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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

青空に落ちるということ、もしくは、いかにして私は遠足で高所恐怖症になったか

 学校行事で遠足というものがあったのは小学校までだったと思う。年に二回、都合十二回ほどは行ったのではないかと思うのだが、さほど記憶に残っていない。

 おぼえている断片の一つは、小学一年生の時にはじめて行った遠足のことで、男の子は六年生のお姉さんと、女の子は六年生のお兄さんと手をつないで目的地まで行ったときのことだ。小学一年生になったばかりの子供からみると、小学六年生は子供ではあってもかなり上という感覚だった。手をつないで二列になって歩くから、六年生の女の子は前後ろで話をして、手をつないでいてもさほど会話もない。歩いていると「ずっと手をつないでるから汗びっしょり」「私も私も」と話し合っている。私は手をつないで歩きながら、汗びっしょりで気持ち悪いのはこちらも同じだ、手をつなげと言われているから手をつないでるんだ、などと思って多少不快だった。

 もう一つの記憶は、何年生のことだか定かでない。たぶん海まで歩いた時のことだ。ずいぶん遠くまで時間をかけて歩いた気がするのだが、その途中で広い広い竹林の中を歩いたことがあった。高い高い竹がずうっと並んでいて、その竹の枝葉のために太陽はほとんどさえぎられてしまい、林の中はうすぐらいのである。地面は枯れ落ちた無数の葉っぱで覆われており、枯れ葉色のじゅうたんのようだった。その中をただ延々と歩いていた記憶がある。行けども行けどもなかなかに光の差す出口が見えてこない、うすぐらい竹林の中をずっとずっと歩いていた。なんでそんな心細いような道を通ったのかが不思議で今になってもおぼえているが、地元には違いないのにそれがどのへんの竹林なのかを知らない。萩原朔太郎の竹の詩を読むと、その竹林のことを思い出す。もっともこれは小学生の時の記憶だから、ずいぶん遠い海といってもさほどのことはないのかもしれない。広い広い竹林と思っていたのも、今行ってみれば案外に狭くてかわいらしいものなのかもしれない。

 最後におぼえているのは、目的地の海岸についてからの記憶で、それはたぶん四年生か五年生のころのことだ。海に着いたからといっても真夏でもないのだから泳ぐわけにもいかないし、着替えにも困る。自由時間だ遊べといわれてもあまりやることはない。しかし子供というのは遊びに関しては才能があるから、何かしらやることを見つけるものだ。かならずしも健全だったり安全だったりしない遊びであっても、である。

 ざぶんざぶんと波の打ち寄せる海を前にして、後ろをふりかえるとすぐに小山があるような場所だった。男の子たちはその小山(というよりゆるやかな崖といったほうがいいかもしれない)に登ることを思いついたのである。ただ登るだけでなく、滑りおりる。スキーの要領で滑る。スキーの要領といっても、板はないので、靴底をすりへらしつつ、斜面を滑っていく。斜面に突き出ている細い幹の木々が、スティックであると同時に、オリンピックのスキー競技なんかに立てられている旗の役目もするわけだ。みんなで登って、次々に滑る。途中の木に手をかけて体勢をととのえながら、器用におりていく。私は子供の頃、足が速かったので、多少運動神経に自信をもっていた。それで、誰よりも速く滑れている自信があった。六年生よりも速く滑っていると思って気分がよかった。しかし、級友からの称賛があまりないのが不満だったのか、同じコースばかりでは飽きてしまったのか、今となっては記憶も曖昧だが、とにかく、もっと難しそうな、傾斜のきつい、誰も滑っていない場所にいどんでやろうと思いたった。

 そこで失敗したというのは、確かにあなたの推測どおりである。しかし、滑り損なったわけではない。事実というものは、予想よりいつも愚かしいという意味で残酷なのである。滑るにはまず登らなければならない。だから私はみんなが滑っている場所から離れて、傾斜のきつい坂を登りはじめた。中途まで登って、段差をのりこえるために、片足を上にかけてぐんと踏ん張り、木の幹に手をかけた瞬間、私の体を支えて、引き寄せれば上に持ち上げてくれるはずだった木が、あまりにあっけない脆さで折れ崩れた。見た目にはぜんぜん分からなかったが、中は腐って枯れていたのである。上にあがるために斜面の地面を蹴り上げていたから、つかまるはずの木がなくなってしまうと、勢いをつけて後ろ向きに飛び上がったと同じことになる。

 「あっ」と一瞬だけ声をだし、しまったと思ってからその後は何が何だか分からない。後ろ回りでごろごろ崖を転がっていた。落ちるのが止まって、ああ助かったのかと思って上半身を起こすと、左足のひざうらが、たまたま一本の木の幹に引っかかって、それより下へは落ちずにすんだことが分かった。「大丈夫?」「大丈夫?」と名前をよんでくれながら心配する友達の声がする。「大丈夫」と答えて、後ろをふりかえって驚いた。引っかかっている自分の位置から、あと五メートルも坂を下りると、斜面は突然に途切れていて、そこは本当に断崖になっている。少なくとも五メートルはあっただろう。落ちた先には、海岸のかたい岩が待っている。もしも、たまたま左足がこの木にひっかからなかったら自分はどうなっていたかと想像して、恐ろしくなった。それからは、今までまるで落ちるように滑っていた同じ坂道も怖くてまともに滑れなくなり、楽しくないのでやめてしまった。

 次の日から、学校でそれを面白おかしく話していたのだが、次の年の遠足では、山に登るのが中止になっていた。たぶん私のせいかもしれない。

 

 高所恐怖症になってしまったから、高い所が怖い。どれくらい怖がりなのかというと、大江戸線の下りエスカレーターにのってもびびったくらいなのである。

 高所恐怖症の人が、高い所で下を覗きこむと、吸い込まれて落ちそうになると言うのをよく聞くが、それは普通の人にもけっこう理解されるものらしい。

 しかし、私が「雲一つない晴れた空を見上げると、高所恐怖症のせいで怖い」と言ったとき、いまだかつて誰一人「ああ分かる」と共感を示してくれたためしのないのはともかく、「なるほどね」とも言ってくれないばかりか、「何を言ってるんだこいつ」という目で見られるのだ。

 高所恐怖症の人なら分かってくれる人もいると思うから、ぜひ試してみてほしい。

 条件は、快晴の日、校庭や競技場や広い公園など、周りに何もない場所である。

 立って、真上を見上げると、広い広い青空が一面に見えるだけである。ほらね、怖いでしょ。絶対怖い。

 つまり、真上を見上げてただ一面の青空しか見えないということは、それだけ、とてつもない落差があるということで、自分がもし空に落ちたら、いや落ちそうだという錯覚がして怖いのである。 え? 分かんないの? 空を見上げたことはあるが全然そうならない? なるだけ雲が一つもないこと、できれば青空しか、空の青しか見えないことが条件だよ。さらに加えて、上を向きながらくるくると自分が回転すると、感覚が混乱して、高所恐怖症が発動しやすくなり、足がすくんでしゃがみこんでしまうこと間違いなし。

 誰か分かってくれる人あらわれないかなあ。

 

猩猩(しょうじょう)狩り 鳥獣戯文

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