人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「『人生は理屈だ』と言ってやれ」と彼は言ったのだ

 ぼくは理屈っぽい。世の中には、ぼくより理屈っぽい人間もある程度いるのかもしれない、いることだろう。そうであっても、ぼくは結構、理屈っぽい部類に入ると思う。相当。かなり。かなり相当。ぼくは理屈っぽい。

 しかし、理屈っぽい人間は嫌われる。

 たとえば、理屈っぽい男は女性に好かれない。

 理屈っぽいからといって、情が完全に排除できるわけでもない。ひとは、自分を論理的な人間だと思い込んだまま、自分の情を正当化するために、都合の悪い事実から無意識に目をそらし、偏った方向に理屈をつけてしまいがちなものなのだ。

 そう分かっていても、理屈を持ち出さずにはいられない。

 それは理屈っぽく生まれ育った人間の宿命であって仕方が無い。

 理屈っぽい人間が、ぜんぜん理屈をつけずに生きていくなんてできようはずもないのだ。あきらめがかんじんだ。そう思っていた(し今も思ってはいる)

 ある時、職場の人と話していたら「女」についての話になった。

 あんまり細部は覚えてないが

 彼「葦原君は、けっこうもてるのか?」

 ぼく「いや、もてませんよ」

 彼「そんなことないだろう。まだ若いんだし」

 まあ大体こんな感じだ。彼はぼくの親くらいの世代というには少し若いか、まあそのくらいの世代だった。ぼくは、つづけてこう答えた。

 ぼく「いやあ、ぼくは理屈っぽいんで。女の子には好かれないですよ」

 そのあとに、彼はこう言ったのだ。

 「そんなやつには『人生は理屈だ』と言ってやれよ!」

 ぼくは、衝撃をうけて絶句してしまった。なんというか、その口振りには有無をいわさぬ説得力があったのである。彼の人生経験がその一言に凝縮されて、反映されているような気がしたのである。僕が彼について「尊敬」かそれにちかい気持ちを持っていたからかもしれない。

 しかし、まあそうは言っても、衝撃を受けるのは大げさと思われるかもしれない。

 だから、理屈をつけて説明しよう。

 第一に、この「人生は理屈だ」という断言は、断言であるから、理屈ということを肯定しているにも関わらず、それ自体はまったく理屈が欠如しているのだ。三段論法というものが欠けている。

 第二に、理屈っぽい男が苦手な女の子に、「人生は理屈だ」と言ってやったところで、その子がこちらを振り向いてくれることはないだろうという、事実と言ってしまってもいいだろう推測が成り立つことである。人生が理屈であるという真理(?)を説いてまわっても、ぼくがもてることは永遠にないだろう。

 

 力強く断言された理屈の肯定が、ぜんぜん理屈ではない上に、問題にたいして何の解決ももたらさない、にもかかわらず謎の説得力をもって自分に迫るという事態に、多分ぼくはどうしていいかわからなくなって、思考は停止し、何も言えなかったんだろう。

 

 はたして、人は感情や、直感だけで生きていけるものだろうか。どんなに理屈っぽくない人間でも少しは理屈をつけて生きているものだろう。

 人生は理屈だろうか? 人生が理屈だったとして、理屈である人生とは、どういう理屈になっているのだろうか。

 ともかく僕は、いつかそういうシチュエーションがくれば、いや、別に相手が女性に限らずとも、誰かに「お前は理屈っぽいな」といわれたら、この言葉を言ってやろうかと思っていたのである。人生が理屈であるかどうかの謎をとくためにも。

 ただし、ぼくは言えるだろうか。あんまり自信がない。なぜなら先に言ったように、「人生は理屈だ」という断言は、ぜんぜん理屈じゃないのだ。なんという自家撞着だろう。この自家撞着すなわち矛盾こそが人生だろうか。もうわけがわからん。ぼくにはずっとこの言葉は言えないかもしれない。理屈屋のくせをして。

 

 しかしともかく、彼は言ったのだ。

 人生は理屈だ、と。