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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

村上春樹を一冊しか読んだことのない私が、村上春樹全体を論評するという暴挙に出る

はじめに

 数年前に村上春樹を一冊読んだ。読んでいろいろ思うことがあったが、村上春樹は、きっとアイロニー的ロマンスの様式に属する作家だ、と思いついたのは、われながら悪くない考えだと思った。それで、これから村上春樹(ほぼ)全作品を読み、「今さら村上春樹を読む」というタイトルにすれば、一冊(弱)分くらいの文章が書けるのではないかと思っていた。書けたとしても、発表媒体を持っていないから、Kindleにして自己満足かなと考えていた。

 しかし「今さら村上春樹を読む」というタイトルで書くには、どんなに個人の考え(偏見)を前面に押し出すとしても村上春樹作品の主要なものには目を通さなくてはいけないという時点で面倒だし、村上春樹が作家としてすぐれた技倆をもっていると分かったあとでもなお、あのナルシシスムの強い文章をつづけて読むと想像しただけでもうんざりする。それよりもなによりも、柄谷行人という人が、終焉をめぐって (講談社学術文庫)の中で、春樹をロマンティックアイロニーと評していると知った。それでは、自己満足としても私の論の独自性が失われるような気がする。

 まあ、そういうわけで怠惰な私の知的好奇心は易きに流れて、くじけてしまった。しかし、柄谷行人が指摘するロマンティックとは、国木田独歩(や保田與重郎)と結び付けてのことで、「ロマン派的」という意味だし、春樹のアイロニー(ロマンティックアイロニー)として語られるのは、表現技法としてのアイロニーが主になっているようだ。

 私が村上春樹を「アイロニー的ロマンスの作家」(ではないか)とよぶとき、それは、ノースロップ・フライの叙事(文学作品)様式にならってのことである。この考え方が結果として柄谷の「ロマンティックアイロニー」につながる部分が存在するとしても、ずいぶん違うようには書けるはずと思う。少なくとも、ブログのネタ記事としては十分ではないだろうか。というわけで「今さら村上春樹を読む」を断念したかわりに、フライの様式分類を頼りに、私の村上春樹を想像して論評してみよう。

 

『批評の解剖』の様式分類

 ノースロップフライの様式分類を下敷きにして、村上春樹を語るとするのだから、その様式分類を簡単にでも紹介しておかなければならない。フライは『批評の解剖』第一エッセイの冒頭、アリストテレスが『登場人物の卓越性に応じて』文学作品に違いが生まれると述べたのを参考に、次のような五つの様式を提示する。下にかなり乱暴ではあるが、短くまとめる。

⑴ 神話…… 主人公が他の人間、および他の人間の環境にくらべて、質的に優れているならば、つまり彼が神とよばれるものならば、これは普通神話とよばれるものとなる。

⑵ ロマンス……主人公が他の人間および環境よりも優っているが、それが程度の差に過ぎぬ場合、つまり神ではなく人間にとどまる場合、主人公は典型的なロマンス英雄(ヒアロー)である。ロマンスの世界では自然法則が一部停止し、魔法や魔女、幽霊や人語を話す動物が登場する。ロマンスの領域に属するのは、基本的に、伝説、民話、おとぎ話、またこれらに関連し、由来する文学である。(このブログエントリでは特に中世騎士道物語と、それから宗教的な奇跡劇も含まれることを指摘しておきたい)

⑶ 高次模倣様式……主人公が他の人間よりは優るが、自然環境に対して優るものではないとき、彼は人々の指導者となる。ここには大部分の(つまり典型的な)叙事詩や悲劇が含まれる。

⑷ 低次模倣様式……主人公が、他の人間にも、環境にも優っていない、つまり凡庸なわれわれの仲間である。ここには、大部分の喜劇とリアリズム小説が含まれる。ちなみに、高次、低次という表現には、価値判断は含まれていない。

⑸ アイロニー……知性においても力においてもわれわれに劣る存在であり、その結果、あたかも挫折、屈辱、不条理の人生図を見下しているような感じを与える時、そのような主人公はアイロニー様式に属している。

 

 もちろんここでの分類は大枠での分類である。一つの作品が、一つの様式の中にぴったり収まりきるわけでもない。それでなければ、アイロニーとロマンスというこんなにも離れた様式を結び付けることはできない。とにかく読者には、この記事内で「ロマンス」という単語が登場する場合、いわゆる「ラブロマンス」とは基本的に関係がなく用いられていると了解できただろう。

