし、アポロン神でもすぐにはオレステースを助けられない。ここからさらに逃げて、パラスの都(アテナイ)へと行き、そこで女神(アテナ)の神像につかまれと助言する。

しからばそこで、この案件の裁判役を得、言い宥めの論議をもうけて、末永く、そなたがかような苦艱(くげん)を逃れおおせる手段を講じつかわそう。おのれが母ともある者を、さて殺せとそなたに説き勧めたのも、私であるから、

 ここでアポロン神からオレステースに言い渡される助言は、ほとんど本劇のあらすじと言ってよい。すでに、この時点で、オレステースはアポロン神によって、復讐の連鎖から逃れられると約束されている。まさに『おのれが母ともある者を、さて殺せとそなたに説き勧めたのも、私であるから、という言葉にあるように、オレステースはアポロン神の庇護という特別扱いを、作者アイスキュロスによって受けている。

 第二部を読んでいる際に確認したように、そのためオレステースの「悲劇的英雄性」が弱まり、「主人公」としての魅力が弱まっているとしても、である。

 オレステースには、(人間の)「復讐者」が存在しないということと共に、彼が「生き残る存在」だという手はずを、アイスキュロスはすでに整え終わっている。

 

 オレステースは眠りより目覚める。眠っていても神の言葉は届いている。念を入れて神に庇護の確約を請い、アポロンはそのしるしに「道案内の神」ヘルメスを、「逃亡」の護衛と案内役として遣わす。

 

 母の亡霊

 アポロンは消え、ヘルメスはオレステースを先導して共に退場し、舞台には眠るエリーニュスたちが残される。

 現れるのは、クリュタイメーストラーの亡霊である。

 亡霊は、眠りこける復讐の女神たちを前に、悪態をつき、我が身のみじめさを歎き、神々をうらみ、エリーニュスらを罵ることによって、そのエリーニュスを起こし、彼女たちの仕事、「復讐」にもどるよう急き立て、励ます。

 (訳文では、クリュタイメーストラーの口調は、かなり蓮っ葉な調子になっている。つまり、はっきりと分かりやすい悪役、その口調によって、自ら、負けることをあらかじめ印づけているといった口調だ。)

  クリュタイメーストラーが罵る声に呼応し、エリーニュスは夢にうなされるようにうなり声を少しずつ大きくしていく。亡霊が消え去ると、復讐の女神は、一人、また一人と目を覚まし、わめきはじめる。

 

復讐の女神たち

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 エリーニュスたちは、アポロンに眠らされたことに気づき、悔しがり、また恨みに思う。アポロンは「お若い」つまり新しい神であり、エリーニュスは「年寄りの」つまり古い神である。

 エリーニュスは、アポロンを非難し、オレステースを決して赦さないと誓う。

 そこへアポロンが現れる。自分を祀る神殿から、出て行けとエリーニュスたちに言い渡す。ここでもアポロンは、エリーニュスがどういう存在なのかを教えてくれる。

御身たちの居所は、首斬人や眼をくじりだす処刑(しおき)の土地、咽喉を裂き、また子種を絶やそうとして、少年たちをいたぶりあげて宮人とし、また手足を断ち、石子詰(いしこづめ)の刑に処したり、杭に背を刺し貫いて長いあいだを呻き哭(な)かせる、そういう国だ。

 復讐の女神たちは、地獄の、悪魔的な、世界の住人なのである。ここは「死の舞踏」の世界と地続きになっていて、あらゆる尊厳は奪われて存在しない。悲劇的というよりは、アイロニーが支配する世界である。

 アポロンはエリニュースを排斥する。

 エリーニュスはアポロンに抗議する。

 ゼウスの御子たる新しい神(アポロン)が主張するのは、父の仇を討つ正当さと、夫殺しの非道さ、であり、年寄りの古い女神たち(エリーニュス)が主張するのは、母親に害を与えた者を追いかけ復讐を与えるという自分たちの仕事の正当さと、母殺しの非道さ、である。

