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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

オレステイア三部作『アガメムノーン』アイスキュロス──ギリシア悲劇を読む第三回

 テキストは引き続き人文書院ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇より。訳者は呉茂一。

登場人物と前置き

物見の男

コロス アルゴスの長老(おとな)たちより成る。

報せの使い

クリュタイメーストラー アルゴスの王妃。

タルテュビオス 伝令使。

アガメムノーン アルゴスの王。

カサンドラー トロイアの王女。いまは俘虜(ふりょ)としてアガメムノーンに侍する。

アイギストス 王の従弟で王妃の情人。

 

場所 アルゴス城王宮の前、奥の扉口にはいくつかの神像、その前に祭壇をしつらえ、下って会議の場席。時は晩秋の夜明け前。

  オレステイア三部作を読むためには、タンタロスの呪われた家系について基本知識を仕入れておいたほうがよい。ということで前回「オレステイア三部作」のための、まとまらないまとめ「呪われた一族」──ギリシア悲劇を読む予習編 でまとめるはずが長くなってしまったので、ここにもう一度簡略化し、箇条書きでまとめておこう。

タンタロスはオリュンポスの神々を招いた饗宴に、わが子ペロプスを切り刻んだシチューをだし、神々の怒りを買って奈落(タルタロス)に落とされる。

ペロプスはゼウスの命令で神々により復活するミュルティロスの裏切りにより、戦車競争で勝利し、オイノマオスの娘ヒッポダメイアを妻とする。オイノマオスは死の直前にミュルティロスを呪う。ペロプスは「王国の半分と妻の初夜を与える」という約束を破り、ミュルティロスを上空から蹴落として殺す。死の直前、ミュルティロスはペロプスとその一族を呪う

・ペロプスとヒッポダメイアの子に、アトレウスとテュエステースという兄弟がある。母ヒッポダメイアは、アトレウスとテュエステースを教唆して庶子クリューシッポスを殺そうとする。一説には、このときアトレウス、テュエステース兄弟は父から相争うように呪われる。

・アトレウスとテュエステースはミュケーナイ王位をめぐって争う。テュエステースはアトレウスの妻アーエロペーと姦通、金羊毛を手に入れ王位を奪うが、ゼウスの介入により挫折、アトレウスが王となり、テュエステースは追放される。

・妻を寝取られたアトレウスは、和睦といつわりテュエステースを呼び出し、テュエステースの子供たちを殺し切り刻んで、父親に食わせた。

復讐を誓うテュエステースは、神託に従い、顔を隠して娘ペロピアを犯しアイギストスが生まれる。アトレウスはペロピアを見初め妻とする。アトレウスの子アガメムノーンメネラーオステュエステースを探し連れ戻して投獄する

アトレウスアイギストステュエステースを殺せと命ずる。アイギストスは実の父がテュエステースだと知る。ペロピアは自害する。アイギストスは伯父アトレウスを殺し、父テュエステースを王に復位させる。

アガメムノーンは弟メネラーオスと共に逃げのび、のちにスパルタ王テュンダレオース(娘にクリュタイムネーストラー)の力を借りて、テュエステースを追放した。

クリュタイムネーストラーの初婚の相手はタンタロス(テュエステースの子、アイギストスの兄)である。アガメムノーンは、タンタロスを殺しその子供を殺しクリュタイムネーストラーを妻とする

トロイア遠征出発前、総大将アガメムノーンの傲慢によってアルテミスの怒りを買い、逆風ふきやまず出航できない折、預言者カルカースは「娘イーピゲネイアを生贄」にするよう神託をさずけた。アガメムノーンは、妻と娘に、アキレウスとの縁談があると偽って呼び寄せ、娘を贄にして殺した。

 

 かなり簡略化したが、それでも長い。長いということは、それだけ因縁があるということである。「オレステイア三部作」は、このタンタロスの家系の「罪と呪いと復讐の錯綜した連鎖の果て」に始まるのである。クリュタイメーストラー(クリュタイムネーストラー)はただの姦婦ではない。アイギストスはただの間男ではない。もはやこの連鎖の前には正義も道徳も存在しない。という認識のもとに本文を読んでいこう。

 

物見の男

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 彼は王宮の屋根の上に現れる。彼は何者だろう。名前のない一兵卒か召使いの一人であろう。彼は待っている。もう丸一年もの間、遠い松明の合図を、その火が灯されるのを。館の主人アガメムノーンが総大将として赴いたトロイア戦争において、都を攻め落としたという報せの合図を待っているのである。