 村上春樹の小説は往々にして幻想的、ファンタジーの世界に足をつっこむ。たとえば、象が消滅するという「魔法」が行われたりするのである。ファンタジーというジャンルがその家系図をさかのぼれば、ロマンスに行き当たる、つまり中世騎士道物語にいきつくというのは確かなことだ。騎士道物語は大いに流行したらしい。であればこそ『ドン・キホーテ』が誕生したのだし、ホームズシリーズ『四つの署名』の中でフォレスタ夫人と、のちにワトスン博士の妻となるモースタン嬢が

「まるで小説を読むようでございますわ。」フォレスタ夫人はため息をついた。「美人の受難、五十万ポンドの宝物、食人の蛮人、木の義足をつけたわる者、──竜や騎士や意地わる伯爵などの出てくる平凡なのでないお膳だてが、ちゃんと揃っていますのねえ。」

「そして二人の騎士がそのわる者を退治なさるのね。」モースタン嬢も眼をかがやかせて私をみあげた。(延原謙訳)

 こういう会話を交わしもするのである。

 中世騎士道物語の典型的な筋は、一人の立派な騎士が(彼は冒険に憧れているか、天下に名をしらしめる英雄的な行為を成したいと望んでいる)にさらわれたを取り戻すために旅にでるというものである。騎士は旅の途中で、悪党を倒し、巨人を倒し、また合間合間に、貴婦人と精神的な恋愛を楽しむ。色々の道草をしたあとで、ついに竜を倒し、姫をたすければ、めでたしめでたしというわけである。現代でいうならば、RPGゲーム、特にドランゴンクエストⅠはその典型だろう。少年漫画の大部分や、ライトノベルの多くもロマンス様式に含まれるだろう。

 村上春樹の小説は、このロマンス(特に中世騎士道物語)の系譜にあると思うのである。現代を舞台にしたロマンス。現代はアイロニーの時代である。したがって、アイロニー様式に特徴的なものと、ロマンス様式に特徴的なものが組み合わさっている。どういう風に組み合わさっているのかは、焦ることなく、順々に見ていこうではないか。

 

騎士の末裔としての「僕」

 アイロニーの主人公としての「僕」

 村上春樹の小説に登場する主人公、ということは「僕」について、しきりに言われる(批判される)のは、彼が意志薄弱で、非行動的で、優柔不断で、いつもいつも受身な虚無的人物だということである。

 象徴的なのが「やれやれ」というフレーズ。「やれやれ」と言って肩をすくめるポーズ。読めばたしかにこの「やれやれ」が登場するのだが、これは象徴的なセリフだから、誰にも言及されやすいのであって、むしろ頻出するのは「分からない」(と同様の意味の「覚えていない」「忘れた」「知らない」など)という言葉だ。とにかく、「僕」には分からないことだらけなのである。いや、当然分かっていて当たり前のことまで「分からない」と言い、知っているだろうことを「知らない」と言い、覚えていて当然のことを「忘れた」と言う。こういう主人公の態度に、深く関係するだろう文章を引用する。

つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、 正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。このような不条理性──と言って構わないと思う──を回避するには、我々は実際には何ひとつとして選択してはいないのだという立場をとる必要があるし、大体において僕はそんな風に考えて暮らしている。(パン屋再襲撃より)

   (下線は、原文に傍点が付されてある部分)

 「僕」は何ひとつ選択しない。選択につぐ選択、すなわち決断をつねに行い、明白な善悪の観念をもって判断するロマンスヒアロー(ヒーロー)としての騎士の真逆といってよい。この点「僕」は「騎士」のアイロニー的な存在である。

 とすると、そもそもアイロニーの主人公というものが定義上、いわば「ダメ人間」なのだから、「僕」が優柔不断で、虚無的であっても不思議ではない。騎士と真逆だから「ロマンス」と関係するというのはおかしい。というような反論も飛んでこよう。

 私はまず「僕」がアイロニーの主人公としての資格を有していることを簡単に確認したかった。しかし、「僕」は単なるアイロニーの主人公なのだろうか。単なる「ダメ人間」に過ぎないのだろうか。実際は典型的なアイロニー様式の主人公に収まらない性質を「僕」は色々にそなえているように思われる。

 「騎士道」の現代化

 「僕」は魅力的な主人公である。すべての読者がそう思うかどうかというのは問題ではない。「僕」が、読者にとって魅力的な人物として理解しうるように書かれている、ということが重要なのである。

