人類は如何に神々として滅びるか

『自己が無視されることを無視するという彼等の英雄主義』

小説「ドロテア」(五) 初日終わり


f:id:Ashiharayoshi:20171110190353j:plain

  初日終わり


「寝室はここね」
 開かれたドアに肩をもたせ掛けるラウラの向こうには、ベッドが一つきりしかなかった。各部屋の天井にはランプが吊られてある。窓は厚いカーテンに覆われている。踏みならされて柔らかみを失った絨毯の上に、古めかしい家具が置かれてある。壁には、あまり上等とはいえない幾枚かの絵画が飾られている。海と空と海岸線、いずれも単純な構図の島の景色だ。同じようなまずい絵が、役者が寝泊まりするどの家の壁にも掛けてあった。電化製品は小さな冷凍冷蔵庫一つきりで、それも一目ではチェストに見えるよう偽装されてあった。壁にコンセントは見当たらない。以前、真夏の開場後に、窓もカーテンも開け放しでドライヤーを使っていた役者がいたせいで、すべて潰され壁紙のうしろに隠されてしまったのだった。ダイニングキッチンには、ガスコンロが一口だけある。窓がないバスルームは、トイレも洗面台もシャワールームも、近代的で真新しいが、浴槽はなく、壁付きのシャワーは、温度調整が難しいだけでなく、時折湯が出なくて冷たい水ばかり浴びることになる。
 ラウラは、こういう二階の部屋々々を、以前のルゴリオー達にやったと同じようにして、新しいルゴリオーに案内するのだった。時々に変化はあれど、つまりバスルームが改装されたり、コンセントが潰されたりはしても、ラウラ達がルゴリオー達に、もしくはルゴリオー達がラウラ達にしてやったのとほとんど変わらないやり方で、新しいルームメイトに教えてやるのだった。
 だから、ラウラがはっきりと覚えているかいないかはともかく、彼女もまた、はじめてドロテアを訪れたその日、ルゴリオーから案内を受けたのだった。ただし、その日ルゴリオーは、彼自身の寝室とは別に、ラウラの寝室があると教えてくれたはずである。暮らしの名残すら全く感じられない部屋に、長く使われていなかったようにしか見えないベッドが置かれてあって、壁には、凪(な)いだ海と水平線しか描かれていない凡庸な絵画が、一枚だけ掛けられていた。そのベッドはラウラが処分して、今はもうない。
「一緒が嫌なら、私がソファに寝るけど?」
「いや僕が、僕がソファで寝ます」
「そう、私はシャワーを浴びさせてもらうわね。正門が閉じたら王宮へ遊びに行くのよ。あなたも誘ってあげたいけど、台詞覚えが優先でしょ?」
 ラウラはルゴリオーの前で遠慮なく衣服を脱ぎ捨てたものだ。
 ──祝砲が響く。ルゴリオーは室内を歩き回っていた足をとめ、台本から目をあげた。最前まで微かに震えていたのではないかと感ぜられる厚手なカーテンの隙間をとおして、戴冠式が上演されている王宮を望む。ドアが開け放されたバスルームから、シャワーの音が聞こえている。また祝砲が響いて、さきほど空砲がガラス窓とカーテンを震わせたと感じたのが、幻覚に過ぎないと分かるのだった。
 ドロテア演劇初日の呼び物となっている戴冠式は、絢爛かつ豪華に執り行われる。王位の簒奪者として描かれるべきクレオンの即位を演出するにあたって、あってしかるべきと思われる葛藤は全く感じられない。つまり、戴冠式をある程度見目よく演出しようとすれば、ドロテア公国としての威容を示そうとする意図と、クレオンの非正統性をあくまで強調しようとする立場が対立し、板挟みとなるのが普通でないかと思われる。しかし、実際の観客がそれぞれどのような感想を持つかはおくとして、ドン・アントーニオの強い意向により、公国劇場としての演出方針は、ほぼ前者だけを意識するよう強いられてしまった。これは本書作者の推測などでなく、生前の終身大統領が「もっと豪儀(ごうぎ)に」と指示する言葉を、私自身が何度となく耳にしているのだから間違いない。
