人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「黄金の驢馬(ロバ)」と「クピードーとプシューケー」

黄金の驢馬 (岩波文庫)

黄金の驢馬 (岩波文庫)

 

 岩波文庫の表紙にある紹介文を全文引用しよう。

 唯一完全な形で伝わるローマ時代のラテン語小説。梟に化けるつもりが驢馬になってしまい、おかげで浮世の辛酸をしこたま嘗める主人公。作者の皮肉な視点や批評意識も感じられ、社会の裏面が容赦なく描き出されていて、二世紀の作品ながら読んでいて飽きさせない。挿話「クピードーとプシューケーの物語」はとりわけ名高い。

 なんとまあ過不足のない説明だろうか。

 物語は冒頭から脱線しつつ進む。ただし、第一文から作者が『さて、これから私があなたに、御存知ミーレートス風の物語へ種々さまざまなお噺を織り合わせ』と書いてあるように、この「枠物語」的にもたらされる脱線は、『御贔屓にして下さる皆さんのお耳をたのしいさざめきでうっとりさせよう』ために、作者が充分に意図して行われているものだ。

 

 作者本人がモデルである主人公ルキウスが、魔術をやり損なってロバになってしまってからが、読み物としての面白さは安定すると思う。

 全体的に言って、その筆致は下品だ。

 猥褻さ、犯罪と暴力、裏切りと復讐、といったものに満ち満ちている。ロバのルキウスの主人になる人間たちは、盗賊を筆頭に嫌な奴らばかりだし、物語の中に善人がでてきたとしても、我利我利の亡者みたいな人間ばかりがいる社会の犠牲になって、不幸な死をとげたりする。

 ロバのルキウスがその長い耳で聞いた話(つまるところ本筋とは関係ない脱線)にしても、間男したとか、間女(?)したとか、してないとか、浮気にまつわる話ばかりで、悪漢が活躍するだけでなく、悪女だって、邪魔な亭主はもちろん、恋敵でも、子供でも、愛人でもなんでも、自分の利益のためならどんどん毒殺する。最後に復讐によって正義がなしとげられはしても、善人が犠牲になった事実はくつがえらないので陰惨な感じを完全にはぬぐえない。

 だからといって、物語全体から暗い印象を受けるかというとそうではなく、庶民のしたたかさや、欲深さゆえの活力、行動力が、エネルギーとなって読む側の眼前に押し寄せてくる。

 

 ローマ喜劇の(ほとんどすべてと言ってよいほど)多くのあらすじが、愛し合う若い男女が障害(すなわち『祭儀的な死の地点(フライ)』)をうまく逃れて、ハッピーエンドにいたるのとは対照的に、「黄金の驢馬」では、愛し合う若い男女は悪人によって永遠に引き裂かれ、妻は夫を裏切って間男のもとに走り、善人は危機を乗り越えられずに死んでしまう。

 散文によってものされた本作品は、ローマ喜劇の水準よりも、主人公および登場人物たちが、より低く、矮小な存在として設定されているぶん、「アイロニー形式」に接近しているのだろう。

 岩波文庫の表紙が『社会の裏面を容赦なく描いて』と表現した、本作の下品さ、猥褻さ、暴力、犯罪、強欲、裏切りといったもののあけすけな書きぶりは、アイロニー様式の特徴だ。

 

挿話『愛とこころの物語』あるいは『クピードーとプシューケー』

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 「クピードーとプシューケーの物語」(本文では『愛とこころの物語』とされる)は、これほどに猥雑で乱暴な枠物語の一挿話なのである。美しい美しい、この物語が。個人的には、これまでに読んだあらゆる書物の中で最も美しいエピソードの一つだ。

 プシュケ(サイキ)という名前をはじめて聞いたわけでもなく、キューピッド(エロス)と結婚したが、禁を破って姿を見てしまった女(すなわちプシューケー)の話をしらなかったわけではないが、本書を読んでみないとその美しさは分からなかった。

 岩波文庫の紹介文の最後には『挿話「クピードーとプシューケーの物語」はとりわけ名高い。』とある。私はこういう「宣伝文句」はあまり信用しないたちなのだ。なぜなら、普通信用するに値しないから。今回は良いほうにあてが外れた。

 

 けれども、一体どうしてこんなにも美しい挿話が、社会の底辺を泥水ごとすくい上げたような『黄金の驢馬』に収録されているのだろうか? 

