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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

「我らにとってかくも理想的な未来」という悪夢──『すばらしい新世界』

 ディストピア小説、それも超有名なディストピア小説である。

 この小説のなにが一体おそろしいのか。たとえば同じディストピア小説の『1984年』とくらべてみて、どういう風におそろしいのか。『1984年』が描く管理社会もまたおそろしい世界である。しかし共産主義やファシズムによる全体主義をモデルにしているために、われわれはすぐに社会の禍々しさに気づき、嫌悪をもよおすことができる。

 しかしながら『すばらしい新世界』のおそろしさは、その管理社会が、おそろしいにも関わらず、つまり、おそろしいものだと気付いてなお、すばらしいものに思えることにある。少なくとも私にとっては、そして残念ながら、多分、「われわれ」にとっても。

 もちろん、題名にある『すばらしい』(原題『Brave New World』の『Brave』)という言葉は、作者によって皮肉として与えられた形容詞である。にもかかわらず、この小説で描かれる世界は、おそろしいにも関わらず、皮肉ではなく、すばらしい世界なのだ。では、どのように「おそろしい=すばらしい」世界であるかについて、少し詳しく見てみよう。 

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 

  オルダス・ハクスリーによって1932年に発表された『すばらしい新世界』は未来を描いた小説である。もっとも、小説内では西暦は廃止され、T型フォードが発売された1908年を元年としたフォード紀元が用いられている。(手元の講談社文庫では1909年にはじめて完成と注釈があるが……Google大先生が指し示すのはいずれも1908年なのでそちらを採用する。余談だが、21世紀の作家がディストピア小説を書くなら、Google紀元を採用すべきかもしれない)

 小説が物語るのは、フォード紀元632年ということだから、西暦に換算すると2540年になる。フォード紀元141年にはじまった「九年戦争」により、世界は甚大な被害をこうむり、人々は破滅をまぬかれるため、世界的統制による「安定」を選んだ。

 「九年戦争」以前に出版された書物はことごとく捨て去られ、それまでの歴史も文学も宗教も否定された世界だ。キリストのかわりに自動車王ヘンリー・フォードと大量生産の教えが信仰の対象になり、十字架は頭を切り取られて、T字型になっている。

 安定と統制の核になっているのは、アルファ(α)、ベータ(β)の上流階級と、ガンマ(γ)、デルタ(δ)、エプシロン(ε)の下流階級によって構築される身分制度である。

 どの階級も人工授精と孵化器(人工子宮)によって、完全に人工的に「生産」される。ただし、下流階級の人間は「ボカノフスキー法」によって、一つの卵子から最大で九十六人も大量生産される。さらに、階級がさがるにつれ、酸素量を減らしたり、アルコール液につけるといった処理により、外見を段々と醜く、また能力を劣ったものとして「生産」することが可能になっている。

 階級間の摩擦・軋轢を起こさせないため、「睡眠時教育法(ヒプノペーディア)」や「新パヴロフ式条件反射訓育」といったプラグラムを幼少時から課すことにより、それぞれの階級に属する者達は、自分達の階級に愛着を抱き、下級階級に属するものですら、上級階級への嫌悪感を催すように教育することができる。たとえばこんな具合に。

「……彼らはあの仕事が好きなんだ。軽い仕事で、子供にもできるほど簡単だから。頭も筋肉も疲れさせなくてすむんだ。ほどほどの疲れない労働を七時間半、それからソーマの配給とゲームと無制限な性交と触感映画(フィーリ)。これ以上何を注文できるかね?

 人間は「体外増殖」によってのみ「生産」されるので、親と子という関係も、兄弟姉妹という関係も否定され存在しない。家族という概念も実体も存在しない。

 セックスによる妊娠はまったく認められていない。そのため妊娠可能な女性は、避妊薬帯をつけなければいけない。そのせいで上の引用にあるようなフリーセックスが可能になる。可能になるというよりも、積極的に推奨される。この世界では恋人という存在は忌避され否定される。たとえばこんな具合に。

「……たった一人の男の人をいつまでも相手にしつづけているのは、ほんとにひどい不品行なんだから。……それに、熱中したり永続きしたりすることには所長さんがどんなにはげしく反対していらっしゃるかはよく知っているでしょう。ほかの男とは一人もなしに、ヘンリー・フォスターと四ヶ月も──ほんとに所長さんに知れたらそれこそひどい御立腹よ……

  なんと、おそろしくて、すばらしい。さらに、これも最初の引用にあるように、どの階級の人間にも、障碍ゲーム電磁ゴルフといったゲームと「触感映画」のような娯楽が保証されており、それでも満たされなかったり、精神が不安定になるような場合、いやもしくはただ単に暇をもてあましてしまった場合のために、「ソーマ」というアルコールとキリスト教の長所だけを併せ持った、副作用のない薬が配給されている。