 この二つの対立は結局、夫婦の関係を尊重するか、母子(血のちながり)の関係を尊重するか、という対立につながる。

 アポロンは(自身はレートーを母親とするに関わらず)父ゼウスとその正妻ヘーラーを例に出して正義を主張し、エリーニュスは自らに与えられた古い仕事としての正義を主張する。新旧の神々の対立が描かれている。

 

 アテナイへ

 舞台はアテナイのアクロポリス(丘上)に変り、オレステースがアテナの神像にすがりつく。

 エリーニュスが追って現れる。女神たちはオレステースを脅し罵るが、オレステースは女神たちの言葉には無感動で、アテナに救いを求めつづける。

 エリーニュスはオレステースを取り巻き、彼のために『お前を呪縛する歌』を歌う。

 歌からまず分かるのは、女神たちが『私らを生んだ母さま、夜の母さま』と呼びかけていることからして、どうやらアイスキュロスは、エリーニュスをネメシス(ニュクス(夜)を母とする)と同一視しているらしいということである。

 女神たちが歌うのは、自分たちがつとめる『昔の世から伝わった栄職』についてである。女神たちの仕事はこういう内容である。

家に住みつき、身内を殪(たお)せば、

そいつをだよ、さあ、追いつめ、

ねに、どんなに強い奴だとて、みな

取り殺すのさ、新しい血のためにな。

  女神たちはずいぶんと仕事熱心にできている。

私たちは、他(ひと)がこの厄介ごとをせずにすむよう、骨折るのだ、

私たちの働きで 神々が、御手をつかねていられるように、

また予審さえ せずにすむよう。

 ゼウスは、かような、憎むにたえた、血のしずくがなお垂れ落ちる

族(やから)と口を利くも汚れと仰せられるゆえ。

 

アテナ女神

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 アテナが姿を現す。

 処女神は、まずエリーニュスに目を留め、彼女たちの素性を問い質し、訴えを聞く。復讐の女神たちの主張は一貫していて、母親殺しのオレステースの命を取るということにつきる。しかし、アイスキュロスは、エリーニュスよりもアテナを一枚上手に設定してある。

アテナ お前方は、実際に正しくあるより、そう言われれば満足なのだね。

コロス まあ、どうしてです、教えて下さい、ずいぶん頭がお切れな言いかた。

アテナ 誓いだけで、不正なものが、勝ちを得られはしない、というのです。

コロス では、十分吟味なさって、そいで正しい裁きをつけて下さいまし。

アテナ そんなら私に、この糾問の決着を、つけてくれとお言いなのかえ。

コロス はい、もちろんですとも。当然お持ちの、権威(みいず)はちゃんと私たちとも尊重します。

 『予審さえ、せずにすむよう』といきりたっていたエリーニュスにしては、ずいぶんと聞き分けがよいようだ。

 次はオレステースの番だが、彼も自分の正義を主張するという点で一貫している。夫(彼にとっては父親)殺しの母親を非難し、彼女を殺したのは父の仇をとったのだと言う。

 アテナは、オレステースを『申し分のない嘆願者』として認め、またエリーニュスについても『たやすくは片づけられぬ職分を持』っているとし、またそれが果たせないとなると、『思い上がって茶毒(とどく)を土に注ぎ下し、癒えがたい永劫の病患』となるかもしれない厄介な存在だと憂う。

 女神は一計を案じる。アテナイの『市民の中から最上の者を選び出し』『裁きの庭を設け』ると提案するのである。

 女神は退場し、あとにのこったエリーニュスのコロスは、「裁判」にそなえて、改めて自分たちの「職分」の正当さを確認するように歌い、勝利を誓う。それは古い神々による、古くからある正義である。

 今こそは、新規な掟やけじめへの どんでん返しだ

 というわけである。

 裁判がはじまる。

 所は、アレース丘にうつり、法廷の場となる。

 (解題より引用『そこは伝説に武神アレースが、ポセイドンの子ハリロオティスを殺し、神々の審判を受けたところといわれ、アテナイの最高法廷の常置される場所であった』)

