人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

オレステイア三部作『供養する女たち』アイスキュロス──ギリシア悲劇を読む第四回

登場人物

オレステース アルゴス王亡アガメムノーンの息子。

ピュラデース オレステースの従兄で親友。

合唱隊(コロス) 王妃に仕える侍女たちから成る。

エーレクトラー アガメムノーンの娘でオレステースの姉。

従僕 王妃の召使。

クリュタイメーストラー 亡アガメムノーン王の妃。

オレステースの乳母

アイギストス 王妃の愛人、共謀して王を殺した者。

アイギストスの従僕

 訳者は呉茂一。テキストはひきつづきこちら。

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇

 

  原題のchoephoroiは、「コエー」を運ぶ者たち、という意味で、劇内のコロスをさしている。コエーとは『これはだいたい、酒を混えない、蜂蜜と乳汁とオリーブ油から成る』ものだそうで、このコエーを墓に注いで供養をする。

 時は、王妃クリュタイメーストラーのアガメムノーン王殺害から数年、場所は王の墳墓の前ではじまる。

 

復讐者の帰還

 前回、第一部(第一曲)『アガメムノーン』の時に引用したノースロップ・フライによると、(典型的な)「復讐悲劇」では、復讐の原因となる敵意をつくる(もしくは受け継ぐ)者、すなわち復讐を受ける者が主人公であり、復讐を与える者(復讐者)が登場して悲劇が大詰を迎えるとあった。

 しかし『オレステイア』では、第一部ではクリュタイメーストラーが、第二部ではオレステースが、復讐者として劇の中心にいて、いわば主人公として振る舞っているという点で、フライの想定する「復讐悲劇」の典型からは距離がある。

 『供養する女たち』の冒頭で早くも、復讐者オレステースは誰より先に姿をあらわす。「悲劇的主人公」(復讐を受ける者)としてアガメムノーンの物語が劇内でほとんどまったく演じられなかったように、「悲劇的主人公」クリュタイメーストラーの物語もほとんど演じられない。もちろん「供養する女たち」は第二部(第二曲)であって、その前に『アガメムノーン』が存在するのだが、第一部ではクリュタイメーストラーが復讐を果たしたばかりのところで終わっている。第一部でも第二部でも、劇が主に焦点を当てているのは、復讐者なのだ。

 オレステースは墓前に自らの髪の束を供え、父の死を悼み、復讐を誓う。復讐の誓いは、墓の前で行わなければならないというのは、文芸におけるかなり強制力の強い規則の一つだろう。オレステースは、姉と女たちに気づいて物陰にかくれる。

 

女たち

  やってくるのは、エーレクトラー侍女たち(コロス)である。王妃(クリュタイメーストラー)が不吉な夢を見たために、『この禍いを祓(はら)おうと』王(アガメムノーン)の霊を『鎮めまた和らげ』るために『供養のそそぎ運んできた』のである。

 そのために、オレステースが姉エーレクトラーに再会し、復讐の誓いを強くするわけだから、王妃の行動は逆効果であって、皮肉なものとなっている。アイスキュロスがものした典型的で「単純」な悲劇では、すべてのものごとが、悲劇的な結果に収斂していくように、非常に強い力で方向づけられる。例えば『アガメムノーン』でのカサンドラーの予言が、悲劇(王殺し、夫殺し)を避けうるためになされたにも関わらず、悲劇を確実なものとするように。アイスキュロスの悲劇という「磁場」はあまりに強力なので、登場人物の言動や、劇内の出来事が、別の方向を指すことを、ほとんど許してくれないのである。

 であるから、コロス(侍女たち)も、何の疑いも持っていないかのように、悲劇的な結果(王妃殺し、母親殺し)をうながそうとする。コロスが悲劇をうながすという点では、第一部と同じだが、アルゴスの長老(おとな)たちが、立場上、王殺しをうながすために、そらとぼけているような態度をとっていたのとは変わって、女たちは、かなり直接的である。