 リッカルドの偽りの葬儀とはうってかわって、参列者の衣装は、役者はもとより仮面達の末端にいたるまで、けばけばしいくらい派手やかに飾り立てられている。あの賢者フランシスクさえ、乗りつけた馬車から降りると、金糸をふんだんに織り込んだガウンを羽織って、いそいそと宮殿の中へ消えていくのだし、アイヤック将軍は、鮮やかな藍色をした軍服に重々しい肩章をつけ、胸元には金ぴかの勲章を数え切れないほど並べ立てている。まだ出世前のルゴリオーであっても、彼のトレードマークとなっている深い緑のベルベットでいつものようにシャツもズボンも上着も揃えているだけでは終わらず、薄桃色のかつらを被り、馬鹿でかい羽根飾りを胸に挿して肩の後ろまでなびかせ、さらにハイヒールを履いて肥満を危なっかしくふらつかせている。
 帽子、襟飾り、袖飾り、長手袋にショール、スカーフ、マント、ベルト、ワッペン、装飾をいちいち数えたてていてもきりはないが、とにかく悪目立ちするほど、何でも大きく、大げさな趣向を凝らしてある。婦人達にいたってはより一層で、着こなすドレスの様式に年代的な統一がないのはご愛敬だが、その分、変化に富んだ様々な装いと彩りが、観客として訪れた皆さんの目を、痛いくらいに刺激してくれるだろう。装飾のなかでも、とりわけ目を引くのは宝石類で、式に参列する女性達は、頭からはじまって、耳、首、胸元、手首、指、ドレス生地、靴と、隙間があれば埋めねば気が済まないとでもいうように体中をきらめかせている。イミテーションであればこそ、本物よりも派手やかに光り輝くのである。ただし、宝石が偽物なのは、ドン・アントーニオの財力の限界や、吝嗇(りんしょく)を示すものではない。本物を使えば頻発していただろう盗難を気にしてのことだ。島では、往々にして、盗む者よりも盗まれる者が軽蔑の対象となる。
 こうした毒々しいほど派手やかな衣装の連なりを眺めたのち、「豪儀」にと望んだドン・アントーニオの真意が、やはりドロテアの威厳を高めるためでなく、その悪趣味さによってクレオンの権威を損なわしめ、王としての非正統性を強調することにあったのではないかと考え直す読者がいても不思議ではない。しかし、私はその考えを即座に否定できる。なぜなら、島民の中にそのような感想を持つ者など、一人として存在しないと知っているからだ。その点、大統領も島民の一人にすぎなかった。
 あるいは馬車で、あるいは歩いてやってくる役者と仮面が宮殿内に消えてしまうと、あとに続いて観客の入場が可能になる。われわれもまた観客にまじって王宮へと入り、戴冠式の様子をもう少し覗いてみよう。
 施主(せしゅ)の気まぐれな注文をいちいち叶えようと骨折りしたせいで、いくつもの建築様式が互いに調和をあきらめ、隣同士に組み合わされている奇矯(ききょう)な外観と同じく、統一という言葉を無視した内装は混迷をきわめている。無味乾燥な灰色の角柱から、柱頭に細かな装飾をほどこした大理石の柱へ向かって、しぶきをあげる波のような優美で気ままな曲線がアーチをかけたかと思うと、反対側の壁には、規則正しく整然とした柱とアーチの連続のど真ん中に、突然円屋根のドームが張り出し、真っ直ぐ続いているべき廊下を、脈瘤(みゃくりゅう)のできた血管のように不細工にしている。必然性のまったく見当たらない複雑さは、見る人の混乱ぐあいによって、宮殿の内部を実際より狭くも広くも感じさせる。
 大広間の天井には、ドロテア公国には似つかわしくないギリシアの三処女神が描かれている。王宮に礼拝堂は存在しないから、戴冠式はここで行われるのである。
 玉座の据えられた最奥部は、なだらかな階段によって舞台のように高くなっている。床にはペルシア織の絨毯が、入り口から玉座の下まで、満天を埋めつくす星々のように、さまざまなモチーフをちりばめている。壁には大小、長短を問わないタペストリが、嵌め絵のように隙間なく掛かっている。しかし、これらアラス織りの絵柄は、新約、旧約聖書に関わるものでないのはもちろん、ギリシア、ローマ神話にも関係ない。公国劇場の役者が演じるドロテア演劇の一場面を、わざわざ織り込ませてあるのだ。ドロテア演劇全体の中心人物にして唯一の縦糸であるリッカルドの物語はもちろん、名もない庶民(というのは、捏造されたドロテア史において無名ということであって、芝居上の役名は当然存在する)の、歴史的には取るに足りない生活の一コマも壁面を飾っている。それこそ「ほらふき兵士」の末裔(まつえい)や「ずるがしこい奴隷」型の登場人物が織りなす、俗気(ぞくけ)のつよい芝居の一場までもがである。
