人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「移人称小説」なる造語を笑う

ために↓を手に入れていくらか前に読もうとしたが、ひどすぎて真面目に扱えるしろものではない。

小説技術論

小説技術論

 

  人称の変化なるもの(例:一人称→三人称→一人称)は、典型的な「俗に一人称小説といわれるもの」においても普通に行われるものである。たとえば

私は太郎だ。私には一人の親友がいる。彼の名前は次郎。次郎には恋人がいる。彼女の名前は花子。花子には、次郎のほかにもう一人、恋人がいる。彼の名前は三郎。 

  というように。「俗に一人称小説と分類される小説」においても、文法的に、三人称が主語の文章は数多く出てくる。したがって「移人称小説」なる造語がそもそも馬鹿げていることは間違いない。

 『小説技術論』内でとりあげる、また昨今流行っている(どうももう廃れたみたいだが)とされる、叙法は、上に掲げた文章とはもちろん違う。俗に『「視点」の問題』(笑)もしくは『「視点」のぶれ』(笑)などと呼ばれていた(いる)ものだ。

 ここに一つの問題が生じる。一体、小説における「視点」とは何か、という問題だ。

 「視点」という文芸用語(もどき)の問題点は、「視点」という一つの言葉が、「見ている主体」と「見られている対象」の二つを含んで用いられていることにある。あるときは、「主体」(小説の場合は、つまり「語り手」である)について用いられ、あるときは「対象」(小説の場合は、「語られるモノ」)について用いられる。その選択は恣意的である。いやむしろ、「主体」と「対象」の区別を曖昧にしたまま、なんとなく用いられる。

 『私は太郎だ……』からはじめた上の文章を読めば分かるように、小説においては、「語られる対象」が移っていくのは当たり前の現象だ。

 『移人称小説』という笑うべき造語が対象としたいのは、『語り手』が移り変わっている小説だろう。「語り手」が別人になってしまう、もしくは同一の「語り手」の性質が変わる(立ち位置が変わる)小説である。

 であるならば、単に、「語り手が変化する」小説といえばよい。そうせずに「移人称」などという、実態から乖離した、なんらかの内容をそなえているようで、その実、空疎な名称を与えるのは、著者が不真面目であるか、端的に言って、批評家としての能力が欠如しているとしか思えない。

 ところで、「語り手の変化」という点について考えてみても、古典的な小説(散文作品)においてですら、格別おどろくべき現象ではない。「千夜一夜物語」では、小説の物語世界の完全な外部(第一次の物語世界にも属さず、その外にいる)に属する語り手が、「非情な王とシエラザード」の物語を語りはじめるが、語り手の地位は、第一次の物語の内部に属するシエラザードに引き継がれ、彼女が、第二次の物語世界である、たとえば「アリババと40人の盗賊」を物語る。

 

 もちろん、(もう流行は終わったようだが、少し前から)数年間流行っていたかに思われる「語り手の変化」は、「千夜一夜物語」とは多少違ってはいるだろう。(本質的にはさほどの違いがないように個人的には思うが)

 一つには、語り手の変化、(語りの)バトンの受け渡しが、曖昧で分かりづらく書かれるという点だ。古典的な小説では、語り手が交代する場合には、読者にもはっきりと交代したと分かるように書かれる(ことが「普通」だろう)。しかし、現代小説において、現代の作家がこれを実践、ことにも、こういう操作を一種の「実験」または「新しい表現(笑)」として意識して行う場合、読者を戸惑わせるように書くということだ。(その効果については正直懐疑的だが、しかし何らの効果もないとは言い切れないかもしれない)

 もう一つは、誰かにバトンを受け渡すのではなく、バトンを持っている語り手自身が、その性質を変化させる場合である。

 例えば、「アリババと40人の盗賊」という物語を語る際、はじめから自身を「私」と称する主人公アリババが語っても問題はない。典型的な「登場人物が語り手である小説」(この場合は主人公)であるならば、アリババが見て、聞いて、感じたことだけを物語るだろう。しかしながら、「実験的(笑)」な「新しい(笑)」小説においては、語り手についてある操作が行われる。

 例をあげれば、原典(元々の「千夜一夜物語」)では、第二次の物語の内部に属するはずの「私」であるアリババが、「私」であるアリババのままに、シエラザードが属する第一次の物語世界に立ち位置を移して語ったり、さらに「私」であるアリババのままに、第一次の物語の外部にまで立ち位置を移して、語りを行ったりするのである。

 これは従来の、「伝統的な」小説技法においては、「コード違反」とされきたことであり、(その「違反」を逆手にとった、メタ的なジョークはともかく)読者には、この手の「違反」について、現代であっても、異議申し立てをする権利は残されているだろう。

 今ここで指摘しておきたいのは、純文学界隈でちょっとの間流行ったように見え、また必然的に(多分)すぐに廃れてしまった「視点の操作(笑)」とか「視点の移動(笑)」とか「人称の自由(笑)」いう言葉に関連した「技法」は、『「私」という人称を保持し続ける語り手』であっても行えるものだということだ。その点から言っても、「移人称」などという造語がデタラメなしろものであると分かる。

 

 もう一つ、この『小説技術論』の「移人称」に関する部分に目を通していて腹が立つのは、著者はジュネットを引用しておきながら、「焦点」という批評用語を持ち出して、「焦点=(視点)」などと記述している点だ。

 ジュネットは『小説にはカメラは存在しない』といって、従来使われていた「視点」という用語を排して、「焦点化」とか「語りの焦点」という用語を採用した人であって、それは、「語る側(語り手)」と「語られる対象(焦点化されるもの)」を切り分けるために、そうしたのである。

 当然、「焦点=(視点)」などと臆面もなく書ける渡辺直己にそんな意識はない。わざわざ「焦点」という言葉を使いながら、ジュネット以前の問題意識、つまり「視点」という用語の曖昧さ、恣意的な選択による混乱をそのまま継続している。

 要は、「焦点」という言葉を採用したのも、「移人称」という実態とかけ離れたネーミングと同様、単なるこけおどし、に過ぎない。

 著者は巻末に、この本が読者の再読にたえればよいが、という旨書いていたと思うが、とても初読にもたえられるような内容ではない。誰かさんの太鼓持ちをこなしていればよいものを、歳をとって名誉欲にかられたか、下の人間に頭を下げられて自分を見誤ったのか、とにかく、自分の能力にふさわしくない仕事に、まともな準備もせずにとりかかって、それ相応のものを書き上げたといった無惨な出来である。私はこういう批評家のいる現在の文壇なるものを大変に頼もしく思うし、こういう批評家にこういう駄文を書き散らせる現在の文芸誌に賛嘆をおしむつもりはない。最後に、著者と、また彼を持ち上げる各文芸誌各編集者を言祝いで、このどうしようもないエントリをしめくくることにしたい。

 

 

(付記:ただ「何の価値もない」という内容を言い捨てるために、なるべく短く書こうとしたにも関わらず、中途半端に長々とした文量にならざるをえなかった自分の能力を恥ずる)

 

※もしも当エントリに言及される場合があるとするなら、どうかお願いですから下の二冊を読んでからにしてはいただけないでしょうか。(ブログ(笑)なんかを読んでいるよりは100億倍有益であるのは間違いありません)

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))

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物語の詩学 ─続・物語のディスクール    叢書記号学的実践 (3)

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