 母に殺された父への供養を、母から命じられて困惑するエーレクトラーの問いかけに、自分自身とアイギストスを憎むものたち──そこにはオレステースも含まれると指摘する──のために祈れと言ったあとに、コロスの長は助言をつづける。

コロスの長 次には、あの弑逆(しぎゃく)の張本人たちへと、お忘れなく……

エーレクトラー なんと言うの、教えてちょうだい、わからないから説明して。

コロスの長 その人たちに、神さまなり人間なり、誰かが向っていって……

エーレクトラー 裁き手か、罰を報いる者かがっていうの。

コロスの長 はっきり申せば、殺した報いに、殺し返そう、という者が

エーレクトラー それで、そんなことを神さま方にお願いしても、不敬の罪には当りませんの。

コロスの長 もちろんですわ。敵に対して、禍いに禍いを報いるのは正当ですもの。

 

 女たち(コロス)は何者なのか

 コロスが、悲劇をうながし、その成就に寄与する存在だという確認は繰り返して行っているが、それにしても、現代的な目すなわちリアリズムに「毒された」われわれの目から見ると、コロスを成す女たちは不思議な存在である。

 登場人物欄では『王妃に仕える侍女たち』とある。にしては、あまりに王妃に対してつれなさすぎる。エーレクトラーは自身を『婢女(はしため)同然とされ』と言っているから、王女付きの侍女というわけでもないのだろう。コロスは自らの来歴の一端を明かしている。

だが私どもは、神意によって 故郷の町を攻め落とされて、

よんどころなく 親代々の屋敷を離れ、人に仕える

運命(さだめ)をとかく負わされたうえは、正義も不正義も、

  戦勝の報賞としてアガメムノーン治めるアルゴスの奴隷になったといえば、すぐにトロイアの女性が浮かぶが、それ以前の戦いで得られたのかもしれない。とにかくアガメムノーンに故郷を攻め滅ぼされた女たちだと考えられる。にもかかわらず、彼女たちの衣の袖は『顧みられぬ殿さまのお不仕合わせを 嘆く涙に 濡れそぼつ』というのだ。どちらかといえば、王を憎んで、王妃に同情してもよさそうなものである。

  しかし、悲劇はむしろ当然のように、王妃に仕える侍女たちまでも王妃の所業を憎み、姉弟による復讐を望んでいるということによって、復讐を正義にかなった、正当な行為として印象づけることを選んでいる。

 

再会

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 死者へのそそぎを終えたエーレクトラーは、墓に供えられている毛の房について、弟オレステースのものに違いないと、コロスとの会話で考えを明かす。(ただし、その根拠は、髪と足跡が自分とそっくりだからという心細い理由である)

 ここでオレステースはピュラデースを伴って、姉エーレクトラーの前にあらわれる。はなればなれになっていた肉親との再会という、古くからくりかえし使用されてきた感動的なモチーフである。

 喜劇では、物語の大詰めに、多く「ご都合主義的な」偶然によって「しるし」が発見され、不当な関係(近親相姦の危機)が回避され、正しい家族構成があきらかとなり、結果、若い男女の結婚に代表されるようなハッピーエンドを迎えるのに対して、本悲劇では、「再会」が約束された「破局」の導入となっている。

 オレステースとエーレクトラーが兄と妹ではなく、弟と姉であることの効果については、検討してみる価値があるのかもしれない。兄や姉は、弟や妹の庇護者である。しいたげられている兄のもとへ、妹が帰還してくる情景が劇として成り立たないであろうことはもちろん、弟のもとへ姉が帰還したとしても、(典型的な悲劇としての)劇的効果は弱まったのではないかと思う。