 一体どうして、最後にとってつけたような奇跡譚によってロバから人間にもどるというハッピーエンドを除けば、ほぼ全編アイロニー様式が支配するような本書において、これほどに美しく美しいロマンス様式の物語が挿しこまれえたのだろうか?

 

 『愛とこころの物語』を語るのは、主人公ルキウス(第一次の語り手)ではなく、登場人物の一人である老婆だ。

 ロバのルキウスは強盗団に使役されていて、この老婆はアジトで盗賊達の世話係(料理女)をしている(させられている)。身代金目的に誘拐されて人質になっている娘の気を紛らわせ、慰めるために、老婆がこの美しい話をはじめる。

 内容をかんたんに説明すると、「美しい娘プシューケーに嫉妬した女神ウェヌスが、息子クピードーに命じて不幸な結婚をさせようとするが、クピードーはひそかにプシューケーを自分の妻にする」とでもなろうか。より詳しいあらすじは、大先生が教えて下さる。プシューケー - Wikipedia

 

 美しさを説明するのはあまりに困難(というか無理)であっても、物語を分解しようと試みるのは、それほどでもない。つまり何が言いたいかというと、この『愛とこころの物語(クピードーとプシュケーの物語)』には、いくつもの物語原型が見出せる、もしくは、他の説話や民話と類似する要素がいくつも組み合わさっている、と言えばよいだろうか。

 人間離れした尋常でない美しい王女が国中の噂の的になるというのは、かぐや姫を思わせるし(ただし、プシューケーは異星人ではなく、美しすぎて女神のごとく崇拝され嫁求婚者すらない)、嫉妬のために嫌がらせをし罠に嵌めようとする姉二人は、シンデレラの姉たちを思い出させる(しかしプシューケーの両親は実の親で善人だ)。

 神々と人間が、何かの能力や技を競うことや、神と人間の結婚(交合)はギリシア神話(ギリシア神話に限らないだろうが)にはおなじみの物語だ。(ただし、大抵は人間の高慢が神によって罰せられるのが常で、何の罪もないプシュケーがウェヌスに嫉妬されるという意味では典型から外れるし、それゆえにハッピーエンドが可能になる)

 この世のものとは思えないような豪華な美しい不思議の館は、ロマンス世界によくあるロケーション(狂えるオルランド、妖精の女王)だし、われわれにもっと身近な例をあげれば、グリム童話のヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ「お菓子の家」がある。

 ある禁忌を与えられて、結局はそれを破ってしまうという筋は、神話、民話、昔話ではおなじみのものだし、透明な夫の真の姿を見ようとするプシューケーは「鶴の恩返し」で、物語終盤で黄金の箱を開けてしまうのは「浦島太郎」だ。

 イーオーやディオニューソスを思わせる逃避の彷徨があり、捕まったあとは嫁いびりの話になる。

 姑から無理難題を言いつけられ、動植物に助けられて課題をこなす嫁というのは、男女を入れ替えれば、スサノオ(素戔男尊)が婿(になる)の葦原色許男(大国主)に無理難題を言いつけたのに重なる。(もっとも彼を助けたのは、動物ではなく、スサノオの娘の須世理姫だが。動物の助力者ならば、童話にその形を変えたゴーシュの一風変わった友達を思い出せるかもしれない。そしてやはりここでも黄泉下りがあり、さらに「地獄の眠り」によって「祭儀的な死の地点」を通過することが繰り返して強調される。

 そしてもちろん、ハッピーエンドつまりは典型的な喜劇の最後にふさわしい原型は、「愛し合う若い男女の結婚」なのである。

 

 訳者は安心と信頼のブランド、呉茂一。

 愛し合う男女が結婚して終わる「喜劇」だと言っても、ローマ喜劇と決定的にちがうのは、登場人物が庶民ではなく、神々と王族であり、王女だったプシューケーも最後は神となるということだ。

 だから読者としては、この物語を「自分たちの(自分の)物語」というふうに捉えるわけにはいかない。美しい訳文に導かれて、素晴らしい星空でも眺めるように、うっとりして仰ぎ見るのだ。

 

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ドロテア

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