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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

『縛られたプロメーテウス』アイスキュロス……ギリシア悲劇を読む第一回

を踏まえて、いよいよギリシア悲劇を読む。例によって、人文書院のギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇から、登場人物を書き写してみよう。

・登場人物

権力(クラトス)と暴力(ビアー) 擬人化された神格、世界の主神たるゼウスの部下(但し後者は無言)

ヘーパイストス 火と鍛冶の神、ゼウスの息子。

プロメーテウス 自然神ティターンの一族なる巨人神、人類に火を与えたため、いま罰せられようとする。

合唱隊(コロス) オーケアノスの娘たち、海のニンフで白衣をまとう。

オーケアノス 世界をめぐる大河、また海洋の主。ティターンの一族で、プロメーテウスの叔父に大体当る。

イーオー アルゴス王イナコスの娘、ゼウスの愛をうけ、その妃ヘーラーの嫉妬から牝牛に変ぜられる。

ヘルメス ゼウスの若い息子神で、伝令役。

 

場所 黒海の北、スキュティアの曠野の涯、巍峨(ぎが)として聳える岩山のもと。

 

 訳者は呉茂一。呉茂一(くれしげいち)と高津春繁 (こうづはるしげ)って名前を訳者として見つけるとなんか安心するよね。

 『縛られたプロメーテウス』は、プロメーテウスを主人公とする三部作の一つであり、その最初の劇であったと考えられているそうで、次に『縛めを解かれるプロメーテウス』最後に『火を運ぶプロメーテウス』が演じられたというのが専門家の間で有力な説であるらしい。(後者二つは断片しか現存していない)

 登場人物のプロメーテウスの説明を見て分かるとおり、彼は人類に火という物を教え与えたために、ゼウスによって罰せられたのだから、時系列で考えると、『火を運ぶプロメーテウス』が最初にこなければならないように思われる。ということは、プロメーテウス三部作は、「錯時法」をつかって(時系列の順番を取り替えて)書かれていたと推測できないだろうか。そうであるならば、悲劇としてのプロメーテウス三部作は、その最後に、プロメーテウスが人類に火を与える、言い換えれば人類が火を手にする感動的な場面で終幕を迎えたとも考えられる(もしくは、プロメーテウスがその罪によって捕縛されたところで終幕を迎えたのかもしれない)。

 もっとも、断片しか物が存在しないというのだから、『火を運ぶプロメーテウス』の内容を完全に確かめることはできない。 

アイスキュロス断片  ギリシア悲劇全集(10)

アイスキュロス断片 ギリシア悲劇全集(10)

  • 作者: アイスキュロス,逸身喜一郎,高橋克美,川崎義和
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/09
  • メディア: 単行本
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  断片はこちらで読める。同書によると、『火を運ぶプロメーテウス』が三部作の第一作だった場合は、プロメーテウスが盗んだ火を人類に与える話で、第三作だった場合は、ゼウスとプロメーテウスが和解して、のち行われるようになったプロメーテイア祭の縁起が扱われただろう、と考えられているということである。いずれにしても、残っている断片が少なすぎるので断定はできないが、少なくとも私の「錯時法説」は否定されるわけだ。しかし、事実の断定ができないというのならば、個人的な夢想として「錯時法」による感動的な第三作を楽しむくらいは許されてもいいだろう。

 

 ギリシア悲劇の特徴の一つは、題材の多くが神話からとられていることだ。すなわち、当時の観客は、新作を観る場合でも、元になる話を知っていたことになる。すべての観客が神話をどこまで詳しく理解していたか、理解している内容がどこまで一致していたか、詩人にどこまでの自由が許されていたか、という程度問題になるとお手上げだが、アイスキュロスが、プロメーテウスについてイーオーについてオーケアニデスについて全く知らない観客を想定して書いたとは考えづらい。

 したがって、読み始める前に必要と思われる情報を確認しておきたい。

 この作品にコロスとして登場する「オーケアノスの娘たち」は、オーケアノスとテーテュースの間に生まれた娘たち(オーケアニデス、単数だとオーケアニス)のことで、総数は3000だという。皆、海や池や地下の河など水に関する女神である。また娘たちのほかに、3000の河神の息子がいる。(オーケアノスとテーテュースは、ウーラノスとガイアという同じ親をもつ兄弟姉妹婚である。ちなみに、ガイアは独力で息子ウーラノスを生んで親子婚をしたから、ウーラノスとオーケアノスおよびテーテュースは親子であると同時に兄弟だということになる)

