人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「ポスト真実」っていう訳語自体が「post-factual」だと思うので今からでも「ポスト(客観的)事実」に統一して下さい

「ポスト真実」って言葉がメディアやネット世間をふわふわ浮遊しているようです。

 これは訳語だそうで、だから海外発信の言葉、概念ってことになる。

ポスト真実の政治 - Wikipedia (post-factual politics)

 おおよそのところは大先生でご確認下さい。

 

 しかし、この「ポスト真実」って訳語、日本語としておかしい。

 と思っていると、大先生にはすでにそう指摘した人物と、その言葉の要約を記載されてある。

 政治社会学者の津田正太郎は、日本語の「事実」と「真実」とは異なっており、「事実」とは「一般には誰の目から見ても明らかな事柄や出来事を指す」ように思うが、真実は様々な解釈が可能であるため、真実は一つではなく、「ポスト真実」以前に真実が人びとにきちんと伝えられ共有されていたというわけではない、と述べている[6]。「事実関係の明白な誤りを含む情報が大手を振ってまかり通るようになっている」といった意味では「ポスト事実」の方が訳語として適しているが、日本では「ポスト真実」で定着しつつある[6][4]。

 

 太字はこちらで勝手に強調した。もっとも重要な部分を抜き出そう。

 真実は様々な解釈が可能であるため、真実は一つではなく

 真実は一つではないのである。この点、コナン君は思ったより罪深いことに貢献しているかもしれない。

 何が言いたいか分からんという人のために蛇足を連ねれば、例えば、キリスト教徒の真実と、イスラム教徒の真実と、仏教徒の真実と、(不幸にも)これといって特定の信仰を持っていない私とでは、真実というのは違うのである。

 カソリックとプロテスタントでも違うし、シーア派とスンニ派でも違うし、浄土真宗と創価学会でも違うだろう。

 しかし、日本語で「これが私にとっての真実です」と表明すれば(それ自体が明らかに法律に反している言説でない限り)そのことを否定はできないのだ。

 日本では思想、信条の自由が認められているからね。だから極言すれば、人の数だけ「真実」が存在すると言えるわけだ。

 

 「ポスト真実」の政治・時代? けっこうじゃないか。

 「真実」なんかより「客観的事実」を重んじろよ。

 

 ↑というのが、ごくまっとうな日本語の使用例のはずだ。

 

 つまり、世の中には、朝日新聞的正義感にもとづいた真実があるように、産経新聞的正義感にもとづいた真実もありえるのである。それがたとえ、偽ニュースだと、客観的証拠によって何度も反論を受けたとしても、彼らにとっての非常に重要な「真実」である限り、どうしても修正がきかないというのは慰安婦報道の訂正にどれだけの時間がかかったのか考えてみれば納得がいくだろう。

 しかし事実ならば、そうはいかない。

 日本語で事実と言えるのは、朝日新聞社員にとっても、産経新聞社員にとっても、ひとしく事実と認められるものでければ、そう呼べないのだ。

 「個人的な真実」という言葉はありえても、「個人的な事実」というのは自家撞着、矛盾である。どうしても真実も事実も同じ言葉にしたい人がいるならば、「ポスト客観的事実」を訳語にすればよい。

 とにかく「真実」という日本語には、個々の思想信条を受け容れるものであって、post-factualという訳語にふさわしくない。

 

 むしろ、結果的にpost-factを推奨しているかのような意味にとれてしまうのだ。

 われわれは、報道において「朝日新聞的正義感にしか通用しない真実」も「産経新聞的正義感にしか通用しない真実」も、その他、誰それの思想信条をもとにした真実であっても、望んではいない。ということこそが、post-factual~の要点(少なくともその一つ)だろう。

 

 「ポスト真実」という訳語を用いて、何かを言ったつもりになっているバカは、FAKEを垂れ流す人間を批判したり、嘲笑しているつもりなのだろう。

 そのくせ自分は必ずしも正しくない訳語を用いて平然としているのだから笑止千万である。

 「ポスト真実」なんて語を得意気に振り回している(特に)メディアや業界人は、それだけで信用に値しないと分かる。彼らこそ杜撰な神経をもっているpost-factualな人種である。

 

 目にする度、不愉快だし、馬鹿馬鹿しいから、今からでも「ポスト(客観的)事実」に変えて下さい。