世界複製: 人類滅亡から一一八〇三日目

世界複製: 人類滅亡から一一八〇三日目

 

  これらが『すばらしい新世界』というディストピアのだいたい全ての内容である。

 そうして、これらはどう考えても、現代のわれわれの理想社会である。

 なるほど『すばらしい』世界には身分制度がある。しかも皇族や王族といった限定的なものでなく、社会全体にわたって、すべての人間に関わる身分制度である。これは完全に民主主義に反する。しかし民主主義に反するからといって何であろう。現実のわれわれが暮らす民主主義社会において、建前上平等とされる人々の間にも、実質的な階級が存在するではないか。

 そして下の「階級」に属する人間は、自らの環境や不運を呪い、上の階級に属する人間の幸運を妬み、それが実力ではなく不正によって得られたものに違いないと不平をこぼす。多くの人間が、自分はもう少し上の階級にいるべき人間ではなかったかと不満を抱いている。たとえアルファ階級は無理であっても、自分はベータ階級に属するべき人間ではないかと。彼はベータ階級に属しているが、本来ガンマ階級程度の能力しか有していないではないかと。

 けれども『すばらしい』世界では、すべての人間が、生まれながらにして、それぞれふさわしい階級に配置される。誰もが自分と自分の階級に満足して、上の階級を妬むということがない。そのため誰もが幸せなのである。理想的な階級制度によって、格差という問題は雲散霧消する。

 恋人が存在しないということは、恋愛が存在しないということだから、愛だの恋だのに関連して誰かを憎んだり、争いをするということがないのだ。けれどもセックスは存在する。完全に安全なフリーセックスは、どう考えてもわれわれの時代の理想だ。同等の階級に存在している男女は、すべて『すばらしい』性的対象なのだから、相手が不足するということもないし、嫌で仕方ない相手に執着されるということもない。たまたま彼や彼女が気乗りしないという理由で今日の相手を断っても、ちょっと視線を変えるだけで、そこには完全に同程度に好もしい別の彼や彼女が、セックスの相手として、あなたのことを待っていてくれる。

 家族が存在しないので、家族間の憎しみ、揉め事、わずらわしい一切のことがらが存在しない。あるのはただ、気のいい友人たちとの交際だけである。

 『すばらしい』娯楽はすべての人間に保証されている。

 そうして極めつけが『ソーマ』だ。現代はやっと大麻を認める国がぽつぽつと出てきた程度である。ソーマはその上、宗教的陶酔さえわれわれにもたらしてくれるのである。

 格差間憎悪の解消、フリーセックス、充実した娯楽、ソーマ。これ以上、われわれの幸福にとって何が必要だろうか?

 この小説に出てくる野蛮人ジョンの苦悩と悲劇など、何も問題にはならない。なぜならジョンは、はっきりと愚か者だからである。

 歴史? 文学? 美術? 音楽? その他のあらゆる芸術? 宗教? なぜそんなものを問う必要があるだろうか。それらはすべて古いものだ。われわれは常に新しいものを、新しいものだけを欲しているではないか。われわれを満足させるのは、新しい時代、新しい文学、新しい音楽、新しい芸術だ。古い宗教のかわりをするものが、新しいフォードのT字とソーマであって何の不都合があろうか?

 ハクスリーは、題銘として、ニコライ・ベルジャーエフの文章を引用している。それをこの記事の終章として再引用しよう。

ユートピアはかつて人が思ったよりもはるかに実現可能であるように思われる。そしてわれわれは、全く別な意味でわれわれを不安にさせる一つの問題の前に立っている──「ユートピアの窮極的な実現をいかにして避くべきか?」……ユートピアは実現可能である。生活はユートピアにむかって進んでいる。そしておそらく、知識人や教養ある階級がユートピアを避け、より完全ではないがより自由な、非ユートピア的社会へ還るためのさまざまの手段を夢想する、そういう新しい世紀が始るであろう。

  しかし、われわれは、21世紀の新しい世紀に生きるわれわれは、ユートピアの実現を避けはしないだろう。然り。たしかに生活はユートピアにむかって進んでいる。むしろ、知識人や教養ある階級を自称する人たちによって、進まされてきたのだ。自由は、不安定と不幸に耐えうる、一握りの選ばれた強者にのみ享受できる趣味である。われわれ選ばれなかった大多数の弱者は、完全に安定した幸福を望むだろう。フリーセックスを、充実した娯楽を、ソーマを、この、かくも理想的なディストピアを!

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