 被告はオレステース。弁護人はアポロン神。検察官はエリーニュス・復讐の女神たち。裁判官はアテナ女神。陪審は十二人のアテナイ市民である。

 

 検察側の尋問からはじまる。エリーニュスは当然、母親殺しの非道を責め立てる。オレステースが弁解する。

オレステース だって、二重の罪の穢れを、攻め入り口に、(母上は)お持ちでしたからね。

コロス どういうのだね、いったい。判事たちに教えておやり。

オレステース 夫を殺し、同時にまた父上を殺害したのだ。

コロス だけどさ、お前は生きてるものね、彼女の、殺人の咎はもうないのさ。

オレステース そんなら、どうして母が生きているあいだ、追い廻さなかったのです 。

コロス 殺した男と、血つづきではなかったからだよ。

  エリーニュスは、もともと母親に対し危害をあたえた子への復讐を司っていたとはいえ、夫を殺したクリュタイメーストラーも、母を殺したオレステースも、エリーニュスの名を唱えて忌まわしい殺人をやってのけたのだから、アトレウスとテュエステースの子孫の間で行われる復讐の連鎖すべてを司っていて不思議はなく、むしろそのほうが自然である。

 しかし、何度も確認してきたが、本劇では、オレステースの母親殺しはアポロンの差し金となっており、この第三部『慈みの女神たち』では、その間エリーニュスたちは、さぼっていた、と設定されている。

 

 次はアポロンによる弁護、なのだが、被告オレステースとのやり取りにはならず、弁護人と検察が丁々発止やりあう。このあたりにも、コロスらしからぬコロスとして、劇のただ中で中心人物としてふるまうエリーニュスたちの性格がみてとれる。

 アポロンは父神ゼウスの権威を持ち出して、オレステースを弁護しようとする。

 ために、説得力に欠ける……とはギリシア世界では言えないかもしれないが、少なくともあまり魅力的な弁論とは言いがたいように感じられる。

 アポロンの主張は、ゼウスが王笏を授けた立派な武人であるアガメムノーンを、女が、それもだまし討ちで殺したというのはけしからぬことで、だから息子に殺されて当然だということである。

 しかし、エリーニュスたちは、このようにやっつける。

 お前さまの言うようだと、ゼウスは、父親のほうを、よけいにだいじになさるらしいが、ご自分は、父御(ててご)のクロノス老神さまを、獄舎(ひとや)に押し込めなさったろうが。どうして、それが今の話と矛盾しないとおっしゃるのかね。 

 アポロンが次にくりだす主張は、先よりまして、現代のわれわれには受け入れがたいものである。

だいたいが母というのは、その母の子と呼ばれる者の生みの親ではない、その胎内に新しく宿った胤(たね)を育てる者に過ぎないのだ。子を儲けるのは父親であり、母はただあたかも主人(あるじ)が客をもてなすように、その若い芽を護り育ててゆくわけなのだ。 

 アポロンはその証拠として、『母胎の闇に身の養いを受けたことはない』存在として、アテナ女神をあげる。

 

 ここで双方共に言い分は尽くしたとなって、投票が始まる。

 投票の間も、アポロンとエリーニュスは言い争っている。

 十二人の市民が投票を終わり、最後にアテナが自分はオレステースに投票すると宣言する。

なぜならば、私に生みの母というのは誰もありません。またよろずにつけ、男性に味方します、まあ、結婚の相手はごめんだけれども。心底からね、私はすっかり父親側ですから。 

 というわけだ。

 市民の票が数えられ、白黒6ずつの同票と分かる。アテナの票をオレステースに加えて、オレステースの勝訴が確定する。

 

慈みの女神たち

 

何ていうことだ、新しい神々ったら、

昔からの掟て定めを、よくも

私の手からもぎ取って、足蹴にかけたな。 

 エリーニュスたちは激しく憤り、アテナイに毒をはきかけてやると喚く。

 アテナは復讐の女神たちの怒りをしずめようとなだめる。女神たちのために、新しく『立派な御座所』をしつらえ、アテナイの民から『いつも尊み、斎きもられ』るようにすると約束する。