 そういう「威厳に満ちた」大広間に、役者と仮面、個別の観劇料金を徴収された観光客が左右に分かれて並んでいる。純白の軍服に身を包んだ仮面達が近衛軍楽隊として登場し、列席者の真ん中で吹奏をはじめる。行進曲にしては軽やかで愛らしい。時折、音を外したりテンポがずれてしまうのは、週に一度しか演奏の機会がない、にわか仕立ての楽団だからと大目に見ていただくしかない。しかし、ともかく全体としては、愛らしく魅力的な行進曲が吹奏される。
 軽やかな旋律の上に、トランペットの威勢いい音色が重ねられるのを合図に、軍楽隊もまた左右に分かれて整列し、道をつくる。耳驚かされた観客は、背後に新しい王の姿を認めるだろう。王笏を握ったクレオンは、弟の葬儀でも着ていた衣装へ、さらにローブと長大なマントを重ねた豪勢な姿をしている。数歩下がった隣を、クレオン夫人がついていく。新王妃は仮面をつけており、戴冠式にしか登場しない。しかし島民の演者はクレオン夫人にはなれない。彼女を演じるのは、この場へ列席する必要のない平民役、すなわち、ラウラやベルやフローラといった役者が持ち回りで務める。王の後ろには侍童達が、王妃の後ろには侍女達が、それぞれ付き従ってマントの裾をささげ持ち、侍童はまた、王冠と王妃冠、王剣を恭(うやうや)しくささげている。
 夫人は階段の下で、侍者達は彼女の後ろで、立ち止まる。クレオンは階段をのぼって振り返り、衆を睥睨(へいげい)すると傲然(ごうぜん)として玉座に腰を据える。王冠と宝剣をささげる侍童が二人並んで、玉座へと階段を上る。司教服を着た仮面が一人で続く。葬列と同じように「神父の脚本家」が演じるのが慣例だ。司教が王冠を取り上げようとすると、クレオンは立ち上がって制する。両手で冠を高く掲げ、再び玉座につき、自らの手で自らの頭に王冠をかぶせる。おごそかな吹奏が鳴りわたり、城外で一発目の祝砲が発射される。王族と諸侯、廷臣一同が、王への服従を唱和する。クレオンはまた立ち上がり、宝剣をとって鞘(さや)から抜き、掲げると、高らかに王位の継承を宣する。侍童のささげるもう一つの冠を持ち上げ、階段を一段一段踏みしめるように下りていく。クレオン夫人は両足をひざまずいて頭を垂れ、胸の前に両手を合わせ待っている。王が王妃に冠をさずける。
 二発目の祝砲が撃たれ、空砲は三発目、四発目と数秒間の間隔をおいて続けざまに発射される。軍楽隊はふたたび軽やかな吹奏をひびかせ、王は王妃を伴い、侍者を引き連れて大広間をあとにする。
 王と王妃を見送ると、役者と仮面は二人組に連れ立って舞台へあがり踊りはじめる。軍楽隊はワルツを演奏し、舞台にあがらない人々は、観客を含めて金鍍金(きんめつき)した杯を手にし、水で割らないワインで乾杯する。
 クレオンは宮殿前広場を足もとに見渡すバルコニーへ姿を見せる。王妃の姿はもうない。城門は開け放たれたままになっており、公国劇場への入場料のみしか払っていなくとも、建物外なら宮殿敷地内を行き来できるから、観客はクレオンの演説をほぼ真下の位置から見物することだってできる。しかし、内容をまともに把握するのは難しいだろう。大砲と小銃による空砲が続けざまに発射されて、新しい王が力強く訴えているはずの言葉をかき消してしまうのだ。
 もともと、クレオンの演説原稿は、ドン・アントーニオの口述筆記によって、都度(つど)、かなり頻繁に新しく書き下ろされていた。狂ったような空砲の連発は、当時からの慣習なのである。理由として考えられる一つ目は、大統領の手稿(しゅこう)内容に、劇内世界を逸脱した二十世紀現在のドン・アントーニオ自身の政治的主張が、相当量含まれていたからである。彼はクレオンの姿を借りて、政敵や商売敵、本土の政治家などを、暗に示してあてこすり、時には実名さえ挙げて、かなり露骨な個人攻撃をやりたい放題やっていた。空砲の連発は、明らかに行き過ぎた批判が、ドン・アントーニオ自らへ跳ね返ってこないための煙幕として働いたというわけである。もう一つの理由は、誰もが嫌悪の対象としているドン・アントーニオへの、島民からの嫌がらせだという考えだ。仮面をつけて兵装し、嬉々として空砲を撃つ劇場職員も当然島民であるし、高きにある王を取り囲んで島民の観客がする喝采も、クレオンの演説にというよりは、それを妨(さまた)げる空砲の連続にこそ向けられている。個人的な記憶をさかのぼれば、ドン・アントーニオ在世中の、つまり彼が書いた原稿が演説されていた時分のほうが、島民達は熱狂的であったと言えると思う。いわば島民間のガス抜きとして作用していたのである。
