人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

アメリカ大統領選の本当の敗者は? 隠された争点としての「メディアと政治的正しさ」

 日本国内でこれまで報道されてきた「トランプ旋風」の中身と要因は、「強いアメリカ、偉大なアメリカを取り戻す」というスローガンと、既存の政治、政治家への失望と怒りといったものばかりだった。

 しかし、選挙直前の当選予想と、選挙結果の乖離からみて、アメリカ国民の間に、「既存メディアへの失望と怒りと懐疑」があったのは疑いようがないように思われる。

 イーストウッドがかなり消極的なトランプ支持をインタビューで公にしたとき

 日本国内でも、イーストウッドの発言に失望したり、あからさまな侮蔑をあらわす人々がSNSで多々見られたが、彼等には今回の米大統領選の結果は受け入れられないものだろう。

 こういう人達は、普通、左翼とか、左派とか、リベラルとか呼ばれる領域に属する、「良き人々、心やさしい人々」である。(言わずもがなの蛇足だが直近の「」の中の語句は皮肉である)彼等は、当然、トランプを激しく攻撃していたアメリカの(左派)メディアの心情に寄り添っている。

 彼等が用いる「政治的正しさ」の一つに、「多様性」という言葉がある。しかしながら、彼等が望む「多様性」を彼等が望むように社会全体に、世界全体に押し広げることができたとして、その結果は、果たして「多様性のある社会」「多様性のある世界」が出現するだろうか。答えはNOだ。それは一つの思想によって覆われた社会、世界であって、多様性の真反対である「画一化された社会」「画一化された世界」でしかない。

 これは明らかな矛盾であって、彼等の「偽善」をよく表している。彼等は、「われわれの信じる正義に沿った社会に世界を変革するために、画一化を推し進める」とは主張しない。そのために持ち出すのは「多様性」という魔法の言葉である。彼等は、どうしても、このような自らの偽善と矛盾に向き合おうとしない。

 彼等の矛盾と偽善は、「多様性」という言葉だけで発揮されるわけではない。多様性という言葉によって画一化を推し進めるように、言論と報道の自由を叫びながら自分達への反対意見を表明する自由を制限しようとし、人権を擁護し差別に反対すると言いながら、自分達がレイシストと認定した者を人間あつかいしない。平和をうたいながら、その実誰よりも攻撃的な性向を有しており、寛容さを装いながら排他的である。

 

 うんざりしている。みんな、うんざりしているんです。あなたがたの、その偽善的な、いい子ぶりっこに。いい大人になってから、小学校の学級委員みたいな口振り、身振りをして悦に入っている、厚顔無恥な阿呆面に。

 

 しかし、ともかくトランプは違った。彼は「画一性」や、反対者への「自由の制限」や「侮蔑」や、「攻撃」や、「排他性」を口にするとき、「政治的正しさ」などというオブラートで包んだりはしない。むしろ彼こそは、「政治的正しさ」という現代が生み出した怪物、誰一人その首に鈴をつけることができない怪物に、ほとんどただ一人敢然として挑んだ「英雄的人物」である。(これも言わずもがなの蛇足だが直近の「」の中の語句は皮肉である)

 

 メディアに登場し、「われわれ庶民は」とか「われわれ市民は」とか「われわれアメリカ国民は」とか、いけしゃあしゃあと口にする「ふざけた奴ら」は、(なぜだか日本のメディアではあまり「われわれ日本国民」という言い方を聞かないような気がするのは気のせいだろうか)移民や難民を今以上積極的に受け入れ、移民難民を公平にあつかうよう訴えはしても、移民と、ことにも貧しい移民とは、生活を接しない。

 不法移民のヒスパニックが住む貧民街に、もしくはその近くに住むのは、メディアに出て無邪気に「正義」をふりかざしている彼等ではない。

 日本に限っても同じことである。中国人の移民と同じボロアパートに住むのは、彼等ではない。

 低学歴の、低収入の、したがって貧しい、従来からその国に住んでいる社会的弱者が、貧しい移民と生活領域を重ねるのだ。

 

 「まるで他人事だから、知ったことではない」

 特権的な立場にいるメディアがおこなう報道から、こういうメッセージを読み取るのはたやすい。そして、そういう「メッセージ」を読み取って反発する者達へ、彼等がとる態度は、攻撃と侮蔑である。彼等は決して「低学歴の白人」式の「隠された弱者」すなわち「報道しない自由」によって「彼等が隠している弱者」に寄り添おうとしない。

 しかし、彼等は「心やさしい」「良き人々」だと自認しているのではなかったのか?

 彼等は、自らを「弱者の味方」だと喧伝してきたのではなかったか?

 

 果たして、これほどに偽善と矛盾に富み、なおかつ傲慢でさえあるという態度が、いまだかつて歴史上に存在しえただろうか?

 

 トランプは「政治的正しさ」を攻撃した。それは実際、別の意味で「政治的正しさ」と同じくらい、もしくはしばしばそれ以上に、嫌悪をもよおさせたり、うんざりさせるものではあっただろう。ばかばかしくもあっただろう。

 ヒラリーはそれを当然のように攻撃した。「政治的正しさ」にのっとって、あまりにも「正しく」批判した。しかし、共和党の予備選の段階からそうであったはずだが、それはトランプの競争相手にとって罠であった。

 「政治的正しさ」を武器にトランプを攻撃すればするほど、庶民としてのアメリカ国民、沈黙する凡庸な多数としてのアメリカ国民の目には、その偽善と矛盾と傲慢さが露わになってしまうからである。

 たとえヒラリーの批判が、相当程度まっとうだと思われても、である。アメリカ国民はヒラリーを信用していなかった。メディアを信用していなかった。政治的正しさを信用していなかった。

 

 アメリカのメディアが当初よりヒラリー寄りで、メディアとして最低限の公正さをも保持できず、世論を誘導しようとしていたことは……と言って言い過ぎだというなら、もう少しだけ穏当に、当初よりヒラリー寄りだったアメリカメディアは、そのために、トランプを支持する人々の心情を理解したりくみ上げたりするどころか、無視したり、侮蔑したりしていたことは、蓋を開ければ完全にあてを外した選挙結果をみれば明らかだ。

 

 とにもかくにもトランプは勝った。

 ヒラリーは「政治的正しさ」とともに倒れた。

 メディアと左翼的な人々は、溜息をつきつつ、大げさな身振りで失望し、トランプに投票した有権者をバカにすることだろう。彼等のそういう態度こそが、トランプの勝利を支えたという事実に、微塵も気付くことなく。

 

 しかし、「政治的正しさ」は本当に倒れたのだろうか? トランプ自体が、「政治的正しさ」という怪物があまりにも猛威をふるいすぎたことに対する反動としての「徒花」(少なくとも現時点では)に過ぎないのに。

 怪物はたとえ倒されたとしても復活し、少なくとも三度はわれわれの前に姿を現すというのが、怪物を生み出してしまった世界にある極めて拘束性の強い約束事である。はてさて、この世界ではどうなることだろう。