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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「新しい文学」に逆らって

 時代は「新しい」ものを求めている。誰も彼もが、「新しい」人を、技術を、思想を、組織団体を、政治を、社会を、求めている。今さら生み出されるものの中で、「新しく」ないものに何の意味が、何の価値があろうかというわけである。

 文学といわれるものでも事情は同じだ。「現在の文学」が求めているのは、ということはつまり、現在の「文壇」が求めているのは、ということはつまり、現在の出版社・編集者が求めているのは、新しい人、新しい文学、新しい小説である。もっとも人については、現在活躍している作家でもいつかは死ぬと決まっているから、いくらかでも「新人」は補充されなければならない。ただし、当然のこととして、新人の作品の内容には、「新しい文学」が求められている。

 web上には、「純文学とは前衛文学だ」という無邪気な定義を、無邪気にふりかざす人たちが散見され、それは筒井康隆あたりが言ったことを、真に受けているのじゃないかと思うが、とにかく、「新しくなければ価値がない」流の「信仰」は根深く、そうして、ほぼ全領域を覆いつくさんといった状況だ。

 

 僕はタイトルに「逆らって」と書いているくらいだから、それをよしとはしない。僕が「信仰」というべきか、ともかく今現在、事実として認めているのは、『文芸には進歩も進化もない』という言葉である。

 もしも、文芸が日々進化し、日々進歩し、新しくなり、そのことに価値ありとされるならば、文芸には「新しい文学」と「古い文学」があり、前者が「新しい」という理由によって、後者より優れているとなってしまう。

 それは、文芸を新聞と同じにしてしまうことである。明日になれば、古新聞としてトイレットペーパーと交換するほかないようなもの、それが新聞だ。「新しい文学」も同じように、明日になってまた、「より新しい文学」が登場すれば、『今日の「新しい文学」』はすぐさま色褪せる。雑誌や本はトイレットペーパーに交換できるかもしれないが、「新しかった文学」や「かつて流行した文芸」という概念は、捨て去られるだけである。

 そもそも、「新しいか古いか」ということは、成立した時間の前後の問題であって、価値判断とは本来無縁のはずである。「新しい」何ものかは、時間がたつほどに、新しさを失い、「価値」を失っていく。そうであるならば、「新しい文学」はそれが成立した時点で、それが誕生したその時にはもうすでに「古い」のだという事実に、どれほどの人が自覚的であるだろう?

 もっとも、新聞も昨日や一昨日くらいに古いものではなく、大変に古いものになると、資料的価値が生まれる場合がある。そうであるならば、ホメロスやシェイクスピアも、単に資料的な価値があるというだけの代物なのだろうか?

 文学とは歴史性をもったものだ、という意味のことを言ったのは、坂口安吾だったと思う。(確認するのが面倒くさい)フリードリヒ・ニーチェは、(これは文芸には限らないが)作品というものは、後になって「時代性」が死滅したあとにこそ、「永遠の眼」を手に入れ得ると言った。

 僕は文学とは歴史性のあるものだと信じ、ただ優れた作品だけが後世に残るという事実を認める。(僕の仕事がそのような優れた文学とは永遠に無縁だとしても)

 今日、活躍する作家や、褒めそやされている作家の99.9%は、その「時代性」とともに死滅するだろう。けれども、優れた作品のみは残るはずだ。

(ただし、その信仰も今は揺らいでいる。それは、「新しい文学」ということを認めたからではない。「新しさ」に邁進する現行の「文学」は、必ずしも繁栄していない。むしろ、多くの人が、その衰退を指摘し、もはや指摘することさえ馬鹿馬鹿しくて放置されているような状態だ。現在の(わが国の)文学は、その新しさと共に徐々に死滅に向かっているように思われる。もうすでに死滅したと言う人もいるだろう。であるならば、優れた作品であっても残るはずもない)

 

 われながら、どうしてこんな隘路に興味関心をもって、自らをそこに追い込むように生きてきたのかと思うと呆然とする。もはや、ただただ、自分の信じる、事実だと認める道を行くしか方策が見当たらないのだ。「新しさ」に価値を見出すことをしなければ、かつての、「古い」文芸全体は価値にあふれている。

 『文芸には進歩や進化がない』ということを言った批評家は、ノースロップ・フライである。フライは、別の場所でこう書いている。

新しいものは何もないということに気づいた時に初めてわれわれは、すべてのものが新しいものに変わる強烈な生き方ができるようになるのである。