人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

褒め書評とかいろいろ

 amazonの電子書籍(kindle)ならば、どんな人間でも商品として「書籍」を出版できる。しかし買ってくれるかどうかというと別問題なのは多くの人が知るところだ。

 何かを誰かに届ける。しかも金を払わせて届ける、つまり売るとなると、宣伝と営業が不可欠だ。内容は二の次の問題だ。もちろん内容がなければ継続しては売れないから、ある程度の内容が必要になる。内容というのは、この場合時流に合っているか、kindleユーザーの趣味に合っているか、という意味だ。もしもkindleで小説を読む層の大多数が純文学が好きであれば、そこに良質なライトノベルを売り出しても、手にとっては……いや、DLしてはもらえない。

 何かの形で名前が売れている著者であれば(それはweb上の炎上芸でもかまわない)知名度を利用して商品を宣伝できるが、そうでない者は結局人間関係になる。同じような個人出版の著者同士で知り合いになる。

 誰もが、KDP(kindleの個人出版)の出版物を書評してみようということを思いつくが、(自分の批評力を示すことによって、自分の著作、商品に注目を集めようとする)ここに問題が生ずる。批判をすると悪感情を買い占めて潰れてしまうということである。そもそも個人出版本の書評という時点で、ほぼ著者にしか需要がない。そのため批判や否定をすると、かなり高い確率で嫌われようし、一般読者がもともと興味のほとんどないものをけなしているのをたまたま見たとしても、余計に興味をなくしてしまうだろう。

 したがって書評は褒め書評しか書かれなくなる。営業力がある著者は褒め書評を書き、SNSで既存の仲間内の輪の中に入る資格を得る。それは規模としては非常に小さなものかもしれないが、無名の著者にとってそれ以外の宣伝方法が事実上ほぼ0なので、KDPというコップの中では非常に大きなものといえる。もちろん、内容が「kindleユーザーで個人出版本を買ってみてもいいという層」の需要に合致した、ある程度の質をたもっていないとどうしようもないことは事実ではあるが、まず人間関係があって、内容があることも現状否定しようがない。これはKDPの狭さからくる問題であって、しかし、この状況はKDPを広げようとする力にはブレーキとして働くだろう。狭さが生んだ機能は、狭さを維持しようと働くのが普通のことだからである。

 褒め書評というのはしかし、電子書籍の個人出版だけでなく、出版社からの商業出版でも同じで、新聞雑誌にはとにかくなんでも褒めている書評しか、ほぼのらない。(例外はどこにでもあるだろう。KDPにだってあるはずだ)とにかく大勢はそうなっている。商業出版は個人出版よりも断然に広い。しかしずんずん狭まっている業界だから、守りに入ってそのようになっているのだろう。別に出版だけでなく、映画その他も同じように見える。

 批評はどこにもない。言い過ぎであれば、ほぼない。あったとしても、批評の価値をまた批評するというところまではいきつかない。論争が起こりそうになるのは、まわりから「ちょっとアレ」だと思われているような、扱いづらい、変わり者の周囲だけだ。

 しかし本来自由であるはず(と思い込んでいた)の個人出版が、商業出版よりも窮屈だとは……ただし、それは売ろうとするからで、別に売らなければ、そういうストレスは感じなくてもよい。ブログやHPで公開すればいい。だからといって、読んでもらえるわけでもないというのは同じことではあるが……。