人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

『ペルシアの人々』アイスキュロス──ギリシア悲劇を読む第二回

登場人物および前置き

 訳者は久保正彰氏。

 「ギリシア悲劇を読む」と題してブログ記事を書き殴るこのシリーズにおいて、われわれがテキストに選んだ、人文書院のギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇の二作目におさめされているのは、『ペルシアの人々』だ。

 現存するギリシア悲劇のうち最古のもの。ペルシア戦争中のサラミスの海戦をあつかった作品で、神話・伝説世界でなく現実現在に起こった出来事をあつかっている点でギリシア悲劇にはめずらしいと同時に、アイスキュロス自身がこの海戦に参加していたという。(歴史的事実の概略は、Wikipedia大先生の関連項目、ペルシア戦争サラミスの海戦アケメネス朝ペルシア などを参考にして下さい)

 人文書院のテキストから「解題」の冒頭部分を引用する。

『ペルシアの人々』が上演されたのは、サラミスの海戦後八年へた時である。この劇的事件に自ら参加した作者アイスキュロスの生々しい記憶は、作品中のいたるところに迫真の描写を生みだしている。上演当時、ギリシアはまだペルシアと交戦中であり、小アジア沿岸からキュプロス海域にわたって、キモンらのひきいるアテナイ海軍は、クセルクセス王のペルシア軍船を駆逐しつつあった。アテナイにとっては、時まさに内外の大建設期を迎えんとしており、外ではエーゲ海沿岸の諸都市をあわせてデロス同盟をかため、巨大な海上帝国の建設に動きつつあり、内では大城壁の構築に、新政治秩序の画策に、市民達は厖大な努力をささげていた。

 アテナイがギリシアの有力な都市国家(ポリス)であったとしても、当時のペルシアは超大国といってよい。実際、サラミスの海戦前だけでなく、その後にも(翌年のプラタイアの戦い時)アテナイはペルシア軍に占領されているのだから、薄氷を踏む状況での起死回生の勝利だった。(東洋でいうなら赤壁の戦い的な感じかな?)「劇的」な勝利だったからこそ、アテナイにとりギリシアにとり特別な勝利となったわけだ。

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(画像はともに「サラミスの海戦」を描いたもの、らしいよ)

 そんなこんなを踏まえて、登場人物欄を引用しよう。

コロス ペルシア人の長老たち

アトッサ クセルクセスの母

使者

先王ダレイオスの亡霊

クセルクセス ペルシア王

 

場所 ペルシアの都スーサ。舞台は、劇の前半では王宮のまえであり、後半では先王ダレイオスの墳墓のまえになっているが、実際にどのような形で舞台上に表示されたか、その点については不明である。

  この悲劇は、ペルシア側から描かれている。悲劇作家アイスキュロスはサラミス海戦の勝利という素材を劇に仕立て上げるために、敗者に焦点を当てた。

 また、亡霊が出てくるということも、一つの特色である。これが神話・伝説ではなく、アイスキュロス自身が体験した歴史的事実を基にしているだけに、興味深い。

 

本文へ

 はじめにコロスが登場する。コロスが登場するというのだからオルケストラ(いわゆる「舞台」の前にある円形のスペース)だろう。登場人物紹介で確認したように、コロスを構成するのはペルシアの長老たちである。彼等は(まあ年寄りであるから)戦に際して、自分たちは国の守りを仰せつかっているのだと教えてくれる。のだが、つづくこのようなセリフ

王の帰りをおもい、

黄金のしつらえみごとな兵たちの

帰りをおもうわれらの心は、はや

わるい予感におののきたつのだ。

から分かるとおり、コロス(長老たち)の胸にあるのは、不安わるい予感である。

 『王はまだお若い』ということと『一騎の騎兵も一人の使者も、ペルシアの都にとどいていない』ということを一応の理由にできるだろうが、格別強い、もしくは確かな根拠があるわけではない。

