人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

小説「ドロテア」(七) 二日目

 

  小説「ドロテア」(七)

  二日目

 

 

 ヒーロー(英雄)は死なない。どんな危難にあっても、ヒーロー(主人公)には、必ず救済の道が開かれる。作者と観客が望む限り、彼は不死身であり、永遠に冒険を続けられるのだ。
 リッカルドが意識を取り戻したのは、見知らぬ海岸の波打ち際だった。海水をたらふく飲み込んだ体は錨(いかり)に引かれているように重たく、全身の関節が砕け散ってしまったかと疑わせるほどに動きがかなわない。数え切れない擦り傷、切り傷が肌を破り裂いて、波を紅く染め、口の中には鉄錆びた臭いのする砂利を噛まされていた。それでも生き延びたのは、精根つきはてて失神したのちも、右腕で硬い岩肌を抱きしめるようにつかんで離さなかった執念によるものだった。どのくらいの時間朦朧として、打ち寄せる波に洗われたままそうしていたのか。ついに神々の恩寵あって、リッカルドはいくばくかの力を身内にとりもどすと、重苦しい動作で立ち上がり、血に汚れた砂利を吐き捨てる。歩みをおぼえたばかりの幼子のような危うさで、地面に手をつき膝を屈しつつ、やっとの思いで岸に上がった。けれどもまだ安心はできない。リッカルドは目の前に立ちはだかる森の不思議さをあやしんで、この島がプリクートに違いないと確信する。いつ海賊や魔物に襲われるか知れない。ひとまず川の流れをさかのぼって、体を洗い清め、できれば何か潮水のかわりに腹へ食い物を詰めてやり、一眠りして英気を養わなければならない。英雄は、必ずやドロテアに帰って、長兄を殺めて王位を奪い自分を罠に陥れたクレオンを倒さんと誓う。海を振り返って、天を仰ぐと、神々に加護を約してくれるよう大声で叫び、慈悲を乞う。
 危険が迫るのを感じて一旦どこかへ身を隠そうとしている男が、大声をあげるのは奇妙なことだが、もちろんこれは芝居の演出上のことだ。右に記した内容は、リッカルドが舞台の上で演じつつ、一人語りに台詞を話して、観客に教えてくれるものである。だから当然、岸辺に波を寄せる海も、これからリッカルドがのぼっていく川も森も、芝居の上で、そこにあるかのようにして演じられているだけである。もっとも、リッカルドがあやしんだ不思議の森だけは、彼がうち仰いだその向こうに、すなわち、すり鉢状の観客席をもった野外劇場の外側に、陽差しを受けて金色に照り輝く広い葉を茂らせた木々を並べている。
 ドロテア演劇におけるプリクート島は、屋根をもたない半円型劇場と、それを取り囲む小さな森を舞台にする。世界的に見ても貴重な生態系を有していたといわれる原生樹林の森は、主に公国劇場建設のために行われたドロテア島開発によって、この野外劇場を包むわずかな面積しか残っていない。
 リッカルドのプリクート島漂着の場面で、個人的に興味深く、注目すべきと思われる点は、ドロテアの英雄が、森を見ただけで流れ着いた島をプリクートと断言しただけでなく、クレオンを王殺しと断じ、自分をも無き者にしようとしたと確信し切っていることだろう。しかし彼には、そう決めつけてしまえるだけの確たる証拠というものが、何一つないはずなのである。

 

リッカルド 声が聞こえる。魔物どもが血のにおいを嗅ぎつけてきたのか。いや、この声はまるで乙女のように華やいだ女の声だ。それに彼女達の美しく神秘的な姿はどういうわけだろう。この泉を守るニンフ達だろうか。いや待て、魔法をあやつる者達は、自分の姿をよくあざむく術を持つとも聞く。うっかり出ていっては、思わぬ危険にあわぬでもない。