 彼の言葉を借りれば『一人の女が、男のようなたくみを謀る、心にそれと設けて指図をされた』からだ。女とはアガメムノーンの妃クリュタイメーストラーだ。彼の苦労には同情するが、しかし妻が夫の帰還をはやく知りたいためだというのなら、どうしてこの物見の男は『眠りの代わりに、恐さがいつも付添うてる』ような気分で『このお館の不仕合わせを、溜息まじりに泣いて』いなければならないのだろう。『昔のように、申し分なく運んでいるとはいえぬ』とは、アガメムノーンが帰りさえすれば解決する問題なのだろうか。

 その答はすぐにでる。ついに、合図の火が燃えるからだ。夜明け前の遠くの空が明るく照らされるのである。男は『ほうい、ほうい』とよびかける。奥方さまに一刻もはやくお起きなされとよびかける。それは『この火の番の賽(さい)の目が上乗に、三つとも六と出た』というくらいに最高吉の縁起良い、喜びにあふれていなくてはならない出来事のはずである。長く出征のため館を留守にしていた主人が、戦に勝利してこれから帰ってこようというのだから。ではなぜ、男は黙りこくって考えにふけらなければならないのだろう。どうしてすぐに館中にふれまわらないのか。それも彼の台詞から察するほかない。

 ではまず、館に殿様がお帰りなされて、そのなつかしいお姿にこの手でもって挨拶がかないまするよう。ほかのことは何も言うまい、でっかい牛が舌の上に乗ってしもうた。この館自身が、もし声を出せたならば、すっかりとしゃべるだろうよさ、何もかも。いや、知ってる者には、私の文句も十分解るつもりだが、知らぬ者には、内証(ないしょ)、内証。(退場)【牛が舌に乗る、とは「自由にものが言えない」の意】

  彼は知っている。何事かを知っている。一体、何をどこまで知っているのか。彼はすべてを知っているはずである。劇において「物見の男」に託されている役割は、前口上にあたる。たとえば古典的な喜劇において、あらかじめあらすじを教えてくれるような前口上と同じような役割をになっている。しかし、物見の男は、それをほのめかすだけである。「知ってる者」とは誰のことだろうか。少なくとも、ギリシアの観客は「アガメムノーン」の運命を知っていた。物見の男が、前口上の役割をになっているとするならば、劇における機能として、彼は単なる一兵卒や召使い以上の存在である。彼の真の姿、何者かが彼に身をやつして分不相応な言葉を語らせているとするならば、それは、作者の分身か、神々のうちの誰かか、そうでなければ悪魔である。

アガメムノーン (岩波文庫)

アガメムノーン (岩波文庫)

 

 

物語進度の緩慢

 館に灯りがともる。よろこびの声がする。コロスが登場する。アルゴスの長老(おとな)たちからなるコロスである。

 コロスが物語るのは、トロイア戦争出征時のエピソードである。コロスの語りは長い。一旦、姿を見せたクリュタイメーストラーに向かって、『何かの便りをお信じなされ、布令を廻して贄(にえ)の祭をなさいましょうとか』と問いかけた後も長い語りをつづける。なぜなら『語るのは 私たちのまさしく務め』だからである。

 内容は預言者カルカースの二つの預言についてである。一つは、黒鷲と尾の白い鷲が、仔を孕んだ兎が巣に入る直前につかまえて食べた姿を見てした鳥占いで、兎を食う二羽の鷲をアガメムノーン、メネラーオスの二将にたとえ『この遠征軍はプリアモスの都を攻め陥そうが、またその城塁(とりで)の前で、沢山な公けの財物(たから)も、みんなむりやり、運命により奪われよう』と言ったいう。もう一つは、アガメムノーンの傲慢により、アルテミスの怒りを買い、逆風を受けて船出がかなわぬようになった折、娘イーピゲネイアを贄にすれば風はやむとした預言である。

 コロスの語りで注目したいのは、イーピゲネイアの贄に関して、『頒(わか)ちもならぬ、肉親間にいさかいをつくりだしては、夫(つま)を恐れぬようにするもの。怖ろしや、まだ今も絶えず家に執りつき、執念ぶかく子の仇討ちをたくむ心の その怨念にはなお変りがない(とカルカースが言った)』『(アガメムノーンが)こう余儀なさのくびきをつけては、神をおそれぬ、浄からず、神意にもとる、心持ちへと、風向きを変え、(略)美(きよ)からぬ企らみごとは 人間を向う見ずにもするものゆえ、惨めな不幸の 源をなす思い違い』という台詞で、これを見るに、またこのあとの台詞でも幾度もほのめかすように、コロス(長老たち)もまた、物見の男が言った「知ってる者」であると思わなければならない。ただし、コロスたちは、悪魔のようには知り尽くしてはいない