 主人公プロメーテウスは、人間に火を与え、ゼウスに罰せられ、カウカーソス山にはりつけにされて鷲に肝臓をついばまれるという罰を負ったという逸話で有名だ。父親はイーアペトスで、母親は本作品ではテミスとされている。イーアペトスもテミスも、両親はウーラノスとガイアの兄弟姉妹婚だから、プロメーテウスから見ると、オーケアノスは伯父にあたる。(ただし、ヘーシオドスの「神統記」によれば、プロメーテウスの母は、クリュメネーとなっており、彼女は「オーケアノスの娘たち」のうちの一人だから、これに従うと、プロメーテウスから見て、オーケアノスは伯父であり祖父であるということになる。また一説には、クリュメネーはプロメーテウスの妻だったともされるそうであり、本作ではヘーシオネーというこれもオーケアノスの娘の一人が妻となったとされている。そうなると、伯父であり義父であるということになる。呉茂一が登場人物欄で「大体叔父に当る」と書いてあるのは、この辺の事情によるのではないかと思われる。ただ、叔父ではなくて伯父のほうがより正しいのではないかと思うが……?)

 

 大分ややこしいが、おおざっぱに、プロメーテウスとオーケアノスは、甥と伯父の関係であり、プロメーテウスと「オーケアノスの娘たち」は、いとこだと理解しておこう。神話内の系譜として、非常に近しい関係にあると理解していれば十分なように思う。  

神統記 (岩波文庫 赤 107-1)

神統記 (岩波文庫 赤 107-1)

 

 やっと本文に

最初のト書きは

序齣(コマ)、権力と暴力、巨人プロメーテウスを引ったてて登場、ヘーパイストスこれに従う 

 とある。四人の登場人物が同時に舞台に上がるが、暴力は終始無言のまま舞台からはけるので、俳優を三人しか使わないギリシア悲劇でも問題はない。

 冒頭の一シーンで、セリフを発するのは、権力とヘーパイストスの二人だけである。権力がヘーパイストスに対して口やかましく、プロメーテウスを岩山に縛りつけるよう迫る。権力がうるさくて、暴力が無言をつらぬくというのは示唆的である。

 火の神ヘーパイストスは、火を盗まれた当事者であるにも関わらず、プロメーテウスに同情的である。しかし父ゼウスの命令に逆らうわけにはいかないので、嫌々ながらという体で、プロメーテウスを縛りつける。ヘーパイストスは、プロメーテウスにも語りかけるが、この場面ではプロメーテウスにセリフはない。ヘーパイストスがプロメーテウスに語りかけるセリフの中で、印象的なフレーズを引用する。

正義をすすめる女神テミスの、慮(おもんぱか)りも高邁(こうまい)な息子(プロメーテウス)よ

 誰にしろ、新規に力を握った者は、荒っぽいのが普通だものな。

  最初の引用で注目したいのは、プロメーテウスの母がテミスとなっていることで、『神統記』によると、テミスはゼウスの二番目の妻であり(ゼウスにとっては伯母にあたる)エウノミアー(秩序)ディケー(正義)エイレーネー(平和)のホーラ(季節女神)を生んだとされている。ここでの呉訳では「正義をすすめる」とあるが、wikipedia大先生の引用を信じるなら「テミスとは古代ギリシア語で『不変なる掟』の意味であり、この名の擬人神」ということであり、また呉も他所で「テミスを現代日本語の概念に照らし合わせると「掟・法」の意味が近く、他方、ディケー(Dike)が「正義」の概念に近い」といっている。

 テミスの名が表すところが、法であろうと掟であろうと正義であろうと、大体近しく重なり合っている範疇にはある。問題にしたいのは、アイスキュロスが『神統記』の説を採用せずに、彼のオリジナル(?)として、プロメーテウスの母をテミス(不変なる掟)としたことである。アイスキュロスはわざわざ通説に逆らって(?)プロメーテウスを「掟の子」「法の子」である正義の人(正確には神だけど)としたのである。

 二番目の引用における「新規に力を握った者」とは父クロノスを倒して、覇権をにぎったゼウスである。ヘーパイストスの言葉は、父であるゼウスへの揶揄ととれる。ゼウスの息子にして盗難の被害者であるヘーパイストスに、刑罰への「批判」をさせているのだから、この場面でのアイスキュロスの作劇意図を読み取ろうとするならば、プロメーテウスへの同情と、ゼウスの処断への疑義とするのが自然だ。

 

 岩山に巨人神をはりつけるとだけ聞けば、凄惨な情景を思い浮かべるかもしれないが、権力とヘーパイストスのかけあいは、どこかおかしみを感じさせる喜劇の幕前劇のような雰囲気をもっている。悲劇のプロローグには不似合いな感じがする。ともかくヘーパイストスは権力にせっつかれて仕事を完成させる。権力が最後にプロメーテウスを嘲り、ゼウスの使いの三神は退場する。

 

