人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

女は、恋人が自分にふさわしくないかもしれないと青ざめ、男は、自分が恋人にふさわしくないかもしれないと青ざめる

 人は、ときに愚かで、ときに美しい。

 もしくは、ときには愚かしいにもかかわらず、なおかつ同時に美しい。

 こういう考え方に、説得力を与えてくれるような人間の営みの一つは、明らかに「恋愛」と一口によばれるものの諸相だろう。

 記事のタイトルは、書籍からの引用だが、記事タイトルになるべくふさわしいように、私が勝手につづめている。したがって正確でない。まずは、該当部分を、正確に引用してみようと思う。

女性は、その恋人が 自分たちにふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男性は、自分たちがその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。

(略)男性は、情熱の状態になると、はにかみ、自分を疑う。

しかしそういう女性は、(略)情熱という高潮した例外のときになると、誇りをもち、力の感情をもつ。──このようなものとして女性は問う。だれが私にふさわしいか?

(理想社 ニーチェ全集第七巻「曙光」四〇三)

  このアフォリズムには、小題として「誇りのさまざま」と書かれてある。読んでよく分かるように、女性がもちうる誇り(と、ニーチェが考えるもの)について書かれてある。

 こういう考え方に賛同するか、しないかは、ひとまず保留して頂くとして(結論をあせるのは、何も恋愛ばかりでなく、世の中の多くのことにおいて、まずい結果をまねきがちなものだから)、これがニーチェが書いた文章だというのなら、おそらくニーチェ自身の経験が反映されているのではないか、と想像する人は少なくないだろう。

 ニーチェの恋人とか、ニーチェの恋愛などという話題で決まって登場する女性に、ルゥ・アンドレアス・ザローメという人がいる。

 

 ルゥ・ザローメについては前に書いた。生に寄せる祈り──ニーチェを袖にした美女がものした傑作詩 - 人類は如何に神々として滅びるか(仮)

 とはいえ、別ページの記事をわざわざ読むのは面倒だろうから、大ざっぱにここで言ってしまうが、今知って頂きたいのは、ルゥ・ザローメというのは、ニーチェから求婚されて、それを拒否した女性である。彼女には潔癖なところがあり、優れた男性と精神的なつながりを求めるにしても、男性との一般的な恋愛や結婚を望まないところがあったらしい。

 こういう逸話が残っているから、ルゥとニーチェの関係について知っていた人は、ああ、ニーチェはあの女(ルゥ・ザローメ)に振られた時のことを思って書いたんだろうな、と思うかも知れない。そういう勘繰りを責めるつもりはない。なぜなら、引用したアフォリズムは、ニーチェの失恋、ルゥとニーチェとの美しい精神的つながりの破綻、といった出来事に、ぴったりくる言葉のようにも思えるからだ。

 けれども、私はそうではない、ということを知っている。

 「曙光」が出版されたのは一八八一年、ニーチェがルゥと知り合うのは一八八二年のことなのである。(一八八七年に新版(第二版)が出され、序文が付け加えられたとのことだが、全集解説によれば、『序文以外は第二版でもそのままである』とある)

 まるで「詩人」は(ニーチェは詩も書いて残しているから、彼をこうよんでもいいだろう)自らの未来を予想して、かなしい別離を言い当てるために、この文章を書いたかのようである。たとえ、ニーチェがルゥとは別の女性との出会いを念頭に、もしくは、自分とは関係ない、他人の恋愛を横目に見て、着想を得たとしてもである。

 

 さて、ニーチェの恋愛はこれくらいにして、アフォリズム自体に話をもどそう。

 これが、どのくらい当たっているか、当たっていないかを即断してしまう前に、まずは、もしも女性というもの、男性というものが、この通りだったとしたら、と仮定して考えてみたい。

 もしも、女性がこのようなものであったとしたら、男性にとっては、驚くべきこと、恐ろしいこと、もしくは、がっくりとうなだれたいような気分になるようなことではないだろうか。

 なぜなら、彼がある一人の女性を心から愛し、これこそは本物の愛だとか、運命の女性だとか、彼女と生涯を共にできないなら自分の存在に意味はないとか、とにかく舞い上がってしまっている際に、彼はとたんに自分を疑いはじめ、「自分は彼女にとってふさわしい男だろうか?」と不安になるのに対して、

 彼女のほうはというと、ひとたび恋とか愛とかいわれる観念を意識すると、とたんに、自ら誇らしく、自分に力があるように感じ、「この男は、はたして自分にふさわしい男だろうか?」と彼を疑って不安になる。つまり、突然傲慢になるというのだから。