 コロスは悲劇の前兆(凶兆)もしくは源に心当たりがないではなく、不安を持っているようだが、むしろそこから目を背けようとする。

未来のことは、起ったときに

いつか聞けよう、それまでは構わぬがよし。 

それは前から歎きを もとめるのにも等しいこと。

いずれは朝明(あさけ)の 光とともに はっきりしようから。

さしせまってのところは、事が都合よく 運びますよう、

 というように。この台詞が、単に戦争の勝利と主君の帰還について語っているとするならば、『前から歎きをもとめるのに等しい』という言い様はいかにもふさわしくない。

 

 やっと王妃クリュタイメーストラーが王宮の前にあらわれ、コロスと会話を交わす

 コロスは再度、王妃に何の布令をしたのかと問い、王妃は、トロイアは陥落しギリシア軍が勝利したと告げる。老人たちは喜ぶが、疑い深い。証拠を見せてくれと言うのである。王妃は、自らが差配した松明と狼煙のリレーを非常に詳細に語って説明する。コロスは礼を言ってから、もう一度詳しく説明してくれと言う。王妃が次に語るのは松明のリレーについてではなく、陥落したトロイアの都の様子を想像して語り聞かせるのである。

 クリュタイメーストラーは、勝利したギリシア軍の兵士たちの行動を心配してみせる。

というのも、これから故郷へ無事に帰り着かねばならぬ、往きと戻りの馬道二つ、まだその片方が残っているのだから。それによし軍勢が、神々に罪を犯さず戻ろうにしろ、殺された者らの苦しみは、絶えず覚めてはつきまとうもの。たとえ急には禍いが起こらないでも、いつか来ぬとは限るまい。 

  ここで言う『殺された者ら』というのは、素直に聞けばトロイアの人々である。しかし、われわれは容易に、クリュタイメーストラーがこの時自分の言葉に何を連想し、どんな意味を含めていたかを読み取ることが出来る。コロス(長老たち)にとっても、たやすいはずである。

 クリュタイメーストラーは王宮に姿を消す。

 コロスがまたも長々と語る内容を呉茂一氏の解題から拝借すれば「傲りと暴慢とがやがてはかならず破局をもたらすことを、人はただ苦悩によって学ぶことを、行為にはかならず報いのあることを」歌う、となるだろう。『一番よいのは、ほどほどなこと』であり『高みはとかくゼウスの雷(いかずち)に打たれるならい』なのだ。

 しかし、裏をかえせば、悲劇の主人公らしくあるためには、衆に抜きんでて優れた、存在の大きな、高みにある何者かでなければならないということである。

 ここまでで原典1700行弱のうち500行を費やしている。劇内で起こったといえる出来事は、トロイア陥落の合図の炎があがったいうだけで、そこからほとんどまったく進んでいない。なにゆえに、こうまでのろくさしているかといえば、本作『アガメムノーン』という戯曲内で起こるのは、つまるところ『王が帰ってきて、王妃に殺されるということだけだからだ。ゆっくりと進めなければすぐにも第一部が終わりかねないからである。こういう緩慢さが成立するのは、ギリシア悲劇の台詞が韻律をもった歌であり、コロスが合唱歌舞隊であるからだろう。(カッコをつかって余談をするが、日本語訳で「読書」する場合、本作に限らずコロスのパートが読みをつかえさせることがあるのは致し方ないように思う。レビューを書こうとしなければここまでコロスのパートを読み込もうとはしなかったし、ギリシア悲劇の初読時にコロスのパートを斜め読み的に読んだことが幾度もあったと告白しなければならない。もっとも、そこで読書が中断するくらいなら斜め読みするのも一つの手段であるようにも思うのだが)

 長老たちは、この場面の最後で互いに言葉を交わし合うが、それはまだトロイアの陥落を信じられぬという会話で、『女心の うっかりと一途に信じた その布令(ふれ)は早々に拡まってゆく。さりながら 女が布令る噂というのも 早々に消え失せるもの』などと言って、王妃の言葉を疑っている。こういう態度が、現代では政治的に正しくないとかいうことは無視して、われわれはただ、こういう老人達の「頑迷」な態度が、次に登場する「伝令」の呼び水になっているということを確認しておこう。

伝令

 伝令は、アガメムノーンの帰還をしらせ、その前触れをつとめる。現実には、今戦争が終わったばかりで、その日のうちにトロイアからアルゴスへ帰還できるわけはないが、いわゆる「三一致の法則」のうちの「時の一致」(一日の劇内時間のうちに演じきる)にかなう構成にすることで、このあまりに緩慢な運びの悲劇に一種の「速さ」をもちこみ、劇的な緊張をもたらしているように思われる。

