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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

百科全書的もしくは世界を摸造する小説3冊「ガリヴァ旅行記」「高い城の男」「山椒魚戦争」

要は自分が偏愛する小説を紹介しようということです。

 「百科全書的」という言葉があって、それは「文学」のジャンルというか分類というか(同じ意味か)とにかく、ある特徴をもった「作品」をまとめてそう呼ばれる。

 特徴というのは、網羅的であるということだ。百科全書(辞典)は、世の中の森羅万象ことごとくを取材し、記述し、説明しようと意欲されたものである。しかし「百科全書的文学作品」は、世の中のもの全てについて作品の中で言及する必要はない。それでは「百科全書そのもの」になってしまうからである。あることがらについて、網羅的でありさえすればいい。

 例えば平安後期の貴族の生活様式について網羅的に記述してあるとか、一章ごとに文章の調子を変えて、一作品内であらゆる文体を試してあるとか、色々のギリシア哲学を下敷きにして書かれているとか、「あることがら」はなんだっていい。

 なんだっていいというからには、80年代に活躍したアイドルが引退したあとのそれぞれの人生を取材しているのでもいいし、サイダーの王冠デザインの変遷を網羅的に説明しているのでもいいわけだ。

 と考えれば、一口に「百科全書的」という「ジャンル」といっても、作品としての様態は様々、もしくは、てんでばらばらになりそうだ。「百科全書的作品」が好きだと言っても、とにかく注釈がいっぱいついている作品ならなんでも喜ぶというわけでも、総合小説と呼ばれるような小説を読みたいと思っているわけでも、特にない。

 私が好きなのは、もしくは強い興味を抱くのは、世界を摸造することに成功した小説、世界をまるごと造ってしまった作品、つまり、「それが嘘であるという一点を抜きにして、完璧な世界を創造」しえた作品が一つの理想なのだ。「世界」は地球全体でも、一つの国でも、一つの島でも、一つの町でもかまわない。(一つの家だとちょっと難しいかもしれない。)

 「作品は細部に宿る」とか「大きな嘘を成立させるには小さな嘘を信じさせなければいけない」とかいう言葉をよく聞くが、「世界」をつくろうという「大きな嘘」は、「百科全書的」とよばれる「細部」を積み重ね網羅する記述方法と大変に相性がいいと思う。ということで、また前置きが長くなってしまったが、「百科全書的もしくは世界を摸造する小説」というくくりで(少々定義に幅のあるくくりではあるけれども)三冊だけ好きな小説を紹介してみよう。

 

ガリヴァ旅行記 

ガリヴァ旅行記 (新潮文庫)

ガリヴァ旅行記 (新潮文庫)

 

  世界をつくる方法の一つは、主人公が異世界に行ってしまうことである。ガリヴァがたどりついた異世界は、小人の国だけではない。巨人の国もある。ご存じでしたか? これは失礼。さらに、ガリヴァは他にも、空飛ぶ島ラピュータ(ジブリ作品の元ネタ)や、不死の人間がいる国や、死者を呼び寄せる魔術使いがいる島にも行くし、高い知性を持った喋る馬フウイヌムと人間によく似た外見だが非常に野蛮なヤフー(これはyahoo!の元ネタ)がいる国も訪れる。なにこれもご存じで? ……しかし、ガリヴァ氏が、日本(ジパング)へやってきていたのはご存じなかったのでは? とはいっても、作品内の記述は簡単なものだけど。

 ガリヴァ旅行記で網羅的であるのは、なにも異世界の社会、風俗ばかりではなくて、スウィフトがくりだす風刺もまた色とりどり、種々様々、全編通してまるでアイロニーの見本市といった具合だ。小人の国(リリパット国)、巨人の国(ブロブディンナグ国)では、風刺の対象が当時のイギリス社会であることが多いので、注釈がないとスウィフトが意図した面白味を完全には理解できないということだが(とはいえ、天才スウィフトが書いた文章は、現代を生きるわれわれにも十分面白いはず)後半になるにつれ、風刺と皮肉の刃は、人間性一般に拡大される。もしも、ガリヴァ旅行記と聞いて、子供用の絵本の内容しか想起しないという人がいるとすれば、余計な世話だろうが、大変損をしているのではないかと思ってしまうのだ。

 

高い城の男

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

  • 作者: フィリップ・K・ディック,土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1984/07/31
  • メディア: 文庫
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 (文庫の表紙、前のほうが良かったけどな……)

 「高い城の男」は、第二次世界大戦で、もしも連合国側が敗れ、枢軸側が勝利していたらというのだから、それだけとってみれば、ただの歴史改変小説である。もしも信長が本能寺の乱で死んでいなかったら、とかいうのと大差がない。発想自体はチープなものだ。もっとも、フィリップ・K・ディックという作家にとっては、「チープ」という言葉は必ずしもけなすことを意味しない。少なくともこの場ではそういう意図で使ったのではない。