 川をのぼり、森に分け入ったリッカルドは、泉のそばで妖精達の一群に遭遇する。妖精を演じるのは、仮面をつけたドロテア島の少女達である。カゲロウのような透明の羽をつけている子もあれば、蝶の羽を背負っている子もある。黄色い菜種や、白いスズランの花で覆われた服を着た子もいれば、テントウムシやミツバチの被り物に包まれた子もいる。
 仮装した妖精役の少女達は、舞台の端でうかがっているリッカルドには気づかない態で、すり鉢型をした劇場の底にあたるオルケストラ(円形の踊り場)へ降りてくる。すなわち、このオルケストラが、泉として想定されている。
 水遊びをはじめる仮面の少女達の中には一人だけ、仮面をつけない大人の女、つまり外国人の役者がまぎれている。プリクートの王女、ミュネーシケーである。彼女がオデュッセイアに登場するナウシカアーをモデルにしていることは誰の目にも明らかだ。ここでも英雄リッカルドは、ギリシア軍随一の智将に擬(ぎ)せられていると分かる。
 リッカルドは直前に自分が発した台詞に反して、ミュネーシケーの美しさに吸い寄せられるように、言葉もなくふらふらとオルケストラへ降りていく。妖精役の少女達が、わっと声を発して四方へかけて逃げてゆく。
 ナウシカアーがアテーネーから吹き込まれた勇気によって、塩に汚れたオデュッセウスのおそろしい姿を見てもその場に留まっていられたのと同じく、ミュネーシケーもリッカルドを前に、超然とした態度を崩さずにオルケストラの真ん中に立っている。違いがあるとすれば、ギリシア軍の勇士が、葉のついた枝一本で股間を隠しているほかは、まったくの裸だったのに比べて、ドロテアの英雄は、ズタズタに破れ裂けているとはいえ、ともかく服を着ているという点くらいだろう。
 王女は、浮浪者同然の身なりをしたリッカルドを怪しみつつも、彼の顔つき体つきに常の人とは画然とした違いがあるのを聡(さと)くも感づき、氏素性を明かすよう求める。しかしまた彼女は、身持ちが堅いしとやかな乙女にふさわしく、水浴みする女人を覗いていただけでなく野卑な姿で近づいてきた彼の非礼をとがめるのを忘れはしない。もっとも沐浴をしに来たと言った彼女は、登場からそれまで裾の長いドレスを脱ぐ気配さえみせていないのだが。
 英雄は謝罪のあと、生まれと家柄を明かし、次兄の弑逆(しいぎやく)と策謀、自身が誓った復讐については用心深く伏せたまま、ただ航海の途中、難破して船を失い、一人この島に流れ着いたいきさつを簡潔に述べる。少々大げさに過ぎると思われる言葉で彼女の麗しさと背の高さへ賛嘆をささげ(彼の賛辞は、女神アルテミスにたとえるところまで原典そのままである)自分がしたように彼女にも、名前と生まれを教えてくれるよう願う。
 ミュネーシケーは何の疑いもなくリッカルドがドロテアの王族であるという事実を受けいれる。自分はプリクートの王女であると明かし、しかし魔女エオーディアが使役する三つ首の龍によって、彼女の両親である王と王妃は場内に幽閉され、自分は母の故郷であるこの里に、妖精達に守られて心細い暮らしをしているのだと嘆く。

 

ミュネーシケー ……草で葺(ふ)かれた粗末な家に仮の住まいをむすぶ身なれど、旅の苦難に遇われた方の疲れを癒やし、傷の手当てをすることならばできましょう。薬草湯(やくそうとう)の温泉にゆっくりつかって、肌に香油を塗りこみなさいませ。その頃には、ありふれた山里の料理ではありますが、食事の支度も調(ととの)っているでしょうから。
(妖精達に呼びかけ)これお前達、いつまで面白がって隠れているのです。私の言葉が聞こえたなら、これからこの方を一緒に館まで案内し、もてなす支度にかかるのですよ。

 

 英雄と王女は舞台にあがって上手へ退場する。仮面をつけた少女達が騒がしくじゃれ合いながら、二人のあとに続いて退場して、幕がおりる。
 幕があがると、舞台は妖精の館の中である。中央に置かれたベッドのように広いソファに、リッカルドが腰をおろしている。今湯からあがったばかりという風情で薄いガウンを羽織っている。傷にしみるどころか痛みが消え、骨を噛むかのように肉深く食い入っていた疲れも、嘘のようにかき消えてしまったと、温泉の効能におどろいて褒めそやす。隣にはべるミュネーシケーが小瓶を取り出してかかげる。

 

ミュネーシケー 次はこの子達に命じて、香油を肌に塗らせましょう。すれば痛みどころか、見る目にも辛いその全身の傷跡も、きれいに消えてなくなってしまうことでしょうから。

 