 ドン・アントーニオの真意がどちらにあったかは今はもう確かめようがない。確かめようはないが、島民達はその二つの理由にともに頷(うなず)くし、私もそれが真実ではないかと思う。二つの動機は補完し合って存在していた。島民の嫌がらせは、大統領を擁護すると同時に、彼等自身の鬱憤のはけ口にもなっていたのである。
 公国劇場初日の出し物としての劇はこれで終了する。ただし、全体の閉場まで、すなわち観客が追い出されて正門が閉まるまでには、いくらか時間が残っている。場内はその間、祝賀の気分一色に染まるのである。これは私見に過ぎるかもしれないが、度(たび)ごとに私は、自棄(やけ)くそ気味のお祭り騒ぎという言葉がしっくりくるような唐突さを感じたものだった。少なくとも場内を盛り上げる仮面達は、いくぶんかは自分に無理を強いて、調子外れな陽気さを演じているはずである。
 家々の軒先(のきさき)に、または窓から、ドロテア公国の国旗が掲げられる。青と緑という色の取り合わせは共通しているものの、デザインがまちまちなのは、どの旗もドン・アントーニオを完全に納得させるにはいたらず、何度も作り直しが命じられたからだ。それでも大統領存命中には、違うデザインの国旗が同時に町を飾りはしなかった。ドン・アントーニオの死後、破れたり竿(さお)が折れたりした旗のかわりに、物置で眠っていた古い旗を使っているうち、ついには全て持ち出して、劇場中にめったやたらと突き立てられるようになってしまった。とはいえ過半数を占めるのは、大統領最晩年に制作された最新の国旗である。マリンブルーの背景の真ん中に、エメラルドグリーンの円が描かれ、さらに円の中心には、アルゼンチン国旗から借用したのが明らかな金色の太陽のシンボルが、なにゆえか破(は)顔(がん)して永遠に呵々大笑(かかたいしょう)したまま、磯臭い風にゆらめくのだった。
 普段は交代制で、町角にぽつんぽつんと、もしくは酒場の隅でつつましやかにギターをつま弾いている仮面の歌手達が、広場や通りの真ん中へ一斉に繰り出してくる。ファドやカンツォーネといった民族歌謡の影響が色濃く感ぜられるドロテア歌謡(という名称を許していただけるならばだが、本書では主に公国劇場内で演奏、歌唱される楽曲を指して用いさせて頂く)は、ここでは情念や哀切といった印象から遠く離れて、生まれ育ったドロテア島を無邪気に賛美したり、得恋(とくれん)の喜びと楽しみを素直に歌うような、気軽な明るさに満ちている。ギターを弾く仮面は自分で歌うばかりでなく、他の歌手の伴奏もつとめる。ギターを弾かず、歌いもしない仮面達は、彼等のまわりに集まって歓声をあげ、手をたたき、しらふのままで、まるで酔っ払ったように歌に合わせて踊る。町中で騒ぎ、ふざけ踊るのは、仮面達ばかりでなく、島民の観客も含まれている。ただし彼等の多くは、酔っ払っているように見えるのではなく、外で飲んで来たか、こっそりと持参したかは知らないが、相当量聞(き)こし召(め)したアルコールのせいで、すっかり出来上がってしまっている。
 外国人だからといって空騒ぎの輪に入るのを躊躇(ためら)わなければならないという法はない。あなたに舞踏の覚えがあれば堂々と、いや自信がなくとも、皆あたたかく歓迎してくれるのだから、ギターに合わせて自由にステップを踏み、断続的に続けられる祝砲に励まされ、手をひねり腰をくねらせて楽しんでしまえばよいのである。旅先での小さな恥をおそれて手足を萎縮させていては、バカンスを充分に楽しめはしないだろう。いっそ閉場後、あなたのいない所で島民達の物笑いの種になるほどに振る舞ったほうが、ドロテアをより満喫できると請け合える。
 一心に歌い踊る熱狂と、度を越した騒ぎの熱量が、劇場内を包みつつあるような幻覚を誘う。今にも飽和し、決壊した堤が濁流をすさまじい勢いで迸(ほとばし)らせるように、何かが、この時、始まり起ころうとしているという予感がする。しかし閉場の時間はいつもここで訪れる。予感は予感のまま、夢は夢、まぼろしは、まぼろしに過ぎない。場内アナウンスに合わせて、さっさと帰り支度をはじめる仮面達を見れば、どんなに酔っ払った公国民も、現実を踏み外して自分を見失っていた外国人旅行者も、白けないわけにいかない。