 では、妹のもとへ兄が帰還したのであればどうだったか? これが単なる復讐劇であったなら、それでも充分に、つまり効果を減ぜずに劇を成り立たせることは可能だろう。もしくは、復讐の相手が父親ならば、しいたげられる妹と、帰還する復讐者としての兄というセットのほうがむしろ、典型的という意味で「ふさわしい」印象を観客に与えるかもしれない。

 しかし本劇では、母親殺しが行われる。オレステースが一人っ子だったとして、現実的には、復讐が果たせないというわけではない。実際『供養する女たち』の中でエーレクトラーは復讐に何の関与もしていない。後ろにいてただ煽っていただけである。しかし、おそらく劇としてエーレクトラーに与えられている役割・意味は、「悪い母親」のかわりになる「新しい母親」であり、彼女のほうが「正しい」という意味で「本物の母親」だということではないかと思われる。息子が父親を殺す場合、一種の成長・自己実現にもなりうるのに対して、息子が母親を殺す場合は、自己の否定につながる危険性がある。エーレクトラーはその危険を避けるための代替物であり、少なくとも、復讐を果たす前の段階では、自己否定の恐怖への安全弁として働いているというふうに考えたい。新しい母親には妹よりも姉のほうがよりふさわしいだろう。(もしも妹が兄の母親たらんとした場合に、そこには何か不義の香りがただよい始めはしないかという懸念がする。)

 

 二人の再会で面白いのは、弟があらわれたという幸せをすぐには信じられない姉と、自分がまちがいなく弟だと言うオレステースのやりとりが、まるで口説き口説かれる男女の台詞のようにも思われるところだ。

エーレクトラー じゃあ私が、いったいどんな人間を、呼んでいたと思い込んでおいでなの。

オレステース ええ思ってますとも、オレステースにすっかりあなたは夢中だって。

エーレクトラー それでいったい、どんなお祈りが真になったっておっしゃるのです。

オレステース ここにいますよ、探してもだめです、私より親身な者を。

エーレクトラー まあ、きっと何かのぺてんにあなたは、私をかけようっていうのね。

オレステース じゃあ、僕は自分で自分に、企みごとをしかけてるわけです。

エーレクトラー そんなら、私のみじめな身の上を嘲笑おうってつもりでしょ。

オレステース じゃあ私の身もですよ、もし仮りにもあなたを、っていうのなら。 

 (以上を引用したからといって、何も姉弟が恋人的であるといいたいわけではない。ただ、ここから分かるのは、愛の告白が(特にそれを受ける側があまりに受け身的であるとき)「説得」(口説くという言葉からしてすでに明らかだが)めいてくるということであり、誘惑は「勧誘」めいてくるということである。つまり、あまりに受け身な「恋人」からは、告白者は詐欺師めいて、それこそぺてん師めいて見えるだろうという余談である)

またもや停滞する物語

 それから、姉と弟とコロスによる長くてゆったりとした会話と歌のやりとりがある。物語はまた、やはり遅々として進まない。このゆったりとしたやりとり、会話と歌によって、復讐の気分は少しずつ少しずつ、しかし確実に盛り上げられていく。

 読んでいて可笑しいのは、オレステースが自分に抱きつこうとする姉を制して、

みな心に包みかくし、嬉しさに取り乱しなどなさらないで。いちばん親しいはずの者が、私たち二人にとっては、ひどく意地悪なんだというのをわすれずに。 

 と諭していながら、墓の前で長い台詞を交わし合い、その様子を見て今度はコロスが

でも、ちょっと、あなた方お二人は、お父さまのお家を建て直す方なのですから、気をつけて静かになさいませ、もしまた誰かが話を聞きつけ、そうでしょう、お喋りのはてが、今のことをみな威権を執ってる方に報せでもしたらたいへんですから 。