 「僕」はなんとなくオシャレな感じがする。パスタを茹で、ジャズを聞き、映画を語り、小説家の名前をあげ、哲学の知識を垣間見せもし、その他アメリカナイズされた趣味を持ち、生活を送っている。つまり「僕」はスタイルを持っている。

 「僕」の趣味が、本当にオシャレなのか、実際には田舎くさくてダサイのかということは、ここでは問題ではない。「僕」がある「スタイル」を持っているということが重要なのである。優柔不断で、というよりも積極的に選択を拒む「僕」は、一方で、なんだかはっきりとはしないが、「信条」とよべるようなものを持っているようであり、(もしくは優柔不断と批難されうる態度自体が「信条」の表れというべきかもしれないが)特に生活の上では、彼独自のルールと「良い趣味」を持っている。

 ここまで論評をつづけてきたわれわれが「スタイル」と聞いてすぐに持ち出したくなるのは、「騎士道」である。騎士は騎士道において良しとされているしきたりや、考え方を守って、忠実に行動しなければならない。これが一部の、つまり別種の「良い趣味」を持った人々から嘲笑の的となったのはセルバンテスをはじめとして、われわれもよく知っている事実である。

 村上春樹の場合も同じである。村上春樹作品に登場するオシャレ感、主人公の「僕」が持っているオシャレ感は、現代の「良い趣味」をもっている人々から嘲笑を受けた。しかし、趣味というものは、個々人のもので、善悪で語るようなものではない。(例え、善悪が趣味から生まれ、もしくは趣味が善悪から生まれ、両者が分かちがたく結びついているとしても)確認しておきたいのは、なんだか一見ふわふわしているだけにも見える「僕」が、それでもやはり確乎とした趣味をもっているようであり、あるスタイルにしたがって生活しているということなのだ。「僕」はなにか特別な存在であるように書かれている。これは、われわれが通常アイロニーの主人公にたいしてとる態度、彼と彼の人生を『見下しているような感じ』とは決定的にちがった、読者が「僕」を憧れるようにうながす作用、読者がある意味で「僕」を仰ぎ見るような作用を持っている。

「僕」の自己愛と、もてる男としての「僕」

 村上春樹の主人公「僕」が自己愛にみちみちた存在ということは、あまりに自明なことと思われるので、本当に「僕」が自己愛(ナルシシスム)の権化かどうかという考察は放棄させていただく。指摘できるのは、上で述べた「僕」の趣味と生活スタイルが、「僕」の自己愛と強く結びついているだろうということである。

 「僕」ははっきりとナルシストである。ひるがえって「騎士」はどうだろうか。騎士が登場する中世騎士道物語が属するロマンスの世界は、善(正義)と悪がはっきりと分かたれている世界である。したがって、騎士は、わざわざ自己愛に積極的におぼれなくとも、騎士道にしたがい、世界の半分であるところの善の側に属していさえすれば、正義であることができる。ということはすなわち、無条件で世界から愛される存在になれるということである。

 しかしながら「僕」の世界は、正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、 正しくない結果をもたらす正しい選択もある』という不条理が支配している。このような世界に、ロマンス的な善悪は存在しえない。「騎士道」がアイロニーの世界(現代)を舞台とするために個人的な趣味、生活スタイルに変質せざるをえなかったように、世界を分かち支配するはっきりとした善(悪)も、個人的な愛(すなわち自己愛)に変質せざるをえなかった。

 

 とはいえ、いくら「僕」が「良い趣味」を持ち、生活スタイルを持っていようが、「僕」が自身を愛していようが、語り手自体が「僕」である以上、「僕」が特別な存在として書かれているというのは自己評価としかよべない。

 読者の立場で客観的に、「僕」が特別な存在だとはいいがたい。なぜならば、「僕」の趣味やスタイルは、確乎としたものであればあるほど、ある人々からの嘲笑や批難を招きやすいし、自己愛は強まれば強まるほど、読んでられないものになりがちだからである。

 「僕」を物語世界の中で、かんたんに特別な存在としてくれるものは、その他の登場人物が「僕」を評価すること、他者からの評価である。

 「僕」はもてる。女から惚れられるのである。なぜかはよく分からないが、とにかく(「僕」が語る物語世界の事実として)「僕」はもてる。

 騎士も同様にもてるのである。理由はほぼないに等しい。騎士だからもてるのである。この点に関していえば、「僕」は騎士の末裔というよりも、先祖返りしたかのような性質をもっている。