 これではどうも、男女というものは、真剣に恋愛すればするほど、不幸な出会いにならざるを得ないようである。なぜなら、片方が自信をなくし、謙虚になって、自分を低く低く扱えば扱うほど、もう片方では、自信にあふれ傲慢になり、自分を高く高く見積もりはじめるというのだから。恋愛がいつも女王と奴隷の関係になってしまいかねない。

千万葉の閃光

千万葉の閃光

 

 こう書くと、まるで女性を攻撃するだけのために書いていると思われるかもしれないが、私はそこまで攻撃的な人種ではない。こういう女性への擁護もしくは理解も、私なりに持っている。たとえ、ブログの記事が偏れば偏るほど人目を引くのだとしても、である。私は、私にとっての公正さを確保しておきたい。

 要は、男女とか、女性は、男性は、と書くから(といって実際男と女の話だから、そう書くのが自然だが)話がややこしくなったり、または、ややこしい話のように見えてしまうのである。

 メスとオスだと考えればいい。

 つまり、本能的に、ということである。恋愛は、本能に近い、原始的な感情とか欲望にかなり直結したことがらであるから、そう無理を言っているとは思わない。

 メスにとっては、「恋愛」において、一つのオスを選ぶということは、交尾に直結することで、それは妊娠と出産を意味する。女性や男性にとっては「結婚しても子供はほしくない」という選択肢は可能であっても、メスとオスにとっては、「結婚」(つまりパートナーの選択)は、妊娠と出産、それから育児が同義、同義といって乱暴なら、それらはセットになっている。

 妊娠し、出産するということは、子孫を残すということで、遺伝子という言葉を用いなくとも、メスは、自分の子供にオスの形質が受け継がれることを本能的に知っているから、交尾の相手を選ぶにあたって、より優秀なオスの個体を求めるのは自然なことである。

 体が大きくて丈夫である、とか。喧嘩に強い、とか。エサをたくさん運んでくる、とか。巣をつくるのが上手、だとか。

 メスは「どのオスがもっとも優れているだろうか?」と問うのである。つまり、

 「だれが、私にふさわしいか?」と。

 動物によって子育ての方法は様々だが、ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属のヒトに分類されるというわれわれのメスは、妊娠したのち、十ヶ月以上も体内で子供を培養し、その間、妊娠前に比べて、かなり行動に制限がかかるから、魚のように卵を「産み捨て」にできるメスとくらべて、オスの選択はかなり重要である。

 だから、恋愛というものを『唯(ただ)性欲の詩的表現を受けたものである。(龍之介)』として、本能と強く結びついたものと考えることに反対しないならば、男性は女性のこのような感情や意志や行動を大目にみるべきである。

 すなわち、女性があなたの収入や資産ばかりをまず確認しようとしても、それが当然だと納得すべきである。

 あなたがある女性の前に立つと、謙虚になり、自分を低くし、ひざをついてその愛を求めたとして、女性のほうでは、とにかく根拠がどこにあるのか知らないが、いつも自信満々であるだけの(あなたの目からは)つまらない男になびいたとしても、仕方ないと思うべきである。その女性には、その男が優れているように見えたのだから。

 女性が、必ずしもその気がない男にまで気をもたせるようなことを言い、気をもたせて引っ張るだけ引っ張ったあとに、つれなくしたとしても、キープできるだけ男をキープしておくのは女性の特権だと、認めてあげるべきである。なぜならば、メスはひとたび妊娠してしまえば、人生のうちの少なくない期間を、そのオスとの間に生まれる、また生まれた子供のために費やさなければいけないのだから。オスの選択に慎重になり、なるべく多くの選択肢の中から、もっとも優秀なオスを選ぼうというのは当然の欲求である。

 例え、メスの選択が、必ずしもいつも賢明なものだといえないとしても。

 と、ここまで書いておいて、私は重要な一文を略してしまっているのに気がついた。

 ニーチェはこういう断り書きを書いている。

 ここで話題にするのは、申し分のない女性や男性のことである。

  申し分のない女性や男性……。もし、この記事を真面目に読んでこられた方の中で、なんということだ、これでは、真剣に愛し合った男女は、なかなかうまくいかないようにできているではないか、と落胆された素直な方はご安心を。世の中に存在する男女というもののほとんどすべては、おそらく、申し分がある女性や男性ばかりだ。

 あなた方自身も、あなた方が愛した男性も、女性も。ですから、この記事に書いた内容は、あなた方には……いいえ、われわれには、本当には関係ないことかもしれない。(もしくはやっぱり、関係あることかもしれない)

 

 しかし、少なくとも、申し分のない、つまり優れた男女には、こういう不幸なかけちがいが起こるのだとしたら? 私は、申し分のある男、優れていない男、愚かな男として、彼等に同情するほかない。

 結局、優れた者は、優れている分だけの困難が用意されているものだと考え、それこそが才気ある者の証だと肯定的にとるよりほかないのかもしれない。

 

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