 伝令は、コロス(長老たち)の疑いが、間違いであり、真実トロイアが陥落し、勝者として王アガメムノーンが今しも帰るということを立証する存在だが、伝令が歓喜と興奮にまかせて勝利と帰還を長語りしたあとに、コロスの長が彼に話しかける内容は、少しも喜びにあふれていない。

コロスの長 どんなにしじゅう暗い心で、私らは嘆いてきたことか。

伝令 何がもとでそう気を暗くする不機嫌が、あなた方を襲ったんです。

コロスの長 ずっと前から黙っているのを、災難よけの薬にしているのだが。

伝令 それはまたなぜです。殿様方が不在のあいだ、誰かをおそれていたのですか。

コロスの長 今も今、あなたが言ったとおり、死ぬのが、さあ、ずっとありがたいくらいだ。

 『誰か』とは何よりも王妃クリュタイメーストラー (に加えるならアイギストス)しかありえない。コロスはやはり「知っている」とこの場面からも言えるだろう。伝令は、ほぼ事実にせまりながら、しかし、凱旋の兵士の楽天さから、遠征中の苦しさと、しかし勝利によってそれも十二分に報われたと言うことを語り、コロスの長の「不安」を一蹴してしまう。

 コロスの長は『いかにも、あなたの論議に負けたことは認めましょうよ』と簡単に「自説」をひっこめてしまう。それどころか、あろうことか『この報せは、館の人ら、とりわけてクリュタイメーストラーに大切なことであるはずだ』と、おそれていた誰かであるはずの王妃を、台詞によって呼び出してしまう。

 コロスは機能として、悲劇を促しこそすれ、その流れに逆らうような行動を許されていない。

 

 王妃クリュタイメーストラーは一語りしてすぐにまた館の中へ消える。が、その語りの中には興味深い台詞がいくつかある。彼女は、自分がなした『男のようなたくみ(物見の男の台詞)』である狼煙の合図が、戦の勝利と王アガメムノーンの帰還をあやまたず示していたことを誇って言う。

そのとき誰かは私を咎めてこう言いました。「狼煙 (のろし)の見張りに説得されて、お前はトロイアがもう陥落したと思っているのか、いかにもまったく、女心にふさわしいことだ、そう得意になるというのは」と。

 ここに示されているのは、クリュタイメーストラーという存在が、古代世界においてあなどられていた「(常なる)女性」というものを、はっきりと越え出ているということに思われる。

 王妃はまた言う。

こう殿にお伝えしてくれ(略)してお帰りの上館の中に、まめやかな妻をごらんのようにと。いかにもお出掛けの折と、まさしく同様まめやかな、館の番犬、あの方にはまめやかで、 仇の人たちには手きびしい女を。でもほかのところには、いささかも変っていず、かたい符印(しるし)も、この長い年月のあいだに、ちっとも破ったことはない。またあだし男に享楽(たのしみ)を求め、悪い噂を立てられるなど、 青銅(からかね)の焼き入れ同様、私のてんでしらないことだ、と。

  テキストには『あの方』に訳註をつけて、『「あの人、あのこと」、じつは自分の復仇心を指していっているもの。つまり、原語には二通りの意義があり、素直に聞けば「あの人アガメムノーンにまめやか」だが、その実、「あのこと(復讐の殺害計画)にまめやか」だという意味を含んでいるというのだ。ただし、われわれはもう一つの意味を付け加えることもできるだろう。すなわち、「あの人アイギストスにはまめやかで、仇の人たち(アガメムノーンとカサンドラー)には手きびしい女」という意味である。

 王妃を見送ってコロスの長は言う。

[伝令に向かって]王妃はあのように言われた、それははっきりとした解釈によって考えなされば、いかにももっともな話の筋と思われよう。 

  この台詞から分かるのは、王妃の言葉には別の解釈もありうるということであり、その場合、「いかにももっともな話の筋」から外れてしまうということである。明らかにコロスはすぐ上で確認した、クリュタイメーストラーが含ませた言外の意味を知っているのだが、コロスの長は、またもや話をそらし、伝令にメネラーオスがどうしたかを教えてくれと問いかける。

 伝令がギリシア軍をおそった嵐について語り、コロスが例の「説教くさい」語りをおこなったあとに、ようやく王は帰還する。

 