 コロスは戦に向かった軍について語る。ペルシア軍に参加した将や、各地の王たちの名前が、兵科や進軍の様子が、美称をまじえて語られる。劇内容の解釈としては、長老たちはペルシア軍の勇壮な姿を語ることによって、不安やわるい予感といったものを、追い払おうとしたいえるかもしれない。ただし、われわれとしては、これらのセリフが、たとえばホメーロスの『イーリアス』の記述を意識したものだろうということを確認しておこう。

 『ホメロスや、恐らくはもっと原始的なヘシオドス、更に北欧英雄時代の詩人たちにおいて、われわれは、詩人が記憶せねばならなかったものが何かを見ることができる。王や異民族のリスト、神話、神の系譜、歴史伝承、民衆的知恵をおさめた格言、タブー……このように詩の中に集大成された知識は、神の知の類比物(アナロジー)として、神聖なものと考えられていた。』(ノースロップ・フライ)

 つまりアイスキュロスは、ホメーロスにならって、ペルシア戦争に関する「リスト」を作ろうとした。彼は悲劇作家であったが、自らが体験した歴史的大事件、国家的、民族的大勝利を作品にするにあたって、「われらの時代の叙事詩」という意識を持ち、後世に語り……いや演じ継がれるものを目指した。のではないか。アイスキュロスは生前、『自分の悲劇のことを、つねづねホメロスの大層な饗宴からの切身、肉片だと称していた』というのだから。

 

 しかし、そのようにペルシアの軍勢をたたえていながらなお、コロスたちは嘆く。

かれらの母アジアの大地は、

会いたさに苦しみ、うめき、

親たち妻たちは

ゆびおりかぞえる月日の長さに

おののいてる。

 コロスは再び気を取り直して、いさましい行軍の様子を(想像して)語るが

だが、たくらみふかい神の欺瞞を

だれが、どの人間がふせげようか? 

 という風に、どうしても、わるい予感にとらわれてしまう。コロスの脳裡によぎるのは『破滅の女神(アテー)』の『優しそう』な『手招き』であり、『逃れられない死の網』なのである。

 なにゆえに、はやくも『心は黒衣におおわれて、おそろしい不安にちぎれるばかり』というほど敗北をおそれなければならないのか。ただ単に報せがまだ来ないからという理由では、あまりに大げさなように思われる。

 当時のギリシア人ならば(前置きで確認しているわれわれも同様だが)サラミス海戦でペルシアは負けることになっているからだ、と答えられただろう。現代の冷静な読者ならば、戦時に国に残った者等が兵士たちを心配するのは当然だとするかもしれない。

 けれども、ギリシア悲劇は、その名の通り悲劇であって(ということはフライが言うところの高次模倣様式であり、ことにもアイスキュロスは典型的な悲劇(高次模倣様式)の作家に思われる)現代の読者にとって身近な「リアリズム」(これは基本的な姿勢として低次模倣様式)の常識をあてはめるのは、実りの少ない読み方だと思う。

 コロスは悲劇を予兆している。自らにふさわしい様式をととのえ、その時に備えている。という見方を推したい。コロスは「不安・わるい予感」と「ギリシア軍の勇壮さ」を交互に語る。(当然これらのセリフにも韻律が存在する)それは決して心地いいリズムにはなりえない。明暗・高低がはっきりと分かれたコロスの語りは、しだいに落差(明暗の幅)を大きくすることによって、うねる大波のように不安定でおそろしい雰囲気をつくりあげる。「リアリズム」の世界では未来は白紙であっても、「悲劇」の世界では、これからの展開が約束されているのだ。

 

 夢見と凶兆

 約束、といってもしかし、それはあくまで雰囲気にすぎない。あやふやなものではある。

 「悲劇」は、よく手に馴染んだ、おなじみの道具立てによって、もっとはっきりと、この雰囲気と約束を補強し、強調してみせる。

 コロスの次にあらわれるのは、先王の妃にして現在のペルシア王の母、太后アトッサである。彼女もまた不安におそわれている。ただし、アトッサの不安には、コロスの不安より、もっとはっきりとした理由がある。