 と注意した後に、「ゆったりとした会話と歌のやりとり」と上で表現した場面が延々とつづくことである。これはつまり、劇の要請として、この場面で復讐への気分を盛り上げるために充分な台詞と歌が必要だが、 アイスキュロス的な(高次模倣様式の)悲劇のリアリティラインにおいても、暗殺の謀議をおおっぴらに声張り上げてしているのはまずい、という「常識」が働くために、あらかじめこのように言っておくのである。ただし、一度指摘してしまえば、あとは気にしなくてもかまわないものらしい。

 父王の墓の前での、姉弟、それからコロスを含めたやりとりの内容で興味深いのは、オレステースが自分の意志だけで復讐を決意したのではなく、アポロン神に脅されて、むごい境遇におちいり悲惨な死をとげるのを避けるためにも、母親殺しを行うのだと告白している点で、この設定のために、オレステースの悲劇的主人公としての格がやや落ちてしまうように感ぜられることである。例えば、第一部でのクリュタイメーストラーが持っているような「偉大さ」をオレステースは持っていない。ノースロップ・フライの言葉をまた借りれば、『悲劇は、恐ろしい正当さの感覚(「英雄は倒れなければならない」)と、不当さに対する憐れみの感覚(「英雄が倒れるのは可哀想だ」)の組み合わせである』といううちの、「英雄は倒れなければならない」という感覚を減じさせている。ただし、そのためにオレステースは第三部によって、救われるという結果が可能になるのである。

 もう一点の興味深い内容は、オレステースとエーレクトラーが、父に対してはこの上もなく同情的であるのに対して、母に対しては、ほとんど憎しみしか持っていないことである。エーレクトラーにいたっては、わざわざイーピゲネイア(父アガメムノーンによって生贄にされた姉)について触れていながら、母を憎み、父への復讐に弟を駆り立てる。順番が違えば、もしくは神託が気まぐれを起こせば、自分たちが父親によって生贄にされ、殺されていたのかもしれないという発想は全然出てこない。ここでも、悲劇はただ一方向に登場人物の言動・思想を強制している。本劇において、オレステースとエーレクトラーは、王(アガメムノーン)と王妃(クリュタイメーストラー)の子供というよりも、アトレウスの孫としての性格を強く持っているのだと言えるだろう。だからこそ、アトレウスの血筋を(またも)殺して権力を奪ったテュエステースの子アイギストスと、彼に密通してクーデターに荷担したクリュタイメーストラーは(彼女による夫殺しの理由の如何に関わらず)討たれなければならないのである。

敵意が敵意といまぶつかろう、彼奴(あいつ)らの正義と、われわれの正義とが。

 オレステースの台詞にある、二つの敵意と、二つの正義とは、二つの呪われた血筋によるものなのだ。

 アトレウスの血筋でもテュエステースの血筋でもないにかかわらず、物語において中心的人物の一人として存在するクリュタイメーストラーは特異な存在といえよう。

 

ホメーロスの影

  アイスキュロスが自身の作品を「ホメーロスという大層な饗宴からの切身、肉片」と考えていたというエピソードを信頼するという前提で、『供養する女たち』は『オデュッセイア』を相当程度下書きにして書かれているように思われる。

 二人とも復讐者として帰国し、別人に身をやつして、敵が「実効支配」している自らが所有するのが正当な館にもどる。オデュッセウスは帰国後に女神アテーネーの助けを借りるが、本劇でアテーネーに相当する登場人物にあたるのは、姉のエーレクトラーだろう。オデュッセウスと共に求婚者を殺す息子テーレマコスに当るのは、劇内でほとんど何らの行動をすることなくオレステースにつきしたがっているピュラデースである。復讐者の乳母が登場するのも同じだ。

 『オレステイア』が悲劇でありながら、第一部ではクリュタイメーストラー、第二部ではオレステース(そして第三部ではコロスであるエリーニュスたち)という復讐者が劇の中心にいるのも、『オデュッセイア』を下書きに、参考にして作劇をしたからではないかと思う。

 

 