アガメムノーンの帰還

 王はトロイアの王女カサンドラー(カッサンドラー)をともなって帰還する。

 まずはコロス(長老たち)が出迎えの挨拶をする。それに続く内容は、一種の誣告(告げ口)だが、あまりにも曖昧で、まわりくどいために、なにやら言い訳がましい響きがする。ここでも、またそれまでも、コロスがする「説教」は、ヘレネーを引き合いによく出す。ヘレネーはトロイア戦争の原因なのだから、彼女に言及することは不自然ではない。ただし、ヘレネーが女であり、クリュタイメーストラーの妹であることを思えば、暗に指し示そうとしているものがあるようにも思われてくる。しかし、そうだとしても、コロスははっきりとは王妃を弾劾しない。アルゴスの長老たちには、悲劇を止めうる知識と能力と機会が充分に与えられていると感じるが、彼等はこのあともずっと手をこまねきつづける。「言い訳がましい響き」というのは、おおよそそのあたりについての感想である。

やがておいおい よくお取りただしになりませば、市民のうちの

誰が正しく国を守ってきたか、または誰が

宜しきを得なかったかを、おさとりになられましょう。 

  「おいおい」では遅いのだが、とはいえ、この時点で王妃が今日すぐに凶行におよぶということまで長老たちに予想しろというのは酷ではある。長老たちを「批判」するのは、もう少しあとにゆずろう。

 

 戦いに勝って帰ってきた者は楽観主義に染まりきっている。アガメムノーンの心にあるのは、神々への礼節ばかりだ。もちろん、それはよろしきことではある。けれども、みずからの命を狙う仇敵が、いそいそと出迎えに顔を見せている。

  クリュタイメーストラーの言葉は過ぎるほどに真っ当なもので、これぞ貞女にして賢妻の鑑、彼女とくらべれば、オデュッセウスの妻ペーネロペーも色褪せようというほどに見事な口上である。侍女(こしもと)に命じて、王城へ入るために夫が踏み進む紫の敷物を用意するのも、戦勝にわきたち夫の無事な帰還をよろこぶ妻の心づくしと考えれば、ほほえましいもてなしとも言えよう。(もっとも、王を迎え入れる自身を、羊を小屋に迎える犬にたとえる部分には、われわれの目からすればもちろん、当時のギリシアにおいてもアイロニーだったのかもしれない)

 けれども、王は神々と民衆の嫉妬をおそれて敷物を踏もうとしない。王妃はぜひにすすめ、やさしい押し問答があったあとに、王は裸足になって紫の敷物を踏み館に入る。

 もちろんこれは王妃クリュタイメーストラーのであって、それは彼女の台詞から、容易に読み取れる。

 海がある──その海を誰が干しつくせよう──その奥にはいっぱい、あの黄金にもひとし(く貴)い紫貝を貯めている、ぞくぞくと噴き出す真紅の液(しる)の、あの着る衣を染めなす色。 (略)いくらでもどっさりと、そんな衣を、足でふむ敷物に献げましたろう、もしこの、いとしい命を取り返す工夫を凝らしていた折、ご神託をいただくお宮で、私にそうお指図がありましたら。

 『ぞくぞくと噴き出す真紅の液の、あの着る衣を染めなす色』とはをあらわしている。ほかの誰でもない夫アガメムノーン王の血である。

いとしい命を取り返す工夫を凝らしていた折』という訳文はすこし意味がとりづらいが、表面上の意味は「アガメムノーンが戦場から無事に帰ることを祈り、それを(火のリレーによって)はやく知る」工夫であるとともに、「彼(王)を殺害する」工夫という意味を含ませているからである。

 

 今、この場所でわれわれは、あえて現代人としてクリュタイメーストラーの罠について観察してみよう。

 神話時代や、アイスキュロスが本戯曲を仕上げた古代ギリシアの価値観ならば、アガメムノーンが紫の貴い敷物を踏むという行為は、神々から見て不遜な、したがって神々を蔑(なみ)する傲慢な行いと言えるのかもしれない。

 また、血の象徴、それも凶刃を受けて流れる血と、血に染まった布をあらわす敷物を踏んで歩くという行為は、「まじない」として効果があると信じられもしただろう。

 けれども科学を信奉する(らしい)われわれの目からみれば、神々への不遜を誘う行為も、「まじない」もあまり意味があるとは思えない。クリュタイメーストラーの罠が復讐を容易にさせるとは信じがたい。たとえそのような出迎えの罠を用意していなくとも、王妃が、油断した王を後ろから、もしくは寝込みを襲えば、殺人はたやすく成就されるだろう。

 しかし、その上で──である。実質的に無意味としか考えられない、王妃クリュタイメーストラーによる紫の敷物による罠が、それでもなおかつ、現代に生きるわれわれにも、この上もなく時宜にかなって感ぜられるのはなぜだろうか? それはたぶんこういう事情からである。