 アトッサは夢を見ているのだ。

 枕べにあらわれたのは、衣うつくしい二人の女でした。ひとりはペルシア風、ひとりはドーリス風の衣装をつけていました。背たけは、わたくしたちより目立って高く、非のうちどころのない美しさ、そして二人は姉妹であるらしく、籤(クジ)によってひとりは父祖の国ギリシアにすみ、ひとりは外国に住家をもっている。みれば二人のあいだで、何かあらそいが起ったらしく、それを知ったわたくしの子がとりおさえ、しずめました。そして二人の頸もとに軛(くびき)をかけて騎車につないだのです。ひとりは王の騎車のしつらえを誇りにして、首をおとなしくのべて手綱にしたがっていましたが、ひとりは暴れて棒立ちになり、輓具(ばんぐ)を両手でつかんで打ち砕き、轡(くつわ)なしの体を力まかせにふりちぎり、軛をまふたつに折ってしまった。わたくしの子は落馬し、ダレイオス王が憐れむように立っていました。それをみるとクセルクセスは、身につけた外衣を引裂いたのです。そのような夢を、昨夜たしかにみたのです。

 二人の姉妹があらわすのは、アテナイの親ペルシア派と反ペルシア派のことだろうか。しかし、そうするとマラトンの戦い前ということになり、クセルクセスではなく、ダレイオスの治世の出来事となる。であればやはり、クセルクセス遠征時に、ペルシア側についたポリスと、アテナイ、スパルタを中心とした反ペルシア都市国家連合を指すほうが自然だろうか。

 とにかくアトッサの夢不吉であるのは疑いようがない。しかもその上、アトッサは起きてからも、「凶兆」を目にする。祭壇へ向かう途中、逃げる鷲(ワシ)が、鷹(タカ)につかまり、頭を食い千切られるさまを見たのだ。

  にもかかわらず、コロスを成す長老たちは、自分達は「夢解き」ではないからという理由で、凶兆から目をそらし、アトッサにいのりをささげ、大地と死者に水をそそぐようすすめる。

 アトッサが長老たち(コロス)の進言に、『立派な夢判じ』『いまの話を正しく解いてくれました』と答えるのは、これも凶兆から目を離すためだろうか。

 けれども太后アトッサは、神々に祈りをささげ、死者の霊魂に水をささげる前に、ぐずぐずして、長老たちにアテナイについて知らせてくれとせがむのである。

 そうこうしているうちに、ついに不安と予感、不吉な夢見と凶兆は、凶報をもたらす。

 

使者の報告

  登場した使者は、ペルシア軍が全滅したと知らせる。コロスと呼応し、絶叫のような嘆きを交わし合う。

 前回『縛られたプロメーテウス』をとりあげた際、冒頭岩山にはりつけにされたプロメーテウスが一人きりになった時点で、悲劇としては完成していると書いたが、今作でも、開始から三分の一弱ほどの使者によるペルシア軍全滅の報せがはたされた時点で、悲劇(様式)として成り立っていると思う。

 今作であらわされる悲劇の姿は、『時めく高貴な一族を世間から孤立させること』(ノースロップ・フライ)という指摘にかなり近しいと思う。「近しい」という表現にとどめたのは、作品内では、クセルクセス1世は、王位にとどまるからである。が、「時めく高貴な一族の没落する姿」が表現されているのは間違いない。この点からいえば、ペルシア軍全滅を報告する使者の言葉は、本作品中の悲劇(様式)性の頂点をなす瞬間である。

 なぜなら、このあとすぐにアトッサの問いに答えて、使者がクセルクセス王はまだ無事だと答えると、いったん悲劇性は弛緩してしまうからである。

 使者は、単に敗北を伝える役割を負っているのではない。ギリシア悲劇(演劇)では、俳優の数の制限、および舞台演出に限界があることから、現代演劇にくらべれば、はるかに舞台上に再現できる場面が限られる。特に海戦の様子を臨場感をもったセットとして再現するのは、現代においても難しいことだろう。こういう時に活躍するのが、使者なのである。