 もっとも、騎士の場合は、貴婦人を悩ませる悪党や、魔女、魔物、巨人というものを倒してやったという理由があるかもしれない。しかし、主な理由は、騎士がロマンス英雄であり、主人公であるからもてるのである。ロマンスとは『願望充足の夢にいちばん近いもの(フライ)』であるので、 有徳の主人公(騎士)の前へ、次から次へと磁石に吸い寄せられるように、美しい貴婦人があらわれ、美しい精神的恋愛が演じられるのである。

 「僕」の場合はもっと極端で、「僕」はなんにもしないでも、もてる。「僕」は魔女や巨人と戦わないからこそ「僕」なのだ。「僕」が主人公だからもてる。「僕」が騎士の末裔だからもてる、ですませてしまいたいくらいだ。

 とにかく登場する女性にとっては、「僕」は魅力的らしいのである。「僕」に「恋をする」もしくは(恋ですらなくともいい)「僕」を性的に魅力だと感じる女性は、なぜだか知らないが「僕」が魅力的あることを知っている。

 たぶん、「僕」の趣味やスタイルや信条を認めてくれているのである。「女の子」たちは、「僕」への全面的な(?)肯定者として登場する。「あなたが信じているこの世界のあり方や、この世界への対処の仕方はきっと正しいし、私もあなたと同じように信じているのよ。だから、あなたは私にとって特別な人なの」たとえば、「僕」と付き合うことになる「女の子」というのは、セリフで直接にこう言ってはいなくとも、こんなような感じなのである。

 そうして、多分「女の子」の感覚は、この物語世界の中では正しいのだろう。なぜなら、この物語世界の語り手は「僕」であって、すべては、「僕」が物語る世界だからである。

 ただし、アイロニー世界の住人である「僕」が騎士と違うのは、「僕」が女の子とセックスをひんぱんにし、セックス自体が露骨に語られるということである。

 アイロニーという様式、もしくは様式が要請するアイロニーという技法は、基本的には直接的な表現を避ける一方で、表現が露骨に、生々しくなる傾向がもう一方にあって、それは当然常識では隠すことが良しとされていたり、遠回しであることが良しとされていることがらについて行われる。つまり、アイロニーの最も洗練された形式の一つとして、ただたんに事物そのものを描写するというものが存在する。村上春樹作品における性描写は、こういうアイロニー様式にとっての典型的なものであり、それは騎士道物語における精神的恋愛のアイロニーにもなっている。

 

失踪するヒロインと竜の不在

 次に、村上春樹作品の特徴としてよくあげられるのは、ヒロインの失踪である。

 ここまで読んでいただけているならば、私が言わんとすることは読者は百も承知のはずだ。主人公の「僕」の原型が、騎士道物語のヒアローであるように、村上作品における「失踪するヒロイン」の原型は、竜にさらわれる姫である。

 典型的なロマンス世界のヒロインは必ず最後には救出されることが分かっている。作者が騎士に道草をさせすぎたために作品自体が未完に終わったり、RPGゲームにユーザーが途中で飽きてしまったり、連載をつづけるためにコナン君がいつまでも小学生のままであったとしても、ヒロインは最後には助け出されて、主人公と結ばれるのだということは読者の誰もが確信している。

 しかしながら、村上作品のヒロインは、アイロニーの世界にいるので、ある日突然失踪してしまうと、もう戻ってはこないのである。極端な場合は、死んでしまったり、自ら命を絶ってしまう。失踪の理由もよくは分からない。なぜなら、村上作品には、竜がいないからである。

 村上作品に、竜が存在しうるはずがない。なぜならば、ロマンスの竜は、まごうかなたい完全な悪の象徴だからである。だから、村上作品においては、竜がヒロインをさらうのではなく、ヒロインが自発的に自らをさらっていく(失踪する)。

 村上作品にも悪は存在しうるだろう。けれども、騎士道物語に存在する魔女とか竜のような存在の仕方はしない。悪といっても、悪なりの論理や、存在の妥当性を持った、一種魅力的な存在として登場しなくてはならなくなるだろう。「この世界」のルールにしたがって、悪(正しくない選択)が正しい結果をもたらすこともありえようし、その反対のことも起こりうるだろう。たぶん(読んでないから断言できない)。パン屋を再襲撃したり、パン屋がしまっているから、ハンバーガーチェーンを襲うということは悪いことだが、それは竜に象徴される悪ではない。