 唯一、宮殿の大広間だけは、劇場が閉鎖された後も馬鹿騒ぎを続ける。残っているのは外国人の役者だけである。役者達が大っぴらに酒を飲めるのは、一週間のうち、この日だけなのだ。アルコールで、もしくは酒より強い何かに酔って、いい気分になった者達が外へとび出し、気まぐれに空砲をぶっぱなす音が午前零時近くまで島に響く。煙草と安葉巻の煙で濛(もう)々(もう)とする大広間では、時に空が白み始めるまで、ワインをくみあげる金色の杯が打ち鳴らされ、楽団のでたらめな吹奏に合わせて千鳥足のステップが踏まれる。
──「また台本と首っ引きなの? 舞台で出来てるんだからいいじゃない。とちったことだってないくせに」
 ラウラが家に帰り着くのはいつも、日付もとうに変わってしまった真夜中だった。派手な音をたててドアを開け閉めし、もしくは閉め損なって開け放ったまま居間に倒れ込むのだった。両脚を横に投げ出して床に座り、むずかってパンプスを、ミュールを、あるいはショートブーツを脱ぎ捨てる。濫(みだ)りがましく服を着崩して、ソファの隣にもたれかかったり、額を合わせて台本を覗きこんだり、突き出した胸を先にして、ルゴリオーの背中へしなだれかかったりする。膝や脛にうっすらと痣(あざ)をこしらえていることもあれば、襟に自分の色と違うルージュのあとをつけていることもある。泥酔してひどく乱れた風情だったが、顔の化粧だけはしっかり整っているのだった。少なくとも関係する前に、ひとから言われず勘づくような敏(さと)いルゴリオーはいなかったと思うが、ラウラはいつも帰宅前に化粧を入念に直していた。
「君だっていつもいつも、初日の夜は午前様じゃないか」
 ルゴリオーがとっさに口にできる皮肉といったら、このくらいが関の山だ。
「そうよ。誰かさんのせいで、私は毎晩ひとり寝なんだもの。今日ぐらい飲まなきゃ。一週間に一度くらいはね。私だけが寂しくひとりなんだから」
「君だけってのは言い過ぎだろ」
「私だけよ。こんなみじめな気分を味合わされているのはね。例えば他に誰がいるっていうの?」
「そうだな、例えば……」
「例えば?」
「エレオノールとか」
「エレオノールだって今頃宮殿で可愛がってもらってるわよ。あなたは鈍すぎて、何にも知らないのね」
「彼女が? じゃあクレオンと? 信じられないな。だって……」
「だって何よ?」
「だって、エレオノールが自分で言ってたんだ。私達はきっとそうはならないって」
「あなたは馬鹿がつくほど真面目で、出番がないときは台本ばっかり。始終演技のことしか考えてないから、何も知らないのよ。見せてあげたかったわ。今夜あの二人がどれだけ寄り添って腕組んでいたかをね」
 ルゴリオーがラウラより噂話や裏の事情に通じているはずがない。反論の手立てがない彼はただ黙って、腑(ふ)に落ちないという感情を、わずかな仕草や表情で控えめに表すだけだった。
「今日は私もソファで寝ようかな」
「これ以上僕をからかわないでくれ。頼むよ」
「どうして? あなたの稽古にはもう何遍も、ううん、何十遍だって付き合ってあげてるっていうのに。私が一度でも嫌な顔をした? それなのにあなたは、私が寂しいからただ枕を並べて寝て欲しいってお願いしても、冷たく断るだけなのね」
 島に着いたばかりの外国人の役者には、台本の暗記にくわえて、稽古が課せられる。演技指導をするのは、脚本家達の仕事である。ドロテア演劇の草創期はともかく、リッカルドに関する主要な物語や、定番となった出し物の劇脚本が充分に出そろい、ほとんど完成している近来の公国劇場では、脚本家の仕事の比重は、新人役者の指導をふくむ演出家としての役割に偏りつつあった。
 はじめの数週間、新人役者は脚本家が付ききりで芝居の稽古に精をだす。彼等のかわりに仮面が出演している間はもちろん、付け焼き刃のまま舞台に上がってからも、出演時以外のスケジュールは稽古時間でびっしりと埋められる。ルゴリオーもまた例に漏れず、台本漬け、稽古漬けの日々を送る。他とくらべて出番と台詞の多い役どころである分、負担も大きい。恵まれているのは、彼とラウラが暮らす建物の一階が、劇内において、はじめフランシスクの家として、フランシスク没落後はルゴリオーの家としてみなされる、割合に上等な芝居小屋となっていることだ。階段の上り下りだけで、稽古場と自室を往復できるし、最初から舞台での稽古が可能になる。稽古には、相手役となる先輩の役者が付き合ってくれることもある。ルゴリオーの場合は、フランシスクやジャック、イライザにジムといったところだ。とはいえ、主には脚本家が稽古の相手を務める。ラウラを除いては。