 リッカルドは王女の言葉をにわかには信じられないという仕草をしてみせる。油を塗るぐらいは一人でやれると、小瓶を受け取ろうとして手を伸ばすが、ミュネーシケーはその手を逃れ、無言のまま、やんわりとたしなめる。仕方なくまた座り直したリッカルドの周りを、妖精達が取り囲み、香油の瓶に細い指をひたして、傷ついた英雄の胸を腹を背中を四肢を、丹念に撫でさするように、不思議の油を塗りこんでいく。美女を隣にして、仮面の少女達に全身を愛撫されている男という絵面は、ハレムめいていて、兄王の仇を討とうと復讐を誓う英雄にも、両親を魔物の虜にされた零落の王女にも似つかわしいとは思われない。保守的な観客の目には、なにか不徳義な雰囲気さえ漂っているように感じられるだろう。

 

リッカルド とても信じられないことだ。一体、あなたはどんな魔法を用いたのです。まったく、この館を訪れてから、私は驚かされるばかりだ。難破して荒波の海に放り出されて後、新しく負った傷が今はどこにも見つけられない。そればかりか、戦のたびに増えた傷跡も、もはや記憶も定かでない幼少の折、兄達を追いかけ狩りへついていったばかりに、気むずかしい猟犬に歯向かわれて負った向(む)こう脛(ずね)の古傷も、跡形なく消え去ってしまっている!

 

 妖精達が仰々しく、大皿を頭の高さにささげて運んでくる。王女も妖精も手をつける素振りはみせないが、たとえリッカルドが英雄らしく、ヘーラクレースを思わせるような大食漢だとしても、あまりに量が多すぎると言わざるをえない。通常われわれ観客が期待するであろう山里の質朴さとは程遠い。豪勢な雰囲気と気分なら、ともかく出せていると言ってあげて良いのかもしれない。
 その気分に華を添えるのは、オルケストラに降りた妖精達の舞踏と歌唱である。仮面をつけた島の少女達の甲高く、いくぶんか細く薄く感じられる声(彼女達は素人同然なので)が、プリクート王国のはじまりを物語り、王と王妃と、その娘であるミュネーシケーを誉め讃える。

 

(妖精達がコロスを成して舞台下の円形踊り場に登場。ひとしきり舞踏したのち、コロスの長が進み出て、依然踊り続けるその他コロスの妖精を背景に語りだす)
コロスの長 むかしむかし、ドロテアに、双子の王子がいたという。
二人は兄も弟もなく、何につけても対等で、仲睦まじくあったという。
(コロスの中より一人の妖精が進み出て、長のとなりで立ち止まり語る。以下、コロスの三まで同じ動きのくりかえし)
コロスの一 やがて双子は成長し、誰の目にも王位にふさわしい青年となった
コロスの二 一人は、ドロテアを二つに分割し、双子がともに王となるべきと考えた。
コロスの三 一人は、もう一人に位を譲るのをよしとして、自由と新しい土地を求めて旅立った⑴。
妖精のコロス (歌う)かの人こそ我らが王国の始祖
プリクートをはじめて安からしめ、その威光によって遍くしろしめす
真鍮の鱗もつ龍を倒して封印し
月桂樹と葡萄が茂る魔法の森をとりもどした
妖精の女王と結ばれて
今の世の、王の族(やから)と妖精達、二つの種族の祖(おや)となった

そのような者の裔(すえ)として我らこの国にあり
そのような者の裔として汝らまたこの国にあるのだ
まことに正しい血筋をひく二つの家に生まれた
神のごと、凜々しい王と美しい王妃よ
二人の間に生まれた
女神と見紛(みまが)う白い⑵腕(かいな)のミュネーシケーよ

よろこびを歌え
森と野に生き、里に暮らす者達のよろこびを
処女神が愛した、狩人の清らかでかざらない生活を
花咲きほこり、新しい命芽吹く春を
山に木の実は鈴生り、田園に葡萄は蔓(つる)をたわませ、麦は頭をたれる秋を

野には虫、空に鳥、森には毛物、人は家畜を飼い慣らす
牝山羊から乳をしぼろう
麦をひき生地をこねよう かまどで焼こう
歯には固いが滋味(じみ)多い黒パンに蜂蜜をぬろうよ
きのこのスープ、山菜の鍋、木の実のサラダ
葡萄酒を井戸の清水で半々に割る
妖精達にはこれでご馳走
妖精達にはこれがご馳走

