人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

フェイクニュースと小市民的正義ーー国民の愚かさは安倍晋三の責任ではないーー

 こんなことをブログに書いても意味ないが、備忘録というかメモとして残しておこうと思う。

 いわゆる「森友・加計問題」なるものが問題であるとするならば、それは安倍自民の問題ではなく、メディアと国民の問題である。

 おしなべて左派であるメディア(=フェイクニュースと等号で結んでしまっても問題ないと思う。右派メディアがフェイクでないと言いたいわけではない)は、自らが左派であるという正義感にもとづいて「右翼安倍政権」とその「右派的政策、立法」を叩いてきた。具体的には「解釈による集団的自衛権」とか「特定秘密保護法」とか「テロ等準備罪」とかいったものだ。メディアによるナチやら戦前戦中の日本やら独裁やら全体主義とかいうイメージの押しつけ(使い古された陳腐なやり口である)はほとんど効果を発揮しなかった。

 しかしながら、猪瀬、桝添両都知事の失墜を見ても分かるとおり、「権力者の不正による利益の享受」という「問題」は、国民(われわれ大衆)の小市民的な正義感をはげしく刺激するものらしい。

 メディアすなわちフェイクニュースはやっとのことで、ここにぶつかった。

 「森友・加計問題」とは言われるものの、「忖度」という不思議な単語に行き着いた森友問題で安倍の首をとることはできそうもない。したがって「問題」はいまやもっぱら「加計」のほうに絞られて「報道」されているようだ。

 「加計問題」の疑惑の発端は、安倍晋三と加計学園理事長が友人だということだ。それから、前川という官僚の「告発」である。

 しかし理事長が首相の友人であったとしても、手続きに問題がなければ獣医学部をつくって悪いわけがない。メディアが求めている「誠実な対応」とか「丁寧な説明」というものの中身は、結局安倍晋三が「友達を優遇しちゃったごめんね」と言うことでしかない。まともな証拠を一切示さずに死ねと強要しているだけだ。

 だが、首相の友達が理事長だから怪しいという論法が成り立つなら、天下りで辞めさせられた官僚の私怨ではないかという疑いも、デート倶楽部を「貧困女性の調査」と言い繕う人間の言い分が信用に値するのかという論法も当然成り立たなければおかしいはずだ。

 

 メディアが求めているのは明らかに悪魔の証明であって、審査が適正であったかというまともな検証が行われているとは到底信じがたい。

 けれども、国民は「私腹を肥やす政治家」という悪を許せない小市民的正義感に引きずられているようだ。この問題でやっていないと証明することは無理である。疑う側が確たる証拠をつきつけるしかない。メディアがやっているのは、まさに「印象操作」でしかなく、その事実を指摘されると、芸能事務所所属のTVタレントをつかって「ふざけるな」「国民を馬鹿にするな」「丁寧に説明しろ」と逆ギレさせることだけだ。そして行われた説明を報道する際には、自分たちに都合良く切り取って「怪しい」「怪しい」と連呼し、悪魔の証明を求め続ける。

  『すべてはあのときをなぞるごとし』だが、このあとどうなるかは神のみぞ知るである。

 タイトルですむメモのはずがむだにだらだら長くなってしまった。

 つまり、今問題になっているのは、フェイクニュースと国民の関係である。安倍政権はかなり長い。飽きっぽいわれわれ大衆が、「もう充分長いから、そろそろ他の首相を見たい」という理由で安倍晋三への支持を取り下げるなら別にかまわない。

 しかし、「加計問題が原因で安倍政権は終わった」とされてしまったとしたら、これは相当に問題である。野党やメディアは、安倍一強時代を「民主主義の危機」と称したが、本当の意味での民主主義の危機は、どちらであろうか。

 いずれにしても、国民の愚かさは安倍晋三の責任ではない。

 

 附記:ついでなので書いておく。フェイクニュースは、いわゆる「こんな人たち」を都民国民だと言っていたが、私は「こんな人たち」とは違う。あんなやつらと一緒くたにされたくはない。気に入らない政治家が演説をする場所に徒党を組んで集合し、演説内容に関係なく「辞めろ辞めろ」と騒ぐ人間がどうして一般的な国民でありうるだろうか。しばき隊なんかと一緒くたにされたくはない。