 使者はセリフでもって、ということはギリシア演劇の場合、韻律をもった言葉によって、詩によって、歌によって、劇的な場面を再現(ミメーシス)する。サラミス海戦の戦闘の様子がくわしく語られ(不自由極まりない日本語をあえてもちいれば「描写」され)観客は、舞台美術ではなく、役者の演技ではなく、使者の報告その言葉によって、場面をイメージするのである。

 

亡霊

 使者が退場すると、アトッサは手遅れになった神々への祈りをささげるため、また大地と死者に水そそぐために王宮にもどる。しかし『おまえたちの夢ときは気やすめであったか』というセリフには同意しかねるものがある。なぜなら先に確認したように、長老たちは夢を解くことをさけているからである。

 コロスが嘆きの歌と舞踏する間に、退場したアトッサは服を着替える。取り残された長老たちの嘆きの歌は、王への恨みつらみに満ちている

クセルクセスが連れ去ったのだ、

おう! おう!

クセルクセスが亡ぼしたのだ、

ああ! ああ!

クセルクセスがおろかにも

うみわたる小船にのせて

すべてを海にすてたのだ。

王みずからは

辛うじて落ちのびて、

トラキアの荒野をこえ

北風くるう旅路のはてを行くという。

すえながく、ペルシアの権威は

アジアの地からうせるだろう、

領民どもは

圧制の軛にひかれて

貢ぎ物を運ぶこともないだろう、

地にひれ伏して従うこともないだろう、

王国の力が潰えさったのだ。

 アトッサが先王ダレイオスの陵墓に水(牛乳と蜂蜜を加えて混ぜた灌典)をそそぎ、コロスは死んだ王を呼ぶ。

 『事がすでに終わったのは承知(アトッサ)』していながら、いまさら先王の亡霊をよびもどすのは、『これからさきのことがよくなればよい』からというよりも、ダレイオスの口を通して、このようなセリフを舞台にのぼせるためである。

 けっしてギリシアを攻めるな、たとえ、より数おおい軍勢をもってしても、攻めてはならぬ。ギリシアの土そのものが、かれらの味方になるからだ。

 かれらはギリシアをおそい、恐れげもなく神々の像を剝ぎ、御社を焼きはらった。(略)かれらは、その悪業のむくいにふさわしい、苦しみを身にうけるのだ。(略)屍のうずたかい山が、三代のちの末裔にいたるまで、声なき警告として残るであろう。 

 わが身の仕合わせにあきたらず、人のものを欲するあまりに、まことの幸せをを失うな。ゼウスは傲れるものを罰したもう厳しい裁きてでおわすのだ。

  これはダイレイオスの言葉というより、アイスキュロス自身の願望といったほうが収まりがよいように思う。三つ目の引用は、その後のアテナイを思うと皮肉である。

 

終幕

 先王ダレイオスの亡霊が退場すると、現王クセルクセスが登場する。

 王はコロスと絶叫し嘆き合う。日本語のテキストだけを目にしているわれわれには、大仰でしつこいようにも感じられるが、ギリシア語のテキストでは韻律がついた詩ないし歌だったという事実をここでも思い出さなくてはならない。

呪いにみちた嘆きの声が、

王をお迎えするのです。 

  こういうコロスのセリフに送られて、よろめきつつ宮殿の中へ消えていくクセルクセスを想像するとき、王が生きのびたことによって悲劇としての効果が弱まったと解するか、没落し孤立していく王族と王、と解して悲劇性を見出すかは、それぞれの読者しだいだろう。

 当時のアテナイの観衆は、はたして、本作の悲劇性に胸をうたれたのだろうか。それとも、歴史的な勝利を思い起こして喝采したのだろうか。どちらだろう。

 いや、ふたつながらに感じて悪いということもない。

 

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