よろこびを歌え 妖精の国の王女よ
森と野に生き、里に暮らす人と妖精のよろこびを
処女神が愛した、狩人の清らかでかざらない生活を
容赦ない陽が銀の矢を射かける夏は、川べりに涼とりあそび
虫も鳥も毛物も人も、土に巣に館の中にこもる冬は、歌いつつ機(はた)を織ろうよ

王女よ よろこびを歌え 妖精の国の王女⑶よ
⑴ 一八一四年、ナポレオン皇帝に忠誠を誓うドミトリー・ジュガーノフは、内戦状態に
陥ったドロテアの分割統治を提案するが、連合国側を支持するジルベール・セローに拒否
され、敗北後、プリクートのブドウ農園に奴隷労働者として流刑された。前行からの対句
はこの事実にちなむか。 ⑵ 『オデュッセイア』においてナウシカアーに冠される定型
句と同じ。 ⑶ エドマンド・スペンサー著作の叙事詩は『妖精の女王』

 

 妖精達から促され、ミュネーシケーは再びオルケストラの中心に降りていく。円形の踊り場で、王女は高らかに歌う。妖精達は舞踏によって、歌詞の内容を再現する。プリクートの城に生まれ、一人娘として、優しい父母に、忠実な臣下に、親切な民に養われた幼少期の幸福から、妖精達を供にして折々に花を摘み、青草を踏み、果実をちぎり、機を織った、四季の美しさと、人と妖精の暮らしを歌う。
 けれども、よろこびの歌は中途で寸断されなければならない。魔女と龍が、彼女の歌を恐怖と悲しみに転調させるからである。ミュネーシケーが歌の中で物語る醜い龍の姿は、中世騎士道物語に登場する龍の特徴を備えている。全身が真鍮の鱗で隙間なくおおわれ、三つの首にそれぞれついてある両の眼は、真夏の日射しを一杯に浴びせられた二つの鏡のように眩しく輝き、鋭い爪と歯は鋼鉄で出来ていて、その爪は騎士の鎧をまるで絹のようにやすやすと切り裂き、死体をむさぼる三列の歯は、はなはだしく乱杭に生え出ているせいで、血をしたたらせる人の肉が完全に腐り溶けるまで、腕や脚や内臓の切れ端が間に挟まったままになっているのである。
 王女が歌う言葉を字義通りに受け取るかぎり、この龍は不条理としか思えない大きさをした生物である。翼を広げて王城の上空にあったとき、龍がつくった影は島全体を完全におおいつくしているし、尻尾で城の塀を七周巻いてとぐろをつくったというから、プリクートの王城がこぢんまりした造りであっても、おそらく尻尾の長さだけで二、三キロメートル、長ければ優に十キロメートルはあろうかという巨体である。
 魔女エオーディアが復活させたとされるこの悪しき龍は、劇内ではっきりと言及はされないが、妖精達に歌われたプリクートの創始者が封印した龍であることに疑いはない。詩と物語が、劇の登場人物達にもう一度、つくり物の歴史をくり返せと働きかけているようだ。たとえ私以外の大方の観客がそういう考えにはいたらず、本書の読者から少々大げさではないかという疑いを持たれたとしても、この感慨を独りよがりなものと斬って捨てる訳にはいかないはずである。なぜなら劇内のヒーローがこの力に突き動かされるように、かつて本当には存在しなかった過去を、誰にも演じられなかった歴史を、ふたたび、しかし今度は劇中の真実として反復することを望むからだ。
 ヒーローを促し駆り立てるのはヒロインである。零落した現在までを歌いきった王女は、力なくオルケストラの真ん中で座り込んでしまう。舞踏をやめた妖精達がミュネーシケーに寄り添い、彼女を囲むように未だ成熟しきらない薄い体を折り重ねる。王女も妖精達も目を閉じて、悲嘆のために凍りついてしまったとでもいうように静止する。彼女達は待っている。伝統的な「女性らしさ」の一つとされる狡猾さを胸に秘して、リッカルドの次の台詞を待っている。

 