 ラウラは自分の出演時と初日の閉場後を別にして、ルゴリオーの世話にかかりきりになるのだった。読み合わせや立ち稽古の相手をしてやるだけではない。飲み物と軽食から汗をふくタオルまで用意して雑用をこなし、食堂棟まで出向いて人数分の夕食をもらい受けに行くこともある。励まし、優しく叱咤(しった)し、まめまめしく立ち働く姿を見ていると、ルゴリオーが小用に立った折にさえ、介添(かいぞ)えに行こうとしかねないように思われたものだ。
「仕方ないでしょ、これだって私の仕事なんだから。そんなつまらないことを気にするより、早く脚本家を納得させる芝居ができるようになってくれさえすれば、私だって荷がおりるし、あなたも楽になれるのよ」
 ルゴリオーがこれ以上の協力を遠慮しようとしたり、感謝の言葉ではなく詫(わ)び言を多く口にするたび、ラウラはこのように言ってうまくはぐらかしてしまう。一階にいる時のラウラは、二階にいる時とは別人のようにさばけているのだった。脚本家の目があるからかもしれない。彼女なりの打算がありもしたろう。それが最終的にどういう影響を二人の間にもたらしたかは別にして、後になって、というのは二階で前述のようにラウラが恩着せがましく自身の献身を持ち出した際に、どのルゴリオーも動揺を隠せなかったのは間違いのないところである。あるラウラの言葉を借りれば「ルゴリオーはずいぶんと可愛い顔をしてみせる」のだった。
 ラウラのいじらしいほどな奉仕の甲斐もあって、ルゴリオー役についた新人役者が稽古でつまずいたり、初舞台直後に大きな失敗をやってしまうようなことはなかった。ただ、ルゴリオー役に採用されるような役者は、演技の巧拙(こうせつ)に個々人の差があるのは当然としても、もともと稽古熱心で実直な性格の人間ばかりだから、たとえラウラの協力がなかったとしても、はなから島民の支持を急速に失ってしまうような心配には及ばないのである。
 新しいルゴリオーは、前任のルゴリオーや、さらにその前のルゴリオー達と同じように、まずまず悪くない評判を得て、公国劇場での活動をはじめる。それがなぜ脚本家の手をはなれてからも、ページが波うつくらいに読み込み、空(そら)で言えるようになった台本と、深夜まで首(くび)っ引(ぴ)きでいるほどに追い込まれなければならないのか。
 理由は単純だ。芝居がうけないからである。批評という機能が一切存在しないドロテア演劇においては、役者の命運のすべてを公国民の好き嫌いだけが左右してしまう。そして島民達の「悪くはないが、どうもね」式の評価は、噂という形をとって否応なく、その上あまりにも迅速にルゴリオーの耳に届くのである。新人役者のほとんどがこの見えない壁にうちあたる。うけないと分かっても、どのように演技を改善すればいいかという手がかりは与えられない。いや、もっと深刻なのは、舞台でうけている場合、役者が成功したという手応えを感じ取っている場合である。どんなに観客の反応が良いと感じられても、一夜明けてルゴリオーが耳にするのは「まあ観客が気に入らなかったんなら仕方ないさ。あまり気にし過ぎないがいいよ」というような気の抜けた慰めの言葉でしかない。したがって、ルゴリオーに役者としての技量があるほど、演技が上手ければ上手いほど苦しみは強くなる。下手だという自覚があれば、客にうけないのも慣れっこなはずだからである。
 ルゴリオーにおざなりな慰めの言葉をかけた先輩役者達は、次には決まって、ラウラとはうまくやっているかと、何の気なしという態度でさぐりを入れる。彼女はあの店のミートパイが好きらしいぞとか、牛乳練りの揚げ菓子に砂糖をたっぷりまぶしたのに目がないんだと教えてくれる。花か服か指輪か、とにかく何でもいいからプレゼントしてやれとすすめる者もある。
