人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

ALL REVIEWSというサイトに迷い込んだらこんな書評があった……

語り手はいつでも語り手として物語言説に介入できるのだから、どんな語りも、定義上、潜在的には一人称でおこなわれていることになる(ジェラール・ジュネット「物語のディスクール」より)

私は第一に、人称という術語そのものに対する私の留保をあらためて述べておきたい。私がこの術語をなお放棄せずにいるのは慣例にしたがったまでのことで、再度繰り返すなら、私のみる限り、あらゆる物語言説は、明示的にであろうとなかろうと、「一人称」で語られていることに変りはないのである。なぜなら語り手は、一人称代名詞によっていつでも自分自身を指し示すことが出来るからだ。 (ジェラール・ジュネット「続・物語のディスクール」より)

 

  ALL REVIEWSというサイトにこんな書評がある。


 私にとって佐々木敦という評論家は、2013年に、ツイッターへ「三人称一元視点と一人称はほぼ同じものだ」ということを「発見」(なんと彼は発見してしまったのだ)したという考察からはじまるツイートを連投し、その時点では自分でもはっきりと混乱していることを自覚して一連のつぶやきをやめてしまった、残念な人だ。

 私にとっては、これが100年前の学生のものではなく、2013年時点で文芸誌に書きまくっている「文芸評論家」のものだという事実があまりにも衝撃的で、めがくらむ思いだった。

 ちなみに冒頭に引用したジュネットの「(続)物語のディスクール」を含む「フィギュールⅢ」の刊行は、1972年のことだそうだ。

 時を経て2017年の、鴻巣友季子氏の書評である。短いので全文引用する。

 日本語小説の「私」の概念を更新する野心的な文学理論書。先行書を攫(さらい)いつつ、人称と視点の考察に紙幅を割く。近年多い「語り」に操作のある小説は、新しいというより回帰的であるとし、「全ての三人称小説は潜在的な一人称小説」と帰結する。翻訳者にも堪(たま)らない一冊。

  上に書いたツイッターの「事件」で彼を知って以来、佐々木敦という人の書く物は読まなくてもいいなと分かっているので、この「新しい小説のために」という書物がどんな内容でもどうでもいいわけだが、しかし、鴻巣氏が結論を書いてくれている。曰く『「全ての三人称小説は潜在的な一人称小説」と帰結する。』と。

 もちろん、冒頭での引用にあるとおり、そんなことは少なくとも45年も前にジュネットが言っていることである。渡辺某が言った「移人称」というへんてこな術語にかかずりあう前にジュネットを参照していれば、小説を人称で規定しようとすることの愚かさにもっと早くに気づけたはずだ。もちろん、2013年時点で上のような「発見」に興奮して自己リプライを連ねていた評論家に望むべくもない。

 もしも「新しい小説のために」という文章が可能だとするなら、それは帰結ではなく、そこから開始されていなければならない。

 鴻巣氏がこの短い評言で佐々木氏の「帰結」を晒しものにしているので、これはもしかしたら褒め殺しなのかもと思いもしたが、だとすれば、いくらなんでも「2017年この3冊」というタイトルで選びはしないだろう。

 佐々木氏は今も文芸誌に書きまくっている評論家であり、鴻巣氏は新人賞の選考委員であって、純文学小説の書評も多く担当する翻訳家である。二人とも、いわゆる「新しい」「実験的」な小説(文学)に好意的な評者と目されるといってよいであろう。現代文学にとってはこれほどたのもしいことはない、慶祝の至りである。思うに「前衛文学」とは、通常それが何ものなのか一般にはわかりづらいものであるので、小説が読めない、文学に無頓着な評者でも、擁護者としてまかりとおってしまうものであるらしい。

 少し心配なのは、これからまた3,4年後に佐々木氏が「文学には進歩も進化もない。したがって新しい小説、新しい文学は存在しない」という命題を「新発見」してしまわないかということだけである。