文学を原型的に考えることに馴れている人は、悲劇のなかに生贄の祭儀があることに気づくだろう(ノースロップ・フライ)』

 アガメムノーン王殺しを祭儀、儀式とみれば、クリュタイメーストラーによって伸べられた血に染まった衣の象徴としての紫の敷物は、贄を祭壇にみちびく道としてこれ以上なくふさわしい、と思われる。

 王妃が王殺しを観客に「宣言」するのは、ダブルミーニング・象徴といったほのめかしだけではない。彼女は王を見送り、つづいて自らも王宮に入る間際に、こう言うのだ。

 ゼウス神、願いを果たさすゼウス御神、何とぞ私の願いを遂げさせて下さいませ。その上は遂げようとお定めの何なりとも、神慮のままになされましょう。

  貞淑な妻の願いはかなったのではなかったか? アルゴスとギリシアは勝利し、夫アガメムノーン王は無事王宮へ帰り着いたのである。クリュタイメーストラーにはまだ願いが残っている。そして、それこそが最も重要な願望である。

 

コロスの不安と非行動、カサンドラーの空しい予言

 コロスは取り残されたトロイアの王女カサンドラーを尻目に歌う。ほぼすべて不安が内容の歌を歌うのである。

 『何故にこう渝(かわ)らずに 怖れ心がつきまとうのか、先を占う私の心を 絶えず支配して』

 前回読んだ『ペルシアの人々』におかえるペルシア人の長老たちとはちがい、アルゴスの長老たちには、不安が成就してしまうのを防ぐ手立てがあるはずである。にもかかわらず、彼らは自ら一線を引いて行動者たることを諦めてしまう。『すぐ目の前で地にこぼされた 命をかける黒い血汐を』もとへはかえせず、『死者のうちから、連れ戻すのは』ゼウスによって禁じられていると言うのだ。

さればもう、とうにきまっている運命が、

私にきまった分を抑えて、よけいな

もうけを 許さないのでなかったならば、

私の心は、私の舌よりお先走りを

してのこと(気遣いな予測)を、ぶちまけたろうに。

だが今はまっ暗闇に、ただ胸を苦しめ、

間に合うように、うまく片づけおおせることも

一向望みはできないで 呟くばかり、

胸の榾火(ほだび)を 掻き立てながら。

  けれどもまだ、血は地にこぼれてはいず、彼は生きている。

 どうやらコロスは「運命を言い訳」に、自ら一線を引いて行動を制約することによって、劇内の登場人物として振る舞うことよりも、観客と寄り添おうとすることを優先し、悲劇の進展を見守り、時には促しこそすれ、歯止めをかけるつもりなどさらさらないらしい。

 クリュタイメーストラーが一人もどってきて、カサンドラーに声をかける。けれども、トロイアの王女は、アルゴスの王妃を無視するかのように口をきかない。コロスの長がとりなし、優しい言葉をかけるが、カサンドラーは沈黙を守る。愛想をつかした王妃がまた王宮内に入る。コロスの長がもう一度声をかけると、カサンドラーはやっと口を開く。もれでるのは、悲痛な声。神像をとおしたアポロンへの呼びかけである。

おととととい、ぽぽい、だあ。

おお、アポロン、おお、アポロン。 

 ……。『おとととい、ぽぽい、だあ』とは訳注に原音のまま書き起こしたとあるから、ギリシア語読みの音のそのままなのである。コロスの長だって『悲しげに』と言っているのだし、悲痛な響きだといったら悲痛な響きなのだ。せめて平仮名でないほうがよかったのではないかと思わないではないが。

 カサンドラーがその特殊能力(予言の力)によって行うのは、呪われた家系の陰惨な過去──これは主に、アトレウス(アガメムノーンの父)がテュエステース(アイギストスの父)の子供を殺し切り刻んで煮込み、テュエステースに食わせたことに言及する──を言い当て、きたるべき王妃クリュタイメーストラーによるアガメムノーン王殺し・夫殺し、また自らも殺されること、を予言することである。

 「王が帰還し、王妃に殺される」ことを本筋とするなら、カサンドラーのエピソード・シーンは付帯的なものと言えるし、カサンドラーの死は巻き添えだが、特に実際の演劇におけるカサンドラー登場シーンは、本劇の大きな見せ場、見所であろう。

 王殺しの予言について、彼女はかなりはっきりとコロスに伝える。

閨(ねや)をともにする夫を

沐浴(ゆあみ)でそそぎ浄めてから──その末をどうして言えよう。

ええ、すぐにも末に なるのだろうけど。 

 だまして殺す、その大釜の たくらみを、

今もあなたに 言ってあげてるのに。 

 なんてまあ大それた所業か、女の身で

 などなど、というように。しかもこういう予言に加えて彼女は

アガメムノーンさまの最期をごらんだろうと言うのです。』とまで断言する。

 

