読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

世界は3はてブでできている

 繰り言を書くのは、あまり生産的ではないけれど、まあブログってものはそういうものも受け入れうる雑記帳でもあるだろうから、特別今思いついたというわけではないにしろ、とにかく今自分が思っていることを備忘録として書きつけておこうと思う。

 はてなブログでは、はてなブックマークというやつが3つ付くと、ふだんよりもアクセスが少し増える。ブログのエントリが目立つ場所に引き上げられるからだ。だから、別段なんの知名度もない小さなブログでは、この3はてブというのが大きな意味をもつというのは、もう何万回も誰かに言われてきた当たり前のことだ。そして、3はてブもらえたエントリと、もらえなかったエントリで、大きな差があるかというと、そういうわけでもないというのは、ブログを、特にはてなでブログを書いている多くの人には、今さらいちいち考え直してみるまでもない当たり前な実感であろうと思う。

 最初のはてブが3よりも5、5よりも10、続けざまについたほうが効果は大きい。より目立つ場所へ早く引き上げられるからだ。そうは言っても、内容がすぐれていなければ読まれはしないと誰かは言うかもしれないが、読まれないとすぐれているかどうかは分からないのだし、内容がすぐれていればたしかにさらにアクセスが増えるかもしれないが、内容が別にすぐれていなくってもアクセスが増えることもあるというのは、やはりブログをやっている者の実感ではないだろうか。たとえば、内容がお粗末でも、流行り物とかトレンドといった多くの人が関心をもつものを取り上げれば、とりあえずアクセスしたりとりあえずブクマしていく人がいる。

 

 何が言いたいのか、まあ繰り言だからぐだぐだ言ってるのは仕方ない。とにかく最初の3ブクマというのが大きいということを言いたいのだろう。しかし、3ブクマというのは、比喩であって、何かを世の中に届けようとする時に使われる最初のブーストということだ。たまたま、はてなブログには、はてブという仕組みがあって、だから互助会なんて揶揄される仲間が形成されたりする。しかし、僕は別にブログのことだけを言いたいのではなくて、つまり、世の中は「人間関係」すなわち伝手とかコネとかいわれるものでできている、という誰もが聞き知ってある程度は実感していることを、このいんたーねっとの片隅にわざわざ書き記しているわけだ。

 僕はamazonで自分の小説を電子書籍にして出している。KDPというやつだ。短編が多いし、長編を上下に分けたりしているから数だけならけっこう出ている。

 繰り言の途中でリンクを貼っても宣伝にはならんだろうけど、とにかく数が出ていることは一目瞭然だ。まあこのエントリ同様そうそう読まれはしない。新作を出したあと、無料DLキャンペーンなるものをしたあとに、少しは買ってもらえて読んでもらえたりする。今はkindle unlimitedがあるから、売れないけどレンタル方式で少しは読んでもらえる。それは新作であることとキャンペーンの効果で、アマゾンという深い海の中で一時的に少しは目立つ場所に引き上げられるからである。しかし、効果は一時的に過ぎない。一ヶ月ほどたてば、深い深いアマゾンの海の底に沈んでしまう。はてブはなかなかつかないのだ。

 だから「はてブ」をつけるためにどうするかというと、仲間内で「ほめ書評」が行われる。「ほめ書評」というのは、電子書籍界隈で発明されたわけではなくて、既存のメディア(特に紙媒体)でやたらめったらやられていることである。新聞書評とか、文芸誌の書評欄とかで。とにかくまあ何でも褒める、ということだ。これは下らねえとか意味わかんねえ、と思っていても仕事として褒めるのである。誰もが自由に意見を言って、自由に腐すと、角がたつし、斜陽といわれる業界では、自由闊達な議論を行い、自由に誰もが誰かを批判していると、業界そのものがつぶれっちまいかねないからである。