 とはいえ、ただの「歴史改変小説」では、ずっと「ニセモノ」ということをモチーフにしてきた作家にとっては、芸がなさすぎるということなのか、とにかくディックは、この敗戦国が戦勝国になり、戦勝国が敗戦国になった世界において、「もしも枢軸側が破れ、連合国側が勝利していたらという歴史改変小説」を登場させた。

 なんだが分かりづらい書き方になってしまっただろうか。同じことをもう一度分かりやすく書いてみよう。

 ディックは、「アメリカが負けて日本が勝った」という小説内世界で、「もしも日本が負けてアメリカが勝っていたらという小説」をヒットさせたのだ。

(日本が勝ったということは、同時にナチスドイツも勝利したということである)

 「高い城の男」という作品内では、(われわれにとっての)虚構が(登場人物達にとっての)現実であり、(われわれにとっての)現実が(登場人物達にとっての)虚構になっている。書けば書くほど、自分でも混乱していくような気がするが……。

 ディックは偏執的に細部にこだわる作家だという風にもよく言われる。(まあ少なくとも文庫本の解説にはそう書いてあったと思うよ)

 「高い城の男」のような作品の設定における、大きな嘘、途方もない馬鹿げた嘘を、もっともらしく読者に感じさせるのにも、細部の積み重ね、網羅的な記述は有効に働く。ディックの作品には複数の主要な人物が登場し、場面が移りかわり、往々にして、彼等のなんでもない日常とか、もしくは比較的みじめな境遇の日常が描かれる。もちろん、偏執的な細部の記述をともなって。

 ディックの小説は物語が破綻するともよく言われる。しかし「高い城の男」は彼の作品のなかで「破綻」がないという意味でも完成度が高いという評判を得ている作品らしい。にもかかわらず、この作品を読んだ人の中には、結末にがっかりする人が少なくないようである。たしかに、「騎士が竜を倒して姫を救う」ような結末は用意されていない。「竜を倒す」ことを期待すれば、落胆して、「この作品はAのように書けるはずなのに、Bという風に書いてしまっている」と、「評」としては最低の愚痴も出てきてしまう。しかし、作者はそもそも「Bという風に」書きたくて書いたのだと考えれば、Aを期待するという、無意味な無いものねだりはしなくてよくなるし、Bという風に書かれたものを、どう解釈し、どのように読者として面白がるか、と考えられるのである。

 私ならばもちろん「この世界それ自体を楽しみ、またこの見事な世界をつくりあげることに成功した作者の手腕と技術に注目する」ことをすすめるだろう。

 

 

山椒魚戦争

山椒魚戦争 (創元SF文庫)

山椒魚戦争 (創元SF文庫)

 

  いきなりだが、まずWikipedia先生から一文引用させていただこう。(別に、一記事に三冊も紹介しようとしたものだから、ただのブログの書評というか読書感想記事なのに、思ったよりも長くなってしまって疲弊してしまったからではないよ。決して、断じて)

長編作品であるが、一貫した物語の体裁を採っておらず、章ごとに場所も登場人物もころころ変わり、さらには新聞記事の切り抜きを貼り合わせて構成された章まである。

  おおっと、この文章だけを見てしまうと、なんだか読書する気が削がれてもおかしくはない内容にも思えるが、ここまで私の文章を、我慢に我慢を重ね、忍びがたきを忍んで読んで下さった方々には、何かピンとくるものがあるはずだ。

 場面や登場人物がころころ変わるのは、「高い城の男」と同じじゃないか、と。

 「一貫した物語の体裁」をとらずに、「新聞の切り抜きを貼り合わせ」るようなことをするのは、もしかして「なにごとか」を「網羅的に」語ろうとしているゆえじゃないか? と。

 はい、そう思ったあなた。あなた正解です。素晴らしい。

 「山椒魚戦争」では、ある山椒魚の種について、その生態と(人間に発見されてからの)歴史が語られる。ざっくり言ってしまうと、山椒魚が発見され、彼等はある程度の知性を持ち、人間の言葉を理解することが分かる。山椒魚ははじめ、護岸工事とか、海中海底の作業工夫として、使役され、畜生としてひどい扱いを受けているが、しだいに知性が伸張し、彼等の中で学問が普及し、生活が改善され、独自の文化が形成されていく。一方では、山椒魚は単なる工夫ではなく、戦争兵器としての利用が考えられるようになる。山椒魚の労働は徐々に人間生活への影響力を拡大し、それにともなって彼等は自らの権利を拡大し、ついに人類は、山椒魚を使役する立場ではなく、彼等と対等の立場で交渉しなくてはならなくなり、最終的には、対決を余儀なくされる。

 「山椒魚戦争」は、はっきりと「百科全書的」小説なのである。上に書いたようなあらすじには、さほど影響のないかと思われる山椒魚の生態とか、学問研究などが、でたらめも含めて大量に記述されてある。多すぎるので、邦訳の文庫では省略されているものもいくつかあったくらいだ。けれども、それらは無意味ではない。もしくは、無意味ではあるが、効果があって働きをなしているという点でやはり無意味ではないのである。(混乱する)

 そうつまり、これも「それが嘘であるという一点を抜きにして、完璧な世界を創造しえた」素晴らしい作品の一つなのだ。

 

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