復讐

 オレステースはコロスから母が見たという夢の内容を聞かされる。クリュタイメーストラーは夢の中で、大蛇を生み、乳房を与え(蛇に噛まれたために)血を流したのだという。もちろん、大蛇はオレステースである。悲劇の中の夢見は、それが「悲劇的主人公」にとって凶兆であればあるほど、確実に現実になる。

 オレステースは、よそ者に身をやつす。計略をもって復讐を果たすのは、第一部の母による王(夫)殺しの反復である。「オレステースの死」の報せ(偽報)をたずさえ、母をぬか喜びさせるのである。もちろん、クリュタイメーストラーは表向き(台詞上)は深く悲しんでみせる。

 アイギストスが館に到着し、間もなく殺される。殺害の現場は観客には見えない。ただ彼の叫び声、断末魔が聞こえるのみである。アガメムノーンが殺されたときと同様に。第二の復讐は、第一の復讐を律儀になぞろうとする。男が殺されたなら、次は女である。クリュタイメーストラーはそのことを理解している。

クリュタイメーストラー どうしたことです、何の叫びを立ててんのです、館でもって。

小姓 生きてる方を、死んでいる人が討ったというので。

クリュタイメーストラー とうとうね、わかりましたわ、その謎かけの言葉が。企みでもってやられようってのね、ちょうど私たちが前に殺(や)ったと同じに。 

  第一部にないのは、オレステース(復讐者)とクリュタイメーストラー(被害者)の殺し殺されると互いに理解してから交わされる台詞のやりとりである。衣を裂いて、乳房を露わにし、命乞いをする母の姿には、けれん味たっぷりの芝居が期待できるだろう。当然、オレステースは母を許すわけにはいかない。

してはならない人を殺した、その上は、あってはならない罰をさあお受けなさい。

 という言葉と共に、母を追って館に入る。

 再び姿を見せた復讐者の足元には、男と女、二体の骸が重なっている。「あの時」とそっくり同じように復讐はなされた。まさしく「応報の掟」にしたがって。

 けれども母を殺した息子には、夫を殺した妻のような「英雄的」な感じ、「悲劇的主人公」にふさわしい感じ、すなわち(フライが言う)『恐ろしい正当さの感覚(「英雄は倒れなければならない」)』が弱いように思われる。

 『いろいろと先ほどその場に応じて言った言葉に、いままた反対のことを言うのも、私は別に恥だと思いますまい。』といってのけた高慢極まりないクリュタイメーストラーとはちがって、オレステースは何よりもまずはじめに正義を口にする。この自己正当化は、空々しいものにしか聞こえない。なぜなら、クリュタイメーストラーが悪人ならば、アガメムノーンもまた悪人であり、呪われた一族の間で繰り返される殺人には、正義などはじめから存在しないからである。オレステースは、クリュタイメーストラーが到達したような「高さ」や「偉大さ」を一度も達成していない。

 ただし「悲劇的主人公」として弱いということは、「倒れなければいけない」という感覚をさほど与えないということである。第三部において、オレステースは復讐の連鎖から逃れることになる。(もしも、第二部において、裁判が行われ、クリュタイメーストラーが許され、復讐の連鎖から救われるとするならば、どうしても、ちぐはぐな感じ、倒れなければならないものが、倒れないままで残ってしまったという感じを、観客(読者)は抱かずにはいられないだろう。)

 だからこそ、たとえそれが空しく、悲劇的英雄の姿から遠くとも、オレステースは自らの正義を主張しなければいけないし、復讐の最も大きな動因が、アポロンからの神託だったとして、自己の責任を回避しなければならない。

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 オレステースは、「悲劇的主人公」らしからぬ「悲劇の主人公」として、第三の復讐者エリーニュスに追われて舞台から去って行く。

 第一部がそれ単独でもなんとか成り立つような、一応の区切りを持っていたのに対して、第二部は、自らを前半部と位置づけるかのように、そのまま後半の第三部へと続いていく。