 

長い直喩

 文学的な小説とか、純文学小説といわれるもののイメージとして、僕とか私と名乗る語り手が、だいたい自分語りをしながら、ところどころに長くて気の利いた詩的な直喩をはさんでいる小説、という「誤解」が世間にはびこっているように思えてならない。

 こういうイメージに村上春樹もある程度貢献しているんじゃないかと思う。

 しかし、長い長い直喩(~のような、~のように、と後ろにつく比喩)は、低次模倣様式以降の散文には、典型的なものではない。むしろ、それ以前に盛んであった様式、ロマンスや高次模倣様式、たとえば騎士道物語や叙事詩に特徴的な表現なのである。ここでホメーロスや『妖精の女王』からながいながい比喩を引用してくるのは……やめておこう。

 なにが言いたいかというと、村上春樹作品によく出てくる、愛読者にとって長所と思われている(少なくとも福田和也は村上作品の魅力の一つに数えていたはずだよ)、ながくて、気の利いた、詩的な直喩も、ロマンス形式に属していることの証左の一つだと言いたいのである。

 

長いからそろそろまとめよう

 村上春樹の直喩が長いなんてどころじゃなく、このネタ記事が長くなってしまったから、終わるためにそろそろまとめよう。

 村上春樹は、アイロニー的ロマンスの作家だ。というのが私の主張である。ネタとして、ともかく要点だけは伝えられたのではないかと思う。

 ただし、アイロニーといっても、セルバンテスが『ドン・キホーテ』で騎士や騎士道を茶化し、皮肉り、攻撃したのとは、村上春樹のアイロニーのあり方は違っている。(そのことは柄谷の『終焉をめぐって』の中の、村上の小説は、パロディではなくパスティシュであって、しかもただのパスティシュですらなく「転倒」の意志を秘めている。という指摘に通じるような気がする。気になる人は『終焉をめぐって』を読んで下さい)

 村上春樹は、アイロニーの作家でありながら、その対極にあるロマンス作品の特徴をも、直接に引き継いでいる。「僕」を、騎士の末裔と表現したのもそのためだ。

 つまり、村上作品というものは、ロマンス世界の主人公が、善悪というものがはっきりと存在しかねる不条理な世界(これは現代であり、アイロニーの世界である)に放り込まれて、その世界に適応しようとした結果できあがったという印象を受けるのである。現代に生まれてしまった、騎士的気質をもった主人公の物語といってもいい。ロマンスの舞台を、現代に、現代の都市に移し替えてしまったために、アイロニー的にねじれて変質してしまった物語といってもいいかもしれない。

 ノースロップ・フライは、アイロニーは神話的なもの(ロマンス)に回帰する、と指摘しているから、村上春樹は単にアイロニーからロマンスに回帰しただけなんじゃね、とも言えるかもしれない。けれども、それらは特にSFとか、ライトノベル(特に異世界もの)にあてはまるのであって、村上作品は、回帰としてではなく、末裔としての性格を有しているような気がする。まあ回帰でも末裔でも本質的な違いはないのかもしれない。けれども、私は、後者として考えるほうが好きなのだ。これは私の趣味である。趣味である以上、誰かにとやかく言われるおぼえはない。これはネタ記事なのだ。

 

 ネタなればネタらしく、この真面目な文芸批評では総じて叩かれるばかりの希有な作家を、称揚して終わることにしよう。ノースロップ・フライは、ロマンスという通俗的な様式を、『世俗の聖典」のなかで、全文学の中心に位置すると称した(はず、確か。確認するのめんどくさい。そういう意味のことは書いてたから、信じて)。

 村上春樹は、純文学作家(芸術としての文学小説を書く作家)として、またアイロニーの作家(ということは典型的な現代の作家)として、そのたぐいまれな作家的な技倆を駆使して、この「世俗の聖典」ロマンスを、それが持つ「通俗さ」を含めて、「純文学」の中に蘇らしめたのである。これが文学的な事件でなくてなんだろうか? このことを評価しない批評とは、評論とはいったいどのようにして文学的に存在しうるのだろうか? 村上春樹はノーベル賞に値する作家である。(ノーベル賞自体の価値をどう査定するかはともかくとして)

 

パン屋再襲撃 (文春文庫)

パン屋再襲撃 (文春文庫)