 役者達はどうすればルゴリオーが島民に受けるようになるかを知っている。可能性の問題として、役者達の知る方法が唯一の解決策ではないとしても、島民は熱烈にルゴリオーとラウラがそうなるよう願っている。いずれにしろ、これまでのルゴリオー達が、演技についていくら悩もうが、穴があくほど台本を凝視しようが、効果がなかったのは確かである。
 どれほど野暮なルゴリオーでもいつかは、島民が何を望み、役者達が暗にすすめるところが何を意味しているかを理解する。ラウラが若ければ若い時分であるほど、より簡単になるのはこれまでの結果からいって間違いないのだが、たとえラウラが二十半ばで、微笑一つでどんな男も魅了せずにはおかない美しい女であっても、ルゴリオーの実直さが邪魔になってしまう。とはいえ、ためらいの一つも見せないルゴリオーを島民が支持するか疑問ではあるが。
 ルゴリオーはあくまで舞台上での評価を求める。私生活を切り売りして名を挙げるゴシップスターの真似をせずとも、演技によって観客の心をつかむことがドロテアにおいてもできるはずだと頑なに信じるのだった。報われない信仰である。ルゴリオーはすこしずつ島民の支持を失ってゆき、ついにはほとんど興味さえ持ってもらえなくなる。ドロテア演劇中、もっとも人気の高い役であるはずのルゴリオーの舞台に、空席が目立って増えていく。期待も注目も全くされていない役者が、どんな名演をやってのけたところで、喝采を浴びるのは難しい。ルゴリオーにとって、一身のみのことならば我慢もできよう。彼等にとって真に辛いのは、自分の不人気が伝播するように、ラウラまで島民から愛想をつかされ始めてしまうという事実だ。
 ラウラは経験から──というからには、ここで言及するのはベテランの、いくらかの若さを失ったかわりに幾人かのルゴリオーをすでに知っている「リボンを結った乙女」に限った話である──自分の人気が落ちていることには触れずにおくのが一番だと分かっている。ルゴリオーを気遣ってというわけではない。気遣っているふりをしてみせれば一層、ルゴリオーの良心が痛むと知っているからだ。またラウラは、ルゴリオーがドロテアに慣れないうちに誘いかけたりはしない。台詞覚えに稽古、初舞台から数週間が過ぎるまでの新人役者は、あまりに忙しくて心に潤いを求める余裕もないからである。そのかわりにまだ彼等には希望がある。ラウラが積極的に働きかけ始めるのは、ルゴリオーが苦しみ努力して、その努力が無駄に終わるということを理解しかけた失意の時である。
 もちろん、常に成功するわけではない。片意地なルゴリオーの中には、最後まで、役者とは演技とは演劇とは、そして観客との関係は、いかにあるべきかという理想を崩そうとしない者もいた。だからといって、一、二ヶ月ですぐ追い出されるというわけでもない。島民からの支持を完全に失ってしまった役者でも、本人が希望する限り契約上誰にも止める権限などないのだし、それでもまあなんとか、三ヶ月あまりか四ヶ月弱、あるいはもう少しほどならば、不人気のままで持ちこたえた場合もある。
 しかし、ドロテアを知る者達によく記憶されている「太っちょの」「女狂いの」「全身テカテカした緑色で包まれた」ルゴリオーは、もっと長く公国劇場で活躍し、多くの公国民から愛されたルゴリオー達だから、公国民が望むもっとも簡便な方法を、私生活で行ったために嵌(は)まり役(やく)として認められたルゴリオーだった。すなわち、白いリボンをほどいたラウラと、ただ枕を並べただけでなくベッドを(あるいはソファを)共にしたルゴリオーだった。青いブルゾンを着て公国へやってきたあの青年も、ルゴリオー役で人気をとったからには、ベッドで、あるいはクッションのきかないソファの上で、情けない心持ちにふさわしい性急さをもってラウラとの愛を結んだはずである。
 ラウラはみじめなルゴリオーを慰めてやりながら毎回、魂が体を抜け出して天にのぼるかと思うほどに有頂天な気分でいるのだと教えてくれたものだ。はしたなく滑(こつ)稽(けい)な格好で情欲をむさぼっていながら、自分がまるで天使になった気がすると言うのだった。
「あなたはこの島できっとうまくやっていけるわよ。私には分かるもの」
 行為を終えて、恋人にかぶさる肩を上下させ、荒い呼吸を継いでいるルゴリオーの頭を、ラウラは両腕の中に巻き込んで引き寄せる。押しつけた乳房の間で彼を溺れさせつつ、優しい声色で未来を言い当ててみせるのだった。