リッカルド 私が崇(あが)め、その愛を渇(かつ)仰(ごう)するミュネーシケーよ。嘆きをやめて下さい。悲しみの淵から身を救い、面をあげてまばゆい微笑を取りもどして下さい。なにを嘆くことがありましょう。この愛のためならば命を捧げることもいとわない、あなたの僕がここにいるというのに。邪な魔女エオーディアが使役するという悪しき龍も、一点の曇りない正義と対峙すれば、必ずや打ち倒されなければ済まないのですから。

 

 リッカルドは舞台の際まで進み出ると、前景のオルケストラでわだかまっている王女と妖精達を見下ろし、こう呼びかける。女達は英雄の声を聞くと、いそいそと立ち上がって舞台にのぼる。しかしドロテア演劇における「女性的なるもの」は用心深く、さらなる誓いが言葉によって証(あか)されなければ満足をしない。

 

ミュネーシケー 何より嬉しいは力強いその言葉。けれどもプリクートの民を苦しめる魔女の仲間は、龍だけではありません。森に巣くう異形の怪物達も、あたり一帯の海を荒らしまわる魔に魅入られた海賊達も、みんなエオーディアの息子なのです。あの娼婦は、いかがわしい妖術によって自らの姿を半龍半人に変じ空に舞い上がると、鱗におおわれた下半身を用いて、三つ首の龍と三日三晩にわたり、おぞましい契(ちぎ)りを結んだ(⑴)のです。龍退治の旅に出れば、これらの者が再三にわたって行く手を阻むことでしょう。それは言葉にはとても表しえない、長く苦難に満ちた冒険のはずです。
リッカルド 冒険こそ我が願い。私はそれを待ち望んでいたのです。冒険の日々がより長く、苦難が厳しいものであればあるほど、私が捧げる崇拝の偽りなさと、愛の清浄さが証明されるでしょう。ミュネーシケーよ、私を導いて下さい。常に正しい方向へと。悪しき者の汚れた手から、神聖な剣が神聖な大地を取り戻せるように。
⑴ エオーディアと龍の交合については、ギリシア神話に登場するエキドナを思い起こさ
せる。エキドナは上半身が美女、下半身は蛇である。夫テューポーンとの間に、オルトロ
ス、ケルベロス、ヒュドラーなどの怪物を生んだ。

 

 リッカルドが願っていたのは、長兄である先王クレオルの仇討ち、王位を簒奪した次兄クレオンへの復讐だったはずだ。確かにプリクート制圧と海賊撃退は彼に与えられた任務ではあるが、リッカルドは島に漂着した場面ですでに、それがクレオンの罠であったと直観によって喝破したばかりではないか。長い寄り道をして苦難の日々をプリクート島で過ごすことは、先王には不忠、長兄には不義の行いではないだろうか。
 まるで出鱈目(でたらめ)に感じられる英雄の心境的変化を、筋をつなげるためのご都合主義だと解する観客が相当数いたとして不思議ではない。そして当然その感想は大いに認めざるをえないように思われる。しかし、見方を少し変えれば、また違った解釈ができるのも事実である。美女に心を奪われる前とは、あまりにも矛盾したリッカルドの言葉は、騎士道物語の主人公としては実に真っ当である。騎士は、何にも増して冒険をこそ願い、自らの声名を高く天下に知らしめることを夢見ているものだからである。つまり、ここでドロテア演劇の物語世界は、中世ロマンスの世界へ足を踏み入れたのだと了解できる。幕が下りる直前、舞台にあがったミュネーシケーの前で、リッカルドが両膝をつき頭を垂れ、王女がその肩に指先を触れる行為も、剣を用いていないだけで、騎士道の「作法」から影響を受けているのは明らかである。
 昼休憩をはさんで、午後の部として始まる次幕では、馬に乗った英雄と、ロバに乗った王女、従士として二人の後ろをついて歩く妖精クイックの姿を、半円型劇場の外、ドロテア島にわずかに残された原生樹林の森の中に見ることができる。このドロテアの小さな森が、プリクートの魔法の森のかわりをする訳である。
 しかし、われわれはここで一度魔法の森を離れて、公国劇場内の町中では二日目にどんな出し物が行われているかを見るとしよう。あのルゴリオーがどうしているか気にかかっている読者のためにも、私は模造の町へきびすを返さなければならない。リッカルドの冒険の続きは、公国劇場のプログラム同様、しばしの休憩をはさんだ後に観劇させてもらうことにしようではないか。

 

 「ドロテア」(八) 神々は演ず につづく