人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

Taro said "I love You."のアイラブユーの部分を、メタ物語世界だと言っちゃだめなのか

 ジェラール・ジュネットの提唱した用語に、異質物語世界と等質物語世界というのと、物語世界内と物語世界外というのがあってややこしい。

 

異質物語世界の物語言説とは、語り手が自分の語る物語内容に登場しない場合

等質物語世界の物語言説とは、語り手が自分の語る物語内容の中に、作中人物として登場する場合(つまり語り手の太郎と、作中人物としての太郎という二つの機能に区別できる)

(厳密性が薄れるから、なるべく使いたくけれど、一人称小説と三人称小説という言葉をあえてつかえば、いわゆる典型的な一人称小説は、等質物語世界、いわゆる典型的な三人称小説は、異質物語世界となる)

 

物語世界内/外というのは、ジュネットが例えにだしたように、漫画の吹き出しを考えるとわかりやすい。

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 われながら立派なものだ。涙がでそうである。

 この入れ子になっている吹き出し一つ一つを物語世界だと考えると、語り手Aがいる地点が物語世界外となり、Aが生産した吹き出しの内部はすべて物語世界内となる。

 千夜一夜物語の第一次の語り手はA、第一次の物語世界内の作中人物Bであるシャハラザードは、語り手Bとしてメタ物語世界(第二次の物語世界)を語る。そのなかに作中人物Cであるシンドバッドが登場する。以下続けようと思えば、メタ物語はいくつまでもつづけていける。

 ちなみに、語り手太郎が、作中人物太郎の登場する物語世界を語る場合は、語り手としての太郎はAの位置にいて、作中人物としての太郎はBの位置にいる。

 

どのような物語言説であれ、語り手の境位を定義するにあたって、その語りの水準(物語世界内か物語世界内か)と、物語内容に対する語り手の関係(異質物語世界か等質物語世界か)とに同時に着目するなら(略)四つの基本的タイプとしてあらわすことができる。

⑴異質物語世界外のタイプ 範列──自分自身は登場しない物語内容を語る第一次の語り手ホメーロス。

⑵等質物語世界外のタイプ 範列──自分自身の物語内容を語る第一次の語り手ジル・ブラース。

⑶異質物語世界内のタイプ 範列──自分自身は概して登場することのないいくつもの物語内容を語る第二次の語り手シャハラザード。

⑷等質物語世界内のタイプ 範列──自分自身の物語内容を語る第二次の語り手である、第九歌から第十二歌までのオデュッセウスである。 

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

物語の詩学 ─続・物語のディスクール 叢書記号学的実践 (3)

より。

 

 これらを踏まえて、タイトルの Taro said "I love You." という「再現された言説」にもどる。

 第一次の物語言説を生産する物語世界外の語り手Aは、作中人物として登場しないある何者か、つまり異質物語世界外のタイプとする

 Taroは作中人物として、Bの位置、第一次の物語世界内にいる。

 ここで、Taroが言い放った I love You. という短い言説は、第二次の物語言説(メタ物語言説)たりうるかという問題である。つまり、Taroは、4番目の等質物語世界内タイプの語り手といっていいか。どう考えても、そうならない訳がないと思うのだけど、もし間違っているとしたら誰かに教えて欲しいという他力本願である。

 

 物語というには短すぎるという意見がもしあるとするなら、どのくらい長ければいいのだろうか。

 オデュッセウスの語りは、オデュッセイア中の第九~十二歌までという長さの語りが与えられている。それだけ語れるほどの能力を、ホメーロスがオデュッセウスに与えたからである。しかし、もしもオデュッセウスがバカであったり、ぜんぜん詩才がなかったり、面倒くさがりだという性格設定をされていて、「とにかく色々あって大変でした」だけで、自身の苦難の冒険譚を終わらせたとしたら、彼は第二次の物語世界の語り手としての地位を、奪われてしまうのだろうか。

 奪われてしまうとして、例えば、どのくらい長くつづければ、再び語り手として認定されるのだろうか。それは誰にも言えないはずである。

 ジェラール・ジュネットは、

「私は歩く」とか、「ピエールがやってきた」といった程度の言表でも、私に言わせるならば、物語言説の最小の形態なのである。 

 と言っている。

 とするならば、「私はあなたを愛しています」も当然、一個の物語言説といえるのだから、そこに、第二次の物語世界がつつましくもしっかりと成立していることになる。

 

 とするならば、である。ほとんど全ての小説、というのは、作中人物の会話をもつ小説、または作中人物の内的な独白をもつ小説は、その会話の数だけ、内的独白の数だけのメタ物語世界(第二次の物語世界)をもっていると言っていいわけだ。

 つまり、ほとんどすべての小説は、沸騰した鍋のように、ぼこぼこぼこぼこメタ物語世界を読者の前に生産してみせているということになる。

 

 再現されたtaroの言説と、オデュッセウスの語りによる物語言説に、決定的違いが見当たらない。

 

これって間違ってる?