 昨日まで禁欲を押し通してきた二人は、もう一度励みはじめるまでの気怠(けだる)く過ぎていく時間の中で、夢見心地に体をさすり合うのだった。それぞれ相手の体をわが道として蠕(ぜん)動(どう)する二匹の芋虫のように、体をこすり合わせるのだった。ラウラは身内の奥底に沈潜していく心地よい疲れと、ゆっくりとかき混ぜられる熾(おき)火(び)のように再び取り戻されていく意欲を、二つながらに感じながら、決まって自身が新人役者として公国へやってきたばかりの頃の思い出を、とりとめなく語りはじめるのだった。
「私が今のあなたと同じように、公国で役者になったばかりの時はね、ルゴリオーを愛してあげなかったの。でも意地悪でそうしたんじゃないのよ。ルゴリオーが望んで求めてくれれば、私はそうしたと思うもの。でも、彼はそうしなかった。私の前のラウラとはそうしたはずなのよ。あとで人づてに聞いたし、いいえ聞かなくっても、この家に来たとき私にはすぐわかったの。でも、彼は私にはそうしようとしなかった。
 私はラウラでしょ? だから、ルゴリオーとは違って、別に彼とそうならなくったって、なんとかなるのよ。島の人間はラウラとルゴリオーの組み合わせを一番よろこぶでしょうけどね。ラウラは「誰にも手に入らない女」なんだから。ジャックを除けばの話だけど。
 でも、ルゴリオーは違う。ルゴリオーは「節操のない女好き」なんだもの。真面目な堅物っていうだけで島民が許してくれたらいいんだけど、それじゃあクレオンとも「名前の長い海賊船長」とも区別がつかないって言われてしまうのよ。公国劇場がはじまった頃からそうだったとは思えないわ。最初にそうなったラウラとルゴリオーの責任ね。それとも、やっぱり、島の劇がはじまった頃からそうだったのかしら?
 とにかくあの時、ルゴリオーは私に手を出そうとしなかった。ルゴリオーらしく紳士な人だった。いいえ、新しいラウラをほうっておいたんだから、ルゴリオーらしくなかったと言わなきゃいけないのかしら。そうね、彼は私が来たときから──別の言い方をすれば前のラウラがいなくなったときから──ルゴリオーにふさわしくなくなってしまったのよ。見る見る人気が落ちていって、私がここに慣れた頃には、すっかり役者として落ちぶれてしまってた。私は仕方がないから、次の新しいルゴリオーが来るまで他で間に合わすしかなかった。
 でも、未だに理由が分からないの。ルゴリオーはドロテアが嫌になって、役者を辞めて、島を出たかったんだと思う? いいえ、それなら島を出る直前まで、あんなに熱心に芝居に取り組んでいたのはおかしいと思うのよ。もう誰もあの人の演技には興味がなかったんだし、ルゴリオー自身が誰よりそれを分かっていたはずなんだから。それに、辞めたあとの当てを聞いても「何もない」って言うんだもの。私が見る限り、ルゴリオーはドロテアでの自分にも、劇場の仕事にも、満足していたと思うわ。
 だったらラウラのために? 私の前のラウラに義理立てをして? でも考えてみて、私の前のラウラは、別のルゴリオーとも一緒になっていたのよ? そんな女のために、あの私が愛さなかったルゴリオーは、私を愛そうとしなかったのかしら。仕事をふいにして、先の見通しもないままに。ねえ、考えてみてよ。例えば、私が今よりもっと歳を取って、島民達がルゴリオーに同情するほどおばあさんになってしまって、あなたを置いてドロテアを出ていったとするでしょ。そうすると、あなたは新しいラウラと暮らしはじめるのよ。ねえ、ルゴリオー? あなたは新しいラウラを愛してあげない? いいえ、そんなことないわね。新しいラウラはきっと、若くて、美しくて、魅力的なラウラなはずだもの。
 でも、あの時、私はルゴリオーを愛してあげなかったの。ルゴリオーが私を愛そうとはしなかったから。安心して。あなたは大丈夫よ、ルゴリオー。あなたはきっと、ずっと、この島でうまくやっていけるから」
 翌日には、ルゴリオーとラウラの関係を、島中の誰もが知っていたものだ。そしていつでもラウラの言葉通り、ルゴリオーはこの日を境に島民の支持を順調に得て、人気役者の一人として恥ずかしくない舞台をつとめるようになるのだった。

 

ドロテア(六) ドン・アントーニオにつづく

ドロテア カテゴリーの記事一覧