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人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

虫嫌い

虫嫌い

 幼い頃自分は虫というものが平気だった。
ダンゴ虫という奇妙な多足生物にかなり親しんでいたように思う。岩の陰や茂みの奥のようにじめじめと湿った場所に潜んでいるそれは、手を触れるとくるりと背中を丸めてだんごのようになってしまう。自分はそれを転がして遊ぶのを好いていたけれども、所詮は一方的な片恋でしかなかった。実らぬ恋の代償のつもりであったかは定かではないが、自分はダンゴ虫をアリの巣へ落としたり、水溜りに漬け込んだりと残酷な遊び方も心得ていた。潰して殺してしまったこともあったように思う。
 当時、自分には唯一人心の許せる親友がいた。彼の家の前には小さな川が流れていて、春のまだ浅い時分から、秋の深まって流れが柔らかい太腿に冷たく刺さる季節まで、そこで文字通り時を忘れて一緒に遊んだ。二人が熱中したのは「いもり」の捕獲だった。まったく、その川にはいもりだけは豊富にあったのである。何百匹も捕まえれば金バケツがいっぱいになってしまう。それを川の水ごとたらいにぶちまけてやる。手を入れてかき混ぜると、だらしなく流れに身を任せるいもりの大群は、黒いドーナツ状をして回る。「気持ち悪いね」「気持ち悪いね」二人は満面に笑みを浮かべ競い合ってたらいに手を入れた。
 幼い頃自分はあのごくごく限られた狭い世界の虫達に対して、専横をほしいままにした。太いハサミを振りまわすカニも、鎌を持ち上げて威嚇するカマキリも瞬く間に捕獲した。その他、チョウ、トンボ、セミ、 コオロギ、バッタ、カブトムシ、クモ、他にもカエル、カタツムリ、アリ、ミミズ、大抵のものは素手でつかんで弄んだ。 自分は小さな神だったのである。

 時は過ぎて、中学を出たばかりの頃、友は不意に自分の知らない遠い異国へ旅だった。そうして少なくともそれと同じ頃には、 自分は虫や自然と戯れることよりも一人部屋にこもって書物に親しむことを好むようになっていた。
 丁度その時分のことである。休み時間の教室にトンボが一匹迷いこんだ。 級友達は、窓ガラスにその身をぶつけてうるさく音をたてる愚かなトンボに気をとられながらも 誰も近づこうとはしなかった。自分は田舎者の野蛮さを身内に感じて、窓へ近づくと 得意げに手を伸ばした。瞬間、トンボはさらに激しく窓ガラスに頭を幾度も衝突させ、自分はその羽音に驚いて手を引いてしまった。それが自分にとってはじめて虫に恐怖を抱いた瞬間であった。誰かによって大きく開かれた窓の隙間から飛び去っていく昆虫を目で追いながら自分は自身の虫嫌いについて気付いたのである。
 そのこと故に今では虫のたぐいをつかもうとすると大変勇気がいる。部屋に小さなアマガエルが入りこんだときには、意を決してつかんだのはいいがその肌の与えてくる触覚の気色悪さに、思わず掌を開いてしまって幾度も逃げられ、アマガエル一匹に大変翻弄された。汚れた食器が乱雑に積み上げられた流しに、小さなゴキブリを見つけた際は卒倒せんばかり であった。なぜここまで虫のたぐいに恐怖を感じなければならないのか自分にも意外に感じられる。今自分には虫とは醜怪なものである。自然も時に人間に恐怖を感じさせる。しかし、虫の醜怪さは自分には尋常ではない。あの甲殻や節足、ぶよぶよした皮膚や、異様の顔面に耐えられない。
 実際、自然に親しまない人間にとってそれは、その人間の想像よりもはるかに「グロテスク」なものではないだろうか。 自分はことさらに「自然の美しさ」を強調する人間を見つけると、その人間が自然と不干渉なのではないかと強くいぶかるようになった。誰かのように自然の美しさをことさらに強調して主張したり、自分のようにことさらに醜怪を恐怖する者は、きっと自然と相容れることの難しい人種ではあるまいか。
 自分の虫に対する醜怪の感覚とそれに伴う恐怖は、虫を通して自分の醜怪を発見することをさけたいがための感情かもしれない。最近自分は、教育番組の昆虫にたいする明るいナレーションの、なにげなく通り過ぎる一言にもぞっとすることがある。
曰く、
      「せっかちのチョウはまだサナギからぬけだしていないメスに交尾しようとしています」