 エリーニュスたちは、二種類の憤りと呪いの言葉(歌)をそれぞれに二度ずつ、都合四回もくり返して、怒り続けるが、ついにアテナ女神の『優しい宥めすかし、心をとろかす力』によって、態度を軟化させ、耳を傾けるようになり、新しい『誉れの役目』を果たすと説得される。

 恐ろしい復讐の女神が、民草を祝福し、めぐみを与える、よろこばしい女神たちへと変わるのである。

 

 ところで、この感動的なラストシーンは、悲劇にふさわしい結末だろうか?

 われわれは、オレステイア三部作の第一部で、フライの『悲劇がわれわれを運んでゆく先は律法、つまり、現に存在し、存在しなければならないものの顕現なのである』という言葉を引用し、この三部作でも表にあらわれてくるのが、「目には目を」式の「応報の掟」(lex talionisだということを確認した。

 フライはこれにつづいて『オレステイア』に言及している。

この点でわれわれは、悲劇の主人公を自然の均衡をみだすものと考える。(略)均衡の回復をギリシア人たちは「因果応報」(nemesis) と呼んだ。

(略)『オレステイア』では、われわれは、一連の復讐行為から自然法についての、最終的な洞察にみちびかれる。この自然法とは、道徳律を含み、知恵の女神の形をとった神々によって保証された普遍的な契約である。ここで「ネメシス」は、キリスト教でこれに相当するモーゼの律法と同様、廃止されるのではなく、完成されるのだ。つまり、これは、復讐の女神によって代表される、秩序回復についての機械的で恣意的な感じ方からすすんで、アテナ女神によって表わされる、その理性的な感じ方をもつようになる。アテナが登場したからといって、『オレステイア』が喜劇になるわけではなく、その悲劇的な視点をあきらかにするのだ

 

 ここで説明されている「視点」が、われわれが『オレステイア』のラストシーンから受ける印象のすべてを包含していないのは確かだと思われる。だからといって、文芸のジャンルということについて、フライの分類に頼り、それを杖のようにして悲劇を読んできたのだから、上の引用を否定するものでもない。

 もちろんフライは、ロマンス、悲劇、喜劇、アイロニーという様式が、一作品につき一様式適用されると考えているわけでなく、一作品に複数の様式、時には四つすべての要素が含まれると再三指摘してもいる。

 喜劇についてはこのように記している。

 喜劇の主題は社会の融和であり、それは普通中心人物と社会との一体化という形をとる。ディオニュソス的な神の死に対応する神話喜劇は、主人公が神々の仲間として受け入れられる、アポロ的な物語である。 

  「社会の融和」「中心人物と社会の一体化」「主人公が神々の仲間として受け入れられる(神話喜劇)」という言葉に、ラストシーンでのエリーニュスたちはぴったり収まっている。また、「社会の融和」「中心人物と社会の一体化」については、オレステースにもはてはまる。

 どう考えても『オレステイア』のラストシーンで「神話喜劇的」(もしくは高次模倣喜劇的)な要素を無視することはできない。

 さらに加えて、喜劇の一典型では、「怒れる老人」が、若者に勝利をゆずる、もしくは若者の要求に屈する、そして新しい社会があらわれるということ(ローマの新喜劇(低次模倣喜劇)はほぼこの型の喜劇ばかりである)、また本劇における裁判は、女神アテナが権威を与えているとしても、市民を陪審とした民主的な裁判であるという点で、フライがいうところの律法、復讐にかわる自然法が、低次模倣的なものに移行しつつあるように見えるのである。

 したがって、悲劇はここで、また偉大な悲劇詩人アイスキュロスは自らの残した最高傑作の、おそらくは古今の文芸の中で最も荘厳なハッピーエンドの一つをとおして、エウリーピデースを待つことなく、すでに低次模倣様式の文芸の到来を予告しているかのように思われるのである。