 コロスは『その者はどのようなエリーニュス(復讐の女神)か』と問いかけ『人の死をつたえる歎きのいたましい挽歌(かなしみうた)を 歌いあげさせるのだろう』とまで理解していながら、まるで空とぼけているかのように、『分からぬ』と繰り返し、カサンドラーによる(上に引いた)断言を聞いてからも、『いったいどんな男の手で、その惨劇は支度されてるか』と見当違いを言い続ける。

 

 悲劇にとって都合がいいのは、そして「とぼけ続ける」コロスにとっても都合がいいのは(?)カサンドラーがアポロンから予言を授けられていながら、そのアポロンによって、予言を誰も信じないという呪いを受けていることだろう。

 神の呪いが機能しているならば、コロスがいつまでも迷妄にとらわれていても仕方ない。しかし、本当にコロスは予言を信じられず、理解できないでいるのだろうか。

 そうであるとするならば、カサンドラーが殺されるために王宮へ入るのを見送ったのち(無垢の被害者として観客の哀憐と同情を一身に集める彼女は、たとえば後代のオフィーリアを思い起こさせる)コロスが歌い上げる「感動的」な台詞は、どのようにして可能なのだろうか?

さればこの殿に、幸(さき)わう神々たちが、プリアモスの都を

攻め取ることを ゆるしたまい、かくて尊いほまれを受けて、

故郷にかえりお着きなされた。しかもこんどは 昔の人らの

流した血汐のつぐのいをして、

おのが死を過去の死者らにつけ加え、こうして他の、

断たれた生命の報復(しかえし)をしも 成就させるとき、

人間の身の、誰あってこう聞きながら、不幸を知らぬ

運命(さだめ)に(自分が)生れたなどと誇り得ようぞ。

 

復讐の成就 

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 ノースロップ・フライは『悲劇がわれわれを運んでゆく先は律法、つまり、現に存在し、存在しなければならないものの顕現なのである』と指摘した後に『もっとも基本的な形をとった場合、法(dike)の概念は「応報の掟」(lex talionis)つまり復讐として作用する。主人公は敵意を惹き起こすか、あるいは敵意にみちた状況をうけつぎ、そして、復讐者の帰還が大詰をつくり出す。復讐悲劇は単純な悲劇の構造をしており、大方の単純な構造に共通して、きわめて力強いものであり、もっとも複雑な悲劇のなかでさえも、しばしば中心的な主題として残っている。こういう場合、復讐の原因になった、そもそもの行動は、それに対立し、しかも、それに対応する運動をつくり出し、この運動が完成するとともに、悲劇は解決される』としている。

 アトレウス・テュエステース兄弟とその族の間で行われる一連の悲劇では、悲劇の構造があまりにも力強すぎるために、運動(復讐)が完成してもなお、それ自体が次の原因になり、幾度も幾度も繰り返される。

 本劇ではしかし、帰還するのが復讐者ではなく、復讐を受ける側だという点で典型から乖離している。劇内におけるアガメムノーン王の「弱さ(あまりにも薄い存在感)」はその点にも由来するように思われる。本劇内における彼といえば、ただ仕掛けられた罠にむかって無邪気に飛び跳ねてくる兎と変わらない印象しか残さない。

 

 凶行すなわち殺害の現場は、舞台裏で起こる。アガメムノーンは叫び声をあげ、二度、台詞で、切られたと教えてくれるだけで死んでしまう。

 コロスが交わす会話(即席の評定)は、これまでの彼らの「手をこまねき続けることによって悲劇を導く」態度を、最後の最後にまた改めて確認させてくれる。

 ただし、それまでのコロスが、あくまで合唱歌舞隊という性格にこだわり、登場人物的であるというよりは、観客に近い位置から観客と共感し、他の登場人物の台詞や行動を、悲劇に沿うようにうながそうとするかのような存在であったのに対し、運動の完成後は、登場人物的に劇内に関与しはじめる。

  一つには復讐が成就し、本作における悲劇構造が成立したために、コロスは登場人物たちを悲劇の方向に「そそのかす」という仕事から免れるためであろう。もはや、登場人物はクリュタイメーストラーとその情夫アイギストスしかいない。もう一つは、登場人物に性格を同じうする二人しか残っていないために、彼等の対立(人)物としての仕事(機能)を新たに負わねばならないからである。

 