・そして唐突に

 悲劇は完成する。

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 一人きりになった主人公プロメーテウスは、我が身の不幸をなげく。この時点で、まったく、完全に、悲劇は完成しているのである。なぜならば、『悲劇の中心は主人公の孤立にある』(ノースロップ・フライ)のであって、悲劇的英雄は、特権的な立場から没落し零落し、既存の社会から疎外、排斥される。

 まさに「世界の涯の」「吹き晒しの場所に、釘付けにされ、禁錮を受ける身」となったプロメーテウスはその典型である。『縛られたプロメーテウス』には、これ以上悲劇としての進展はない。確認とそれによる強調はあっても進展はない。単純で典型的な構造が、完成されているからである。

 このあとのプロットを簡素にして箇条書きするとこうなる

・コロス(オーケアノスの娘たち)登場

・オーケアノス登場、退場

・イーオー登場、退場

・ヘルメス登場

・ゼウスの雷がとどろき、プロメーテウスめがけて落とされる

 

 プロメーテウスに同情的なコロス(オーケアノスの娘たち)は、登場してから終幕までずっと舞台の上にいつづけるから、プロメーテウスが悲劇の主人公であることを守るために、コロスの助言を受け容れないとしても、たった一人きりで高山に縛りつけられているプロメーテウスという状況のほうが、より悲劇的な舞台状況だと言えると思う。

 オーケアノスおよび、その娘たち(コロス)が血縁的(また婚姻により)に近しい存在だということは確認した。オーケアノスの娘たちは言う。

ゼウスのほかは、誰としてあなたの不幸に同情して、怒りを覚えぬ者がありましょう。けれどもゼウスは始終悪意を抱き、かたくなな心を棄てずに、ウラノスの子の神々を平らげようとなさってから、その御心を飽かすまで、また誰かが現れその掌で、犯し難いその権威を、奪いとるまで止めないでしょう。

 冒頭でヘーパイストをつかってなしたように、アイスキュロスは、オーケアノスの娘たちの声を通して、ゼウスを批難、批判してみせる。

(ただし、ここで気をつけておきたいのは、悪意とか悪知恵とか奸智とかいうものは、『悪智恵たけたクロノス』という『神統記』の記述や、『オデュッセイア』においてアテーネー(アテーナー)がオデュッセウスに対し『……お前の相手が神であっても、よほど悪がしこい者でなくてはなるまい。……』云々と、英雄を讃え喜ぶ意味で言葉をかけたように、またソポクレス作の『アイアース』においては、またもアテーネーがオデュッセウスに向けた『自分の敵をあざけりわらうことこそは、この上ないたのしみではないか』というセリフからも分かるように、古代ギリシアにおいては、必ずしも否定的な意味をもつものではなく、というより、賞賛されるものでさえあったという事実である)

 

 プロメーテウスは、コロスの言葉に応えて、ゼウスが自分を再び必要とするときがくること、「あのこと」のためにゼウスがうちひしがれ、仲直りを望むようになるだろうとほのめかす。コロスがことの次第を聞かせてくれとせがむために、プロメーテスは応えるが、彼が語って聞かせるのは、ティターン族とオリュンポスの神々との戦いにおいて、彼がゼウスの味方についたために(プロメーテウスもティターン族であるにかかわらず、というよりゼウスとその兄弟も同族ではあるのだが)勝利を得ることになったという「自賛」と、人類を滅ぼそうとするゼウスの意図に反して、人類に火をはじめ色々なものをくれてやったということまで、であって、どのように未来においてゼウスがプロメーテウスと和解して、縛めが解かれるかということには言及しない。

 コロスは責め苦をのがれる手段を考えるようにうながすが、プロメーテウスはそれを拒否する。つまり、悲劇的主人公の典型の姿を守る。その上で、自分の運命、これからの未来をくまなく聞いて、不幸を分け合ってくれと、多少泣き言めいた言葉をもらす。

 それを遮るのは、コロスをなす娘たちの父親、オーケアノスである。

 オーケアノスの役割は、娘たちがなした以上のことを特に与えられていないように思われる。オーケアノスがプロメーテウスにすすめるのは、そう頑なにならず、ゼウスの許しを期待しろということである。そのために、自分がゼウスと掛け合おうと提案する。が、プロメーテウスはそれも拒否する。オーケアノスに我が身を心配しろと逆に助言をする。あくまでも「孤立」し「排斥」された自身の立場にこだわるのである。

 オーケアノスが退場すると、プロメーテウスは再び、自分が人類にほどこしてやったものをさらに詳しく語ってやり、そのあとで、再び、ゼウスに起こりかねない「災難」をほのめかす。コロスが話せとせがむが、プロメーテウスは応じない。コロスが嘆きの歌を歌い上げると、次にイーオーが登場する。

 

・牝牛となった少女

 ゼウスに愛されたために、牝牛に姿を変えられ、虻(あぶ)に追われて彷徨する身となった、あの哀れなイーオーである。ト書きには

少女イーオー登場、白衣、牛の角をつけた姿で、はるかの谷をゆくさま

とある。(ということはつまり、まるっきり牛の姿ではなくて、獣人とでもいうべき、現代ではケモナーなどと呼ばれる人々が喜ぶ姿の先駆をなしている、のかもしれない。ということは、バファローベルの原型は、本劇登場のイーオーである、のかもしれない。そうでなくても別に一向かまわない)

バファローベル公式フォトブック ベルがいっぱい(現代のイーオー?)

