読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

生に寄せる祈り──ニーチェを袖にした美女がものした傑作詩

 「生に寄せる祈り」

                作:ルゥ・アンドレアス・ザローメ

 

たしかにそれは友が友を愛するようなものだ

謎めける生よ、私がお前を愛するのは

たとえ私がお前の中で歓喜に酔いしれたとしても、はた又涙にかきくれたとしても

又お前の私に与えたものが苦しみであったとしても、また楽しさであったとしても

私はお前を愛する お前の幸不幸その儘を

そしてもし私を滅ぼすのがお前の必然なら

私は悲しいがお前の腕からわれとわが身をひき離そう

丁度友が友の胸からその身をひき離すように

 

ある限りの力で私はお前をかき抱く 

お前の焔で私の精神に火をつけてくれ 

戦いの燃えさかる熱火の中でお前が何ものであるか 

その謎を私に解き明かさせてくれ 

幾千年も考え幾千年も生きるように 

お前の内実を残りなく投げ入れてくれ 

もしお前が私に与える何の幸福ももはや残していぬというなら 

よろしい お前にはなおお前の苦悩があるではないか。

              f:id:Ashiharayoshi:20160427005817j:plain

 

 ルゥ・アンドレアス・ザローメは、ロシア・ザルツブルクに将軍の娘と生まれ、ドイツで活躍した文人で、フロイトに師事し精神分析家としても活躍した。などと書くよりも

 あのフリードリヒ・ニーチェの愛を拒み、求婚をしりぞけた女性として有名だ。

 彼女はニーチェを袖にした女性として歴史に名を刻んだのである。

 (ちなみに、リルケからも求愛されたが断っている)

 

 ニーチェはルゥが書いたこの詩に、曲までつけている。(クォリティはどうあれ、ニーチェは作曲もする思想家だった)

 ちなみにこの詩は、理想社のニーチェ全集第五巻『人間的、あまりに人間的Ⅰ』の月報、藤田健治「ニーチェをめぐる女性達」の中から転載した。名訳と思う。

 

 ただ、まるでルゥが『ツァラトゥストラ』を書かせたかのように彼女をもちあげる向きもあるようだが、はたしてそうだろうか?

 ニーチェはルゥと出会わなければ『ツァラトゥストラはかく語りき』をものにできなかったろうか。もしくは、ルゥと結婚していれば、書けなかったのだろうか。

 ニーチェ永劫回帰の着想を得るのはルゥと会う前年、一八八一年の夏である。

 ニーチェとルゥは哲学上の師と弟子のような関係だったようである。『生に寄せる祈り』にしても、彼女が独力で書いたというよりは、ニーチェとの精神的な交流によって、その思想を吸い上げて、詩としてまとめたもののように思われる。そのくらい、この詩は、あまりにもニーチェ的なのだ。

 ルゥ・ザローメという女性は、恋愛に不感症的であったがゆえに、優れた男性と純粋な知的交流を求めることができ、彼等から大いに吸収をした人であったらしい。男にとってはたちの悪い美女である。一口に言えば「悪い女」言葉が悪いと感じさせたなら「ファム・ファタール」と言い直してもいい。この場合の「ファム・ファタール」は「悪女」の婉曲表現に過ぎないからである。(そこまで書いては元も子もないから、「小悪魔」という言い方でもかまわない)

             f:id:Ashiharayoshi:20160427005845j:plain

 ルゥ・ザローメについて知りたい人は、彼女の残した書物を読んでみるがいい。

 自分は、そこまで彼女に興味がもてない。しかし、最初に掲げた詩は素晴らしいと今でも思う。少なくともこれは、ニーチェとルゥの関係がまだ破綻を迎える前、二人が精神的な美しい交流を信じ得た時期(そしてニーチェが二人の結婚生活を夢見られた時期)における、見事な成果だったと思う。

 

 ぜひとも、スクロールを上にもどして、最後にもう一度ゆっくり「生に寄せる祈り」という詩を読んでいただきたい。

 

(ちなみに『ツァラトゥストラはかく語りき』をいきなり読んでも、ほとんど多くの人は訳わからんのじゃないかと思う。『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』あたりの記憶をヒントにしてやっと読み解いた記憶があるからだ。後年、その記憶が薄れた際に、あの詩的絶頂を再び味わいたいと『ツァラトゥストラ』を読み返したが、謎だった。そう私はニーチェなんかを読んでいたのである。青春とは、どんなにか自分を知らないままで自分を見積もっているものだろうか! しかし青春は去った。もしお前が私に与える何の幸福ももはや残していぬというなら  よろしい お前にはなおお前の苦悩があるではないか。)