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  王妃クリュタイメーストラーが姿を現す。足元にはアガメムノーン王、カサンドラー、二つの死体は、血に染まった衣の上に倒れている。この時

 いろいろと先ほどその場に応じて言った言葉に、いままた反対のことを言うのも、私は別に恥だと思いますまい。

と彼女が言い切るとき、クリュタイメーストラーは、「禍々しさ」をいくぶんか身にまとうのは避けられないとはいえ、本劇の登場人物のうち、誰よりも英雄的であり、劇世界の中心に位置しているという感じがする。本劇の「悲劇的主人公」の立場であるアガメムノーンの影の薄さは、三部作を通してみたときに、復讐者であったクリュタイメーストラーが、その復讐が成就したために、次作では復讐を受ける側の「悲劇的主人公」をかねるという事情にもあるだろう。

 復讐が連鎖する『オレステイア』三部作では、次作の冒頭から息子オレステースが復讐者の地位を母から譲り受け、その成就とともに、復讐を受ける「悲劇的主人公」を譲り受けることになる。

 したがって、劇世界の中心は、はやくも移動をし始めており、上に引用した台詞のすぐあとに発せられるクリュタイメーストラーの

 こういうわけゆえ、アルゴスのここに集った年寄り方、喜んで下さい、もしお喜べならばね。私としては大得意なのですから。

 という台詞では、復讐をなす(なした)英雄としての「偉大さ」は相当程度うすれているように感じられる。なるほど、ここには「高慢」と「過誤」と「掟から外れている」という点で、悲劇的主人公にふさわしい性格が満たされているとは言えるのだろうが、悲劇はすでに次の復讐者を中心として選んでおり、クリュタイメーストラーには、「けちな悪漢」じみた卑小さがただよいはじめる。

 そのためには、登場人物としての性格を強めるため劇内に一歩踏み込んだコロスたちが仕事をする。アルゴスの長老たちは、クリュタイメーストラーを非難するのである。もしも、コロスがアルゴスの長老たちではなく、たとえばアルゴス王宮の侍女たちであって、イーピゲネイアを生贄にした王を嫌悪していたとすれば、三部作は継続性を失って断絶し、第一部は、女傑・英雄としてのクリュタイメーストラーの復讐劇となってしまったことだろう。その時には、紫の敷物による「まじない」のシーンもいくぶんか改変され、クリュタイメーストラーの背後にちらつく「魔女」の影も抑えられていただろう。

 アイスキュロスはもちろんそのようには書かなかった。アルゴスの長老たちは、クリュタイメーストラーを非難し、その復讐を絶対に許容しない。

 クリュタイメーストラーが持ち出す、娘イーピゲネイアの生贄や、夫アガメムノーンの度重なる不倫行為は、相当程度彼女の行為(復讐)に根拠を与えてもよさそうにも関わらず、それが復讐の後になって持ち出され、コロスの常識的な非難・批判に答えてなされるために、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

 その上に、アイギストスという情夫の存在がある。不倫は現代でも褒められた行為ではないが、神話・古代のギリシアでは、男性である英雄が、妻を何人持っても許され、戦勝の報賞として女性を得ても無邪気に喜んでいられたのとは反対に、妻が夫以外の男を持つことは許されなかった。

 クリュタイメーストラーにとって、アガメムノーンが初めての夫タンタロスを殺した憎い男であったという「事実」、またアイギストスはタンタロスの弟であることから、アガメムノーンよりも親しい感情を起こしやすいかもしれないという可能性・「事実」は劇内では触れられていない。

 劇内でのアイギストスは、姉を母にもつことで、復讐を望む呪いによって生まれ、その復讐を見事に果たした英雄としてではなく、単なる間男として、クリュタイメーストラーとともに貶しめられている。それがはっきりと分かる彼の台詞はこういうものだ。

欺すというのは、むろんはっきり女の仕事と決まっている。

 

 悲劇は、さらなる復讐を、正義として望んでいる。コロスは第二作への橋渡しを、これもはっきりと行っている。

 ほんとうに、オレステースさまが、どこなりで日の光を仰いでおいでで、この国へ帰って見え、恵まれた仕合せにより、この二人をとりひしぎ、殺してしまって下さるように。

  オレステースは母クリュタイメーストラーの意向で伯父に預けられているというのだから、こういう台詞をアイギストスとクリュタイメーストラーの前で言うのは、「リアリズム(低次模倣様式)」の世界では、大変に危険で愚かな行為である。

 しかし、典型的な高次模倣様式の悲劇は、リアリズムに汚染されない。

 悲劇は準備万端、新たな英雄、新たな中心、新たな復讐を待ち望んでいる。

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

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