 電子書籍ならそういうものを見ないで自由にやれるかもしれないと、はじめにおもっていた浅はかな人間だということを告白しなければいけない。既存の業界には、新人賞とか文学賞とか新聞書評とか、衰えたとかいわれても「はてブ」に相当するものがあるが、アマチュアの個人出版の電子書籍にはそういうものはない。基本的には海に沈んでいる。一般読者は、一応出版社の編集の目をとおったという点である程度品質が保証されているであろうものの中で、さらに新人賞とか文学賞とかほめ書評とか、3はてブ付いたものを目にし、自分の好みに合うものを選ぶ。だから、KDP小説の主な読者、核になる読者は常に、KDPの小説書き自身である。どうにかして、3はてブつけようとすると、そのコップの中でほめ書評をやるしかない。もっとも、作風の似た作者が集まるのは自然なことだ。けれど「傑作」だとか「プロ並」だとかコップの中でやっていても、なかなかコップの外には出られない。KDPがはじまった頃からいつくか、紙媒体で出版された小説があったようだけど、紙媒体としてはそれがスタート地点で、新たに3はてブ必要になる。ほとんど作品には3はてブつかなかった。もちろん、3はてブついたからといって、そこからさらにはてブを増やすか、シェアされたりRTされなければいけない。つまり王様のブランチとかで「感動しました~」と言ってもらうとか、読書芸人とかいうのに「おすすめです」と言ってもらったりしないといけない。そう甘くはない。

 既存媒体ではない、新しい媒体なのに、やっていることは、既存媒体でやっていることの劣化版でしかないというのは、やっぱり目にしていて何とも情けない気持ちになる。どこを見渡しても批評はない。批評がないのに説得力があるわけもない。

 それでも、KDPで少しでも読んでもらうためには、KDP作家の中で名前を売って、注目してもらうしかないのである。そのコップの中でうまくやることで、コップの外の人の目に触れる機会がようやく訪れる。しかし、それは、小説の内容云々というよりも、かなりの程度、人間関係の巧拙が影響してくる。どうして自分の小説を無視している人間の小説を自分が褒めてやらなければいけないのか。それは当然のことだ。

 でも、僕は面倒くさがりだし、ほめ書評よりは、腐すほうが得意だろうし、たぶん作風的にも浮いている。いわゆる純文学とよばれる業界でも、いわゆるエンタメとよばれる業界でも、トレンドにまったく合致していなさそうな自覚がある。情けないことに。

 KDPだなんだといって、既存の紙媒体の二軍三軍四軍やってても意味がないではないか、と怪気炎をあげてみたところで、それは空しい理想であって、もし何か既存の業界の常識に属さない作品がKDPで生まれたとしても、誰も読まないだろう。

 だから、やっぱり、web上で作品を発表するにしても、場所を間違えているような気がする。わが渾身の傑作長編『ドロテア』にしても、まったく誰かの注意をひくことはない。(既存の価値観に属さず評価されず、電子書籍としても誰にも相手にされないとしたら、それは駄作なのだよ、と冷静に指摘されたら返す言葉がないから、あらかじめカッコをつかって自分で言っておこう)僕がライトノベルを書いているなら、なろうに出すこともできたのだろう。そうすれば今よりは、ましな心持ちだったかもしれない。

 ただただ新作を書いては、アマゾンという深海の底に沈めるだけの作業である。まあそれはずっと前にわかっていたことで、『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』というブログのタイトルの下にある言葉は、そういうわけでつけてあるのだが、理想のようにはなかなかいかない。読んでくれる人が一人もいないというわけではないが、できることなら自分が書いた小説において、何を成そうとし、何を成したかということを理解してくれる人が10人いやいや、5人いやいや、3人くらいいて、別にほめ書評でなくても評価してくれれば、そこから広がらなくても、僕にとってのみ通用する3はてブにはなるのだろうけども、しかし、批評は日本国中探して見て回っても、ほとんどどこにもないのだから、僕に3つもまわってくるわけもない。

 ただ、指をくわえて、見つけられるわけもないと自覚しながら、それでも小説を書いた以上、誰かに見つけてもらいたいという思いを捨てきれないで、手をこまねいているだけだ。だから、君に僕の小説を読んでくれとは言えないが、なぜなら僕の小説は君にとって「面白い」小説ではないだろうし、むしろ君にとって「面白くない」小説だろうということが、僕にとって小説を書いている上での誇りとなってしまっているくらいねじれているから、どうしようもない。だから、ともかく、もしも君が斜め読みでも最後までこの繰り言を読んでくれたとしたら、何かKDPやなろうに替わる良い作品の発表場所を知っていればおしえてくれないだろうか。いやいや、そんなものがあれば僕が見つけているだろう。別のどこかであっても、この世界の一部には違いないのである。いつもどこでも、世界は3はてブでできているのだから。