 

 イーオーが突然登場したのには理由がある。それは、プロメーテウスを縛めから解放するのが、イーオー(とゼウス)の子孫である、英雄ヘーラクレースであるからだ。(もっとも本作では、ヘーラクレースの名は明かされない。次につづく『縛めを解かれるプロメーテウス』を待つよう、アイスキュロスは観客に強いる)

 また、イーオーはゼウスの横暴を象徴する存在でもある。本作のプロメーテウスのセリフによると、ゼウスは人類を滅ぼすつもりであったのに、その人類の一人である少女イーオーに懸想し、さらには恥辱と艱難を味合わせ、交合して子を成すことを望むのは、明らかにゼウスの矛盾であり、不正義だからである。プロメーテウス一個の問題であれば、彼は火を盗んだわけだから、少々罰が過酷だったとしても、弁護可能である。しかしながら、プロメーテウスが人類を愛したことを罰しているにもかかわらず、自分が人類の女を欲し、一時的にも妻として求めるというのでは、ゼウスの処断に大きな疑義を生じさせる。

 プロメーテウス、イーオー、コロスの三者によるやり取りの中で明かされるのは、

・イーオーがなぜ牝牛の姿に変じて、この場にたどりついたか

・イーオーにこの先どんな運命が待ち受けているか

・ゼウスが結婚によって、すなわち「父より強い子を生む」とされる女をめとることによって、位をを追われる可能性があること

・ゼウスが災難からまぬかれるためには、プロメーテウスが縛めより解放される必要があること

・プロメーテウスを解放するのは、イーオーの子孫であること

である。

 (ゼウスの位を脅かす「父より強い子」といわれて、すぐに浮かびそうなのがアテーネーであるが、そうではない。ここでいう「父より強い子を生む」というテミスの予言をうけたのは海の女神であるテティスであって、結局、ペーレウス(人間)と結婚した。生まれたのが、トロイア戦争最大の英雄アキレウスである)

終わり

 ヘルメス(ヘルメース)が現れる。彼は神々の使者である。

 ヘルメースとプロメーテウスの間にはとくに因縁はないが、前出のイーオーとヘルメースには因縁がある。ゼウスがイーオーに懸想した際、妻ヘーラーにそのことがばれた。ヘーラーは牝牛となったイーオーをゼウスから譲り受け、全身に目がついたアルゴスを見張り番にした。ヘルメースはゼウスから牝牛(イーオー)を盗むように言われ、石を投げつけてアルゴスを殺した。そのため、アルゴスの殺害者という異名を持つ。

 今回も、ヘルメースは、ゼウスに命じられてやってきたのである。ゼウスが位を追われる原因となる結婚、というものが何なのか聞き出しにきたのである。

 プロメーテウスは応じない。ゼウスのほうから使者をたてのたのだから、今交渉して、自分を解放するよう言えばよいものであるが、悲劇的英雄はそうしない。それは『縛めを解かれるプロメーテウス』の中で成就されなければいけないからだ。

 プロメーテウスは「新米の」神に向かって、こういう毒舌を浴びせる。

お前の卑しい隷従の身と、私の災難とを、はっきり弁えておけ、取りかえなどはしまいから。  

(ヘルメスの「全くお前は、慎みなどはてんで知らない男だ」というセリフに答えて)

そうさ、さもなきゃお前のような下郎などには話しかけまい。 

 英雄は最後まで誇りと威厳を失わない。

 それは、疎外され、排斥されることに自ら固執することによって成される。

 悲劇は、冒頭はりつけが終わった時点で完成されており、次々に登場する人物は、すでに完成されてある悲劇の、確認・強調・補強といった意味に過ぎないのだ。

(ゼウスの怒りの雷は、『悲劇の原型的な主題であるパトス(破局)』(フライ)を象徴するといえるかもしれないが、プロメーテウスがこのあと無事に(?)、高山に縛りつけられたまま、鷲に肝臓をついばまれることになるのは、誰もが知っていることだから、やはり、終幕の合図という意味合いが強いと思われる)

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇

ギリシア悲劇全集 第1巻 アイスキュロス篇