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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

ジブリの宮崎アニメに頻出するバルス「的」なるものについて

 ずいぶん前のことになるが、TVで大島渚が、スピルバーグについて「彼はずっと巨大な何かに追いかけられるという物語を撮っている。デビューしてからずっとだ」という意味のことを、まるで誰かを叱りつけるような口調で言っていた。

 僕は子供心になるほど確かにそうだなあ、と感心した。

 その時の大島渚の言葉がやけに印象深かったのか、折に触れて思い出すのだが、いつの頃から、ただ思い出すだけではなく、こういう考えがくわわった。

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「宮崎駿のジブリ映画って、『バルス的なもの』がよく出てくるよな」

 しかも、物語の結末のほうに。(映画マニアでなくても、ジブリは日テレでよくやるから、ほとんどの作品を見ているわけだ。「ハウル」は見てないな……)

 

 「バルス!」という現象、より正確を期すれば、バルスという「滅びの呪文」によって引き起こされる現象というものを、「圧倒的なエネルギーの放出、爆散」によって引き起こされる「(ある)世界の大きな変化」という風にとらえれば、同じモチーフが宮崎作品の中にいくつも、しかも特に物語の最後のほうに見つけられる。

 「ナウシカ」では、王蟲の大行進がそのへん一帯をむちゃくちゃにしてしまうし、「カリオストロ」では水門が決壊して起こる洪水がその役目を果たす。「ポニョ」では津波が町をおそうし、「もののけ姫」では首を失ったダイダラボッチが森を山を荒廃させてしまう。

 「となりのトトロ」では、「トトロ的世界」を爆散させたり、崩壊させてしまうわけにはいかなかったかも知れないが、これも物語の最終版に登場する「猫バス」は、人間の手には負えない「圧倒的なエネルギー」を放出して、世界を歪め、超スピードを実現するという性格からして、「バルス的なるもの」が作品世界に合わせてソフトになったものと考えうる。「千と千尋」では乗り物が猫からに変わる。(ぎーんの龍の背にのーってー♪ てね。って、あれは銀じゃなくて白か)

 「魔女の宅急便」のラストにしても、(頑張ってこういう文脈に当て嵌めようとすれば、という留保はつくかもしれないが)作品世界に合わせて同一モチーフが変奏され、表現が過激にもなれば、穏やかにもなるという認識がありさえすれば、「猫バス」と同様にソフトになった「バルス的モチーフ」の一つに数えられないこともない。

 突然の強風(これは人知をしばしば圧倒する自然という巨大なエネルギー)によって制御を失う飛行船(これは人知)が、町の人々を大混乱に陥れて、時計塔を「破壊」するという状況。宙吊りになった少年を救い、物語におとしまいをつけるのが「魔法」(これは、はっきりと通常のわれわれを人知をこえた力で、それが単に「飛行」を可能にするだけでなく、「おそろしい巨大さ」を秘めていることは、少女が自身の力に翻弄されるという描写に現れている。)であるという点、がそうだ。

 

 もう一つ「魔女の宅急便」のラストシーンが、「バルス的なモチーフ」に連なると考える理由があって、それは、ラストシーンが、それまでの物語とのつながりをほとんど欠いたまま、何か唐突に引き起こされるからだ。

 ラストシーンは、トンボという名前の少年が飛行船に宙吊りになるからこそ、キキの「魔法」による飛行が必要になるのだが、別に少年は手を放せばよかった。少年が飛行船に宙吊りになるからこそ、物語は大団円を迎えられるのはその通りだが、少年が宙吊りになる以前の物語と、少年が宙吊りになるという事件には、ほとんど連関が感じられない。少なくともウェルメイドな物語展開、よくできたお話とは言えないだろう。

(そもそも思春期の少女が、ある困難に直面し、それを乗り越えることで大人の女性になる(大人の女性に一歩近づく)という物語であれば、「魔法」の力を借りずに、何らかの困難を乗り切ることが必要だったと思う。そうすることで興行収入は下がるかもしれないし、別に主人公(ヒロイン)が大人にならなくても、成長しなくても構わないのだが、ラストシーン手前までの「魔女の宅急便」の物語展開、少女が見知らぬ町で新しい生活をはじめ、新しい仕事をはじめ、初恋に当惑し、挫折しかけるという展開は、典型的な少女の(大人への)成長物語だろう。けれども、宮崎駿は最後に「魔法」でもう一回飛ぶという演出を優先することによって、典型的な成長物語の構造を裏切り、ヒロインを「魔法使いの少女」の枠に留まらせることを選んだ)

 

 宮崎駿の「バルス的なラストシーン」には、この、見ていて「!?」という噴き出しが頭の上に立ち上がるような、唐突さがつきもので、「カリオストロ」の水門決壊、大水で城崩壊、ギリシア(?)風の遺跡出現という展開は、どうしても取って付けたようだし、「トトロ」のメイ(妹)が迷子になってからの雰囲気の暗転にも、それまでの物語世界を裏切るようなところがある。別に迷子になることに、物語の連関としての必然性はない。あるのは次に「猫バス」を登場させたい、という要請である。「メイの迷子」と「トンボの宙吊り」という事件はその点よく似ているというか、同じものだ。

 「もののけ姫」は見返せば、伏線や設定が色々に用意されていることは分かるが、シシ神(人間によって征服される自然の象徴)とダイダラボッチ(国づくりの縁起)を組み合わせてキメラ化するという設定は、唐突というか、かなり強引な力業としか思えない。「もののけ姫」の初見時、首を切られた「シシ神=ダイダラボッチ」が、『ドロドロ』になって触れた物すべてを荒廃させていくシーンを見て、唖然としてしまったのは僕だけではないはずだ。

 ポニョがソースケとの恋愛を成就させるために、津波化するという現象にいたっては(テーマ的な解釈、解説が様々に可能だとしても)画面を観ている人間にとっては、ムチャクチャ好き勝手やってるなという感想が一番はじめに出てくるのではないか。

 

 個人的に宮崎アニメを一作品といわれれば「天空の城ラピュタ」だよなと考えてきたのだが、それは他作品にくらべて「バルス」に必然性があるように考えてきたからだ。「少年少女冒険活劇譚」としてよくできている、ウェルメイドだと思っていたからだ。

 しかし、この「滅びの呪文」というのは、ヒーロー物の悪役が、ヒーロー達に敗れて、秘密基地を爆破するときに押すボタンと変わらない。そんな危険なボタン作らないよね。現実では。なんではじめから負ける時のこと考えてるのか。スカイツリーにスカイツリーが爆砕されるボタンついてるかな? 飛行石を持った王がもしも発狂したらと考える時、安全保障上「滅びの呪文」は非常に危険で、現実味がないように思われる。 

 

 僕はこういう宮崎アニメのラストシーンの唐突さ、「バルス的な」演出の原因が、宮崎駿が物語をたたむことが下手だから、もしくは物語の結構ということに関心が薄いから、その傑出した才能によって膨らんでしまった話を、1時間30分~せいぜい2時間の上映時間のうちでまとめることができずに、最後に「ドカーン」とやってしまうのではないかと長らく思っていた。

 しかし、ただそれだけの理由であるならば、「バルス的なモチーフ」は、ラストシーンだけにしか出てこないはずである。

 実際には、「ラピュタ」では、バルスの前に「ラピュタの雷」によってキノコ雲を描いているし、「風立ちぬ」では関東大震災を描いている。「トトロ」では半分夢のような出来事と事後的に明かされるもの、トトロは嵐を呼び起こし、植物を異常な速度で成長させ、コマにのってとびまわる。

 ポニョでは「津波のシーン」を描きたいという衝動が主たる創作動機の一つとしか考えられないし、「もののけ姫」では、いくつもの伏線が、ラストシーンに収斂しているように思われる。

 

 つまり、宮崎駿はなにも最後困ったから、「ドカーン」とやっているんではなくて、「ドカーン」とやることが好きなのである。

 スピルバーグが常に「巨大ななにものかから追われる話」を描くように、ディックが常に「ニセモノ」ということについて書いたように、宮崎駿にとっては、「圧倒的なエネルギーの放出、爆散」によって引き起こされる「(ある)世界の大きな変化」というものが、主要なモチーフになっていると理解できる。

 なにゆえに、今までつむいできた物語のつながりを断ち切るようにしてまで、それ以前の物語を無に帰するほどにまで、しばしば世界が崩壊するほどに「ドカーン」とやりたいのか。

 宮崎駿の破壊衝動なのか。現実世界への不満が、それをいったんすべて無みしてしまいたいほどに、彼をかりたてているのか。もしそうであったとしても、宮崎駿の人格批判をするつもりはない。

 そもそも、こういう「圧倒的なエネルギーの現前化」とか「世界の大変化、崩壊」というのは、物語においてはよくあることであって、そうでなければ、「ディザスタームービー」といわれるものは成り立たないだろうし、「何ものかに対する恐れや畏れ」を観客が「楽しめ」なければホラー作品など存在しないだろう。

 われわれは、大災害というもの前にして「おそれふるえ」つつ、なんとも知れない高揚感を身内に感じて興奮しもするものである。

 とはいえ、それだけならば宮崎駿はパニック(アニメ)映画の人になったし、ジブリがここまで興行的に成功することも、現在のようなジブリ(宮崎)ファンを獲得することもなかっただろう。

 宮崎アニメの大衆的な成功は、この「バルス的な」モチーフの背後に、われわれ大衆に納得しやすい、もしくはなかなかに反論しがたい「環境問題的テーマ」があるからではないかと思う。

 つまり、「自然から離れ、自然を破壊する人間とその文明は悪だ」というテーマから、「それでも人間と文明は自然を征服して生きざるをえないのではないか」という疑問をへて「人間と自然が共存するという理想を追い求める」という、なんとなく「お説教」めいてはいるものの、説教めいているからこそ、いったんその考えを受け容れようと心構えをすれば、いちどきに観客の頭脳に感激がほとばしってしまうという、テーマである。

 アニメーション作家としての類い稀な能力があったからというのは間違いないが、すぐれた作家だからといって、宮崎駿ほど商業的に成功するわけではないし、その後多くの人に作品が愛されるわけではない。

 宮崎駿の成功は、そのテーマと能力が、「バルス的なモチーフ」とむすびつくことによって達成された、というのが、今のところの僕の「宮崎駿とバルス的なるもの